少女は謡う

彼岸美麗

第1話 少女の憂鬱

第一章 憂鬱


カチ、カチ、と時計の針の音がやけに耳についた。それに呼応するように、ぼんやりと意識が浮上してくる。  


天井には丸い蛍光灯がひとつ、その角には少しくすんだ色の染み、宙には埃のようなものが飛んでるように見えた。いつもの部屋、見慣れた光景、つけっぱなしのクーラーが単調な風を吐き出しながら、音量を小さくしたままのテレビが昼間のニュース番組を淡々と報道している。


2037年6月12日、午前11時43分。

14歳、月野凪、起床。そしてーー遅刻。


もう母親はとっくに仕事に出かけている時間だった。

父親はいない。私が物心つく前に離婚した。

中学3年生になったというのに、こうして登校をサボる日々。

――きっと私の将来なんて、とっくに詰んでいる。

何の意味もない。

もう夏だというのに、夏らしいことなんて何ひとつしていない。

“中学生”という肩書きだけが、ギリギリ今日という日に私を繋ぎ止めている気がした。


ゆっくりと身体を起こし、部屋の隅にある小さな冷蔵庫に向かい、スポーツドリンクを取り出す。

十分に冷えきった液体が喉を潤すも、焦点の合わない視界はぼやけたまま。

再び眠気が忍び寄ってくる…が振り払う。


髪を乱すように頭をかきむしり、大きく息を吐いてスマホの電源を入れた。

無意識のうちに繰り返す“いつもの”ルーティン。

アプリを開く――《ヘルスケアZ(ゼット) Ver.7.7》。


このアプリは、自律神経や脳波と連動した仮想空間のアバターが、自分の体調や精神状態を反映させるものだ。アバターの表情や動作は、自分の“今”を写し出す鏡のように顕在する。といってもこのアプリは体調管理とシュート〔投稿〕だけが自分の空間だけで行える。他者との共有などない独立したものだ。


5年前、SNSが発達のピークを迎えたのち、サイバー攻撃や個人情報流出、集団事件が相次ぎ、法律によって過度な他者との接続が制限されるようになった。

配信行為を含むチャット機能は規制され、友人や家族以外とのコミュニケーションは基本的に不可能になった。

ダイレクトメッセージ機能も廃止され、AIが“安全”と判断した人物――ボランティア、医療従事者、公的認定者――とのみやり取りが可能。しかも、それにはいずれも殆どが、対価の発生するものになっている。


時代はすっかりAIに呑まれていた。

音楽、芸術、アニメに至るまで、創作の大部分はAIが担っていた。


画面に表示されたアバターは、小柄な少女がひとり。


――疲れた表情で床に座り込んでいた。


アバター名:ヨル

精神状態:イライラ、不安、焦燥、悲哀、憂鬱

健康状態:かなり悪い


《サポーターメッセージ》


ヨルさん、おはようございます。

精神状態、健康状態、ともに良くないようです。

ゆっくり休んでくださいね。良い一日を。


この情報は、中学校と精神科に毎朝一度、共有される仕組みになっている。

昨今の技術の進歩により、AIの判断は“ほぼ正解”とされているため、体調が良すぎると逆に疑われる。

“なにかあったのでは”とシステムが自動で反応し、確認の電話がかかってくる仕組みすらある。


「なにが“ゆっくり休んで”よ……こっちの気も知らないで」


私はもう学校に行きたくない…。

その理由は単純――いじめられているから。

いや、正確には“存在しないもの”として扱われている。なぜなら


――無視はいじめには該当しない。


いじめを苦にした自殺が続いたことで、法制度はようやく重い腰を上げた。

証拠さえ揃えば、いじめによる死亡は“他殺”と見なされるようになった。

だが、それと同時に、法の網を巧妙にかいくぐるような“新たないじめの形”が生まれた。


私の学校では、カースト最下位の人間に対し、授業以外での必要最低限の会話しか行わないというルールが流行していた。

それがいじめだという確たる証拠にはならない。

けれど、私がその標的にされているのはどう考えようと明らかだった。


クラスの誰ひとりとして、授業外では話しかけてこない。目も合わせない。

それだけではない。“反対言葉遊び”と呼ばれる陰湿な言葉のトリックも流行していた。


「なぎちゃん、ほんと可愛いよね〜」

「ね! わたしも思ってた! クラスでいちばん可愛いと思う!」


それは“可愛い”の仮面を被った“ブサイク”の揶揄。


ある日、三つ編みにして登校したことがあった。

そのときも――

「今日のなぎちゃん、なんかオシャレ!」

「わかる、三つ編み似合ってる!」

「このクラスで三つ編みにしてるの、なぎちゃんだけだし!特別だよ!」


“特別”――異常。

それが彼女たちの言葉の裏側にあった本音だった。


会話の内容は六限目に行われる道徳の時間の"コミュニティ"の授業でのこと、放課後に言葉を交わしたこともなければ目を合わそうともされなかった。


それは顕著にみえる悪意のようなものでもなく、睨まれるでもなく、笑われるでもなく自然に、本当に存在しないかのように扱われた。


――どんな手段を使ってでも、あいつらは私を傷つけたいんだ。


毎日こんなことばかりを考えていると、何もしたくなくなる。

もしも魔法が使えたなら、こんなクソみたいな日々を全部塗り替えられるのに…。


そんなどうにもならない妄想ばかりが毎日のように巡った。そして、いじめられる原因すらどこにも見当たらなかった、きっと暇つぶしのターゲットに偶然選ばれたんだ、なぜこんな毎日を送らなきゃいけないんだろう。……死にたい。


昨日もわざと、市販薬の風邪薬を精神薬と足して飲み自律神経を狂わせた。

そうすれば体調不良の通知が出る。それなら学校に行かなくて済む。

でも、こんなこと、いつまで続けるのだろう。


結局、勉強もしていない。

今さら高校に進んだところで、どうせまた白い目で見られる、そんな予感がしていた。

怠け癖はすっかり身体に染みついてしまったみたいだ。


「ねぇ、凪。あんたは……なにがしたいの?」

自分自身に問いかける。

答えは返ってこない。

「……こんな世界、さっさと滅んでよ」


そう思った瞬間、白昼の微睡みの中、ふいに意識が静かに沈んでいく感覚に包まれた。

揺れる視界の端に、窓際に浮かぶ小さな光の玉が見えたような気がした。


……?


疑問が脳裏をかすめた瞬間、凪の意識は深く、眠りへと落ちていった。

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