第9話 定年後は温泉巡りしたかったよ

市街地物資調達作戦の会議から、数日後。


朝食を終えた農業高校の敷地内にある倉庫の奥で、それは静かに目覚めの時を待っていた。




三菱の旧式トラクター──MT205。

昭和の終わりに作られた、小型のディーゼル車だ。

今は車体側面にケーブルが這い、見るからに“純正”とは言えない状態になっている。




運転席に腰を下ろした浩平は、胸ポケットに突っ込んだ工具を片手で押さえ、息を整えた。


『……オッケー。じゃ、いくぞ』




キーをひねる。セルが唸るが、一発ではかからない。

アクセルを軽く煽ること数回──ようやく回転数が上がり、独特の振動が座席から全身に伝わってきた。


『……来た!』


マフラーから白煙が立ち上り、アクセルをもう一段踏み込むと黒く濁った煙に変わる。

浩平はしばらくアイドリングを保ち、エンジン音のバラつきを耳で確かめた。


『よし……このまま15分回せば、安定するはずだ』




このエネルギーの源は、

太陽フレアで沈黙した農業高校に残されていた、

同クラスのトラクターから外したバッテリーだ。


それだけでは電圧が安定しないため、

浩平の車から取り外したバッテリーを並列に繋ぎ、抱かせている。


サイズは合わず、取り付けステーも外したまま。

代わりに金属バンドでフレームへ仮固定し、

むき出しのケーブルで直結──まるで臓器移植だった。


一応の絶縁処理はしてあるが、専門家が見れば眉をひそめるような応急処置。

それでも、この状況では「動くかどうか」がすべてだった。




浩平は剥き出しの運転席から振り返り、後ろで見守っていた裕太に手を挙げる。


『動いたぞー! ……へへ、まだまだ捨てたもんじゃねぇな』


子供のようにはしゃぐ浩平に、裕太は思わず笑ったが、すぐ真顔に戻って頷く。


『問題は……ここからだな』


このエンジン音は、市街地から物資を運ぶための唯一の手段であり──同時に、音を聞きつける“何か”への招待状でもあった。




『おぉー! 本当に動いてるな!』


倉庫の入り口から克俊の声。

埃と錆にまみれた車体を、まじまじと見つめる。


『こんなオンボロが、今じゃ希望の星だもんな……燃料は?』


『慣らし運転がてらタンクまで走らせて満タンにします。手回しなんで腕が死にますけど』


浩平は鼻を擦りながら苦笑い。


『ははは! じゃあ早速走らせるか!』




ボボボッ…ガラガラガラガラッ──。

ディーゼル特有の野太い排気音が敷地に響く。

黒煙を撒きながら走る姿は、初めて見れば不安になるほどだろう。


久々に聞くエンジン音に、避難民たちの視線が自然と集まる。

50メートルほど走らせ、校舎脇の燃料タンクの前で停車。


停電で電動ポンプは使えないため、給油は手回しだ。

錆や固着によってハンドルは重く、大人でも2〜3分回せば限界。

裕太、浩平、克俊の3人で交代しながら回し続けること15分──ようやく油面が見えた。


『おーっと、ストップ!』


克俊の声で給油完了。


『きっつ……はぁ、はぁ……ははははっ!』


想像以上の重労働に浩平が息を切らし、つられて裕太と克俊も笑い合う。




『お疲れ様ですー……って、何やってるんですか?』


忠司がやってきて、笑う3人を怪訝そうに見た。


『あー、なんでもねぇよ!』


克俊が笑いながら返す。


『今日のところは、トラクターの調子を見ながら市街地までの道中で民家の物資を回収します。清次さんと君枝さんにも声をかけてありますので、会議室までお願いします』


『分かりました、すぐ行きます』


裕太がそう告げ、一行は校舎へ向かった。




会議室のドアを開けると、すでに10名ほどの避難民や役職者が市街地周辺の地図を広げて最終確認をしていた。


白髪混じりの男性が顔を上げる。


『お待ちしてました。トラクターの具合は?』


山本清次やまもとせいじ(61)。今年定年退職したばかりの元警官で、長年市街地の交番に駐在していた地域通だ。


『ほんと、大したもんよねー! やっぱり手に職がある人はすごいわー』


はきはきと声を上げたのは安田君枝やすだきみえ(65)。

市街地郊外で美容室を営み、民選委員として地域に頼られてきた人物だ。

トレードマークのショートカットは、少し伸びている。




『準備は整いました。……いよいよですね』


猟銃ケースを肩に担ぎながら裕太が言う。


『なんだか土壇場になって緊張してきちゃったわ。……大丈夫よね?』


君枝の不安げな視線が、裕太の猟銃に向かう。


『ここから先、安全は保証できませんが……行く価値はあります。人数が多いので、今回はこいつを持ってきました。いざという時は迷わず撃ちます。銃声が聞こえたら作戦中止。何もかも捨てて迷わず逃げてください。誰かが襲われても、丸腰の方は助けに行かないでください。被害が広がります』


太陽フレア以前から獣害の最前線で戦ってきたハンターの言葉には重みがあった。


『分かってます。生きるために向かうんですから、リスクは承知です』


清次が静かに応じる。


『どの道、このままじゃ冬に誰か凍え死ぬ。今こうして生きてること自体、奇跡かもしれねぇ。だったら開き直って行くしかねぇべ』


克俊が場の空気を引き締めた。


『……そうね。ごめんなさい! 行きましょう!』


君枝は両手をポンポンと叩き、立ち上がった。




外に出ると、見送りの避難民たちがトラクターの周りに集まっていた。


『留守は頼んだぞ』


克俊が若い消防団員たちに声をかけると、『任せてください!』『いってらっしゃい!』と力強い返事が返る。

他の調達隊メンバーも、それぞれ別れの言葉を交わしていた。


『では皆さん、よろしくお願いします。どうか無事に帰ってきてください』


校長・信介が代表として送り出す。


『いってきます!』




掛け声と共に、トラクターは黒煙を上げ、騒音を響かせながら避難所を後にした。

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