第7話 二十年前の答え

 土曜の朝八時、図書館。


 「編入試験の応用問題って、どんな内容なんだろう?」


 カノンは魔術理論の教本を見つめ、額に汗を浮かべた。ページを何度めくっても、「I組の平均以上」という基準の具体像が見えてこない。


 カノンは自分の地味な服装と、隣で華やかな私服姿のリアナとミレーネを見比べ、気後れしつつもこの特別な状況を楽しんでいた。リアナは上品なワンピース、ミレーネは柔らかな雰囲気のスカート姿で、普段の制服姿とは違う魅力があった。


 「基礎問題で八割以上、応用問題でI組の平均以上って言われても……」


 「一ヶ月で、本当に——」


 呟きかけた時、リアナが教科書をぱたりと閉じた。その音が図書館に小さく響く。


 「ええ。I組の授業でも応用的な内容は扱うけれど、試験となると——」


 リアナの声にも、いつもの余裕がない。三人の間に、重い沈黙が落ちた。


 「それに『平均点』が基準というのが厄介ね」


 ミレーネが額に手を当てる。その仕草に、普段の彼女らしからぬ困惑が滲んでいた。


 「過去問でもあれば、傾向と対策を立てられるのだけれど」


 三人は顔を見合わせた。リアナがため息をつくと、ミレーネが待ってましたとばかりに口を開いた。


 「そうなると思って、実は昨日、先手を打っておいたの」


 ミレーネは自信ありげに微笑むと、鞄から手帳を取り出した。


 「お母様に頼んで、編入制度の経験者であるエリアス=フォン=ケルナー先生に会う約束を取り付けてあるわ。今からその人に会いに行きましょう」


 「ケルナー先生って……まさか、基礎理論の教科書の?」


 カノンの驚きに、ミレーネが得意げに頷く。


 「ええ、そのご本人よ。きっと具体的なアドバイスをもらえるはず」



 ミレーネを先頭に、学院から十分ほどの住宅街へ向かう。


 「昨日の夕方、お母様が嬉しそうに話してくれたの。『木曜の研究会でケルナーさんとご一緒した際に相談したら、ぜひ会いたいと仰ってくださった』って」


 ミレーネの説明に、カノンの手のひらがじっとりと汗ばむ。高名な研究者に会うという緊張と、解決への期待が入り混じっていた。


 「お母様曰く、とても気さくな方ですって。だから心配いらないわ」


 白い石造りの家は、高名な研究者の住まいにしては質素だったが、手入れの行き届いた庭と磨かれた玄関が主の品格を物語っていた。


 ミレーネは意を決して、獅子をかたどった真鍮のドアノッカーを掴んだ。


 ゴウン、ゴウン。重く、鈍い音が二度、扉の向こうに響き渡った。


 「はーい」


 明るい声とともに扉が開き、四十代前半ほどの穏やかな男性が現れる。深みのある赤褐色の髪に柔らかな笑みを浮かべ、厳格な学者のイメージとは違う親しみやすさが漂う。


 「ミレーネのお母さんから『編入に挑戦したい生徒がいる』と聞いているよ」


 エリアスは三人を見渡し、真剣な表情になった。


 「君たちを応援したい。でも、編入制度の現実を知らずに挑戦するのは、君たちのためにならない」


 エリアスはカノンにまっすぐ視線を向けた。


 「君がカノンくんだね。どうして編入を?」


 カノンは緊張しつつ答える。


 「僕は……友達と一緒に学びたくて。でも実力が足りなくて、II組にいるんです」


 「なるほど。君たちは友人同士なんだね。いやいや、遠慮しなくていい。どうぞ入って」



 居間のソファに腰掛けると、エリアスが紅茶を淹れてくれた。


 「今の評価基準はどうなっている?」


 「基礎問題で八割以上、応用問題でI組の平均以上だそうです」


 カノンが答えると、エリアスは「ほう……」と少し考え込む。


 「二十年前は『総合的な判断』としか言われなかったが、随分明確になったね。ただ……」


 エリアスは言葉を続ける。


 「II組とI組では、経験年数でいえば3年から5年ほどの開きがある。一ヶ月でその差を埋めるのは……」


 エリアスは言葉を濁し、紅茶を一口飲むと、遠くを見つめた。


 「私も君たちと同じ年頃だった。二十年前、中間評価のあと、担任に呼び出されてね。『君を編入候補に選んだ』って言われた瞬間、手が震えたよ。世界が変わったような気がしてね」


 カノンが息を呑む。


 「でも、一晩考えて、断った」


 三人が息を呑む中、リアナが遠慮がちに尋ねた。


 「どうしてですか?」


 「理由は……複雑だった」


 エリアスは視線を落とす。


 「I組を見学してすぐに悟ったよ。『ここは俺の居場所じゃない』とね。家柄の話ばかりで、魔術の議論は二の次だった」


 エリアスは紅茶の湯気に目を落とす。


 「私の親は学院を出ていない『もぐり』の魔術師でね。最高の師だったが、そんな話は彼らには通じなかったんだ」


 エリアスは苦笑する。


 「それに、II組には苦楽を共にした仲間がいた。彼らを置いていくことはできなかったんだ」


 彼は当時の頑なさを思い出すように、小さく息を吐いた。


 「親には『千載一遇のチャンスだ』と猛反対され、三日三晩喧嘩したが、若さもあって『俺は俺の道を行く』と突っぱねた。もちろん、後悔しなかったわけじゃない。十年は苦労したよ。要職への道が閉ざされていたからね」


 エリアスは静かにそう語ると、穏やかな眼差しをカノンに向けた。


 「でも今は冠名も授与されて、満足している。君の場合は少し違う。友達を『置いて行く』んじゃなく、『追いつく』ために頑張っているんだろう? それは素敵なことだよ。二十年前の私にはなかった動機だ」


 エリアスの表情が引き締まる。


 「でも忘れないで。最終的にはカノン一人の力で証明しなければならない。二人は道を示せても、歩くのは君自身だ」


 その言葉の重みに、三人は静かに頷いた。


 「さて、話は変わるが、実技を見せてもらえるかな」


 突然の提案に、三人が身構える。


 「実は中間考査には実技もあるんだ。みんなの光魔法を見せてくれ」


 リアナが最初に手を上げる。無詠唱で、月のような完璧な光が浮かぶ。エリアスが小さく息を呑んだ。


 「……素晴らしい。I組でも上位の実力だろう」


 次はミレーネ。彼女の手のひらに現れたのは、今にも消えそうなほど小さな光だった。だが、エリアスはその光から目が離せなかった。それは単なる光ではなかった。まるで生き物のように、完璧な静寂の中でごく微かに、しかし明確な意志を持って「ゆらいで」いたからだ。


 「……なるほど。これが君の魔法か」


 エリアスは腕を組み、深く感心したように頷いた。


 「普通の生徒なら、もっと強く、明るくすることを目指す。だが君は違う。最小限の出力で、極めて複雑な構造を維持する訓練をしている」


 彼はミレーネの顔をまっすぐに見つめる。


 「お母上は高名な治癒術士だが……まさか、その基礎訓練を、これほどまでにやっているとはな。これは外科手術で人体を扱うための、ガラス細工より繊細な制御だ。その道を、その歳で選んでいるのか。大したものだよ」


 最後にカノン。詠唱しながら、ゆっくりと光を生み出す。小さく、不安定で、今にも消えそうだ。


 「む……?」


 エリアスの眉がひそまった。何かに気づいたような、鋭い視線がカノンの手のひらに注がれる。


 「この魔力の流れは……一体、どうやって——」


 エリアスは腕を組み、考え込む。


 「奇妙な規則性がある。連続的であるべき魔力放出が、まるで階段のように断続的だ。こんな制御は見たことがない。君、どうやって——」


 「実は、カノンは魔術を数式で解析するんです」


 リアナが助け船を出した。


 「数式で?」


 エリアスの目が、カチリと音を立てるように輝いた。


 「なるほど、そういうことか! これは……誰も真似できない、君だけのアプローチだ。実に独創的だよ」


 「でも、まだまだ力不足で——」


 カノンが言うと、エリアスは力強く遮った。


 「そんなことはない。君の独創性には、確実に価値がある。ただ……」


 エリアスは表情を引き締める。


 「魔術の世界には常に二種類の人間がいる。革新を求める者と、秩序を守る者だ。君のような独創的なアプローチは、前者には評価されるだろうが、後者には異端だと切り捨てられる可能性すらある」


 エリアスは、過去の自分を重ねるようにカノンを見た。


 「だが、中にはそれを正しく評価する者もいる。例えば……学院の隣にいるヴェルニカという研究者だ」


 「あの、入学式の翌日に爆発を起こした……?」


 リアナが尋ねると、エリアスは苦笑した。


 「ああ、彼女の実験はいつも派手でね。危険だが、彼女の研究がなければ今の空間魔法理論は存在しなかった。そんな彼女なら、君のような変わり者を面白がるだろう。……なに、彼女も昔は似たようなものだったのさ」


 エリアスは懐かしむように付け加えると、三人の顔を一人ずつ見つめた。


 「君たちには、私になかったものがある。I組で君を支えてくれる仲間だ。とはいえ、生半可な覚悟じゃ到底無理だろう。最後まで諦めずに、自分らしく挑戦することが何より大切だ」


 三人が頷いた時、エリアスが思いついたように口を開いた。


 「そうだ。君たちの本気を見せてもらったお礼に、私から一つ提案がある」


 三人の目が輝く。


 「ミレーネのお母さんから相談を受けた時点で、ある程度の準備をしていたんだ。編入試験の応用問題について、私なりに類似問題を作成してある」


 「ただし」


 エリアスが指を立てる。


 「これは過去問そのものではない。あくまで私の推測と経験に基づく練習問題だ。頼りすぎず、基礎力の向上も怠らないように」


 「ありがとうございます。今日、お持ち帰りできますか?」


 ミレーネが嬉しそうに頷いた。


 「もちろん。少し待っていてくれ」



 石畳の道を歩きながら、カノンは拳を握りしめていた。


 エリアス先生の「君だけのアプローチ」という言葉が、胸の奥で静かに燃えている。今まで劣等感しか感じたことがなかった自分の「変わった」方法が、価値あるものだと認められた。


 でも同時に、不安も大きかった。


 「異端だと切り捨てられる可能性すらある」


 先生の警告が頭を巡る。もし失敗したら、リアナとミレーネの努力も無駄になってしまう。


 学院の門が見えてきた時、ミレーネが口を開いた。その声には、もう迷いはなかった。


 「作戦を修正する必要があるわね」


 振り返ると、カノンとリアナが立ち止まっていた。


 「エリアスさんの話で、闇雲な努力は無駄だと分かった。でも、希望も見えたわ」


 ミレーネは二人をまっすぐに見つめ、力強く言い切った。


 「カノンの独創性を最大限に活かす。応用問題は満点を狙わず、彼の数式アプローチが通用する特定の問題に絞って部分点を稼ぐの。いわば『一点突破戦略』よ」


 カノンは深く息を吸った。不安もある。でも——もう後戻りはできない。


 「ありがとう、二人とも。僕一人だったら、とっくに諦めていたかもしれない」


 その言葉に、今度こそ本当の決意が込められていた。


 「私たちは仲間でしょう?」


 リアナが微笑む。


 「次のミーティングまでに、類似問題から出題傾向を分析し、ターゲットにすべき問題のリストを作っておくわ」


 ミレーネは自信に満ちた表情で宣言した。


 「不可能を可能にするための、最も効率的な道筋を見つけてみせる」


 夕陽が、決意を新たにした三人を照らしていた。希望と現実の両方を知った上での、真の挑戦が今、始まる。


 カノンは手の中の練習問題を握りしめた。一ヶ月。たった一ヶ月で、この難問に立ち向かわなければならない。


 夕陽が石畳を照らす中、三人はそれぞれの想いを胸に歩き続けた。

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