馬鹿と煙はなんとやら

来海ひおり

高く、高く。

 網の端で炭になった人参をトングで突きながら、私は適当に相槌を打った。目の前で大ジョッキを傾ける絢奈はもう何杯も飲んでいるというのに顔の色一つも変えない。網の真ん中を陣取るホルモンの色も変わらず、焼けているのかは分からない。トングの先でぐりぐりと押すと油が垂れ、火が大きくなった。


 私が店に着いたときにはもう絢奈は二杯のジョッキを空にしていた。ちゃんと和美が来るまで待っていたよ、と言われたがそれは肉を焼いていないだけで、サイドメニューが並べられた机を見るに、それは待っていたには入らないように思ってしまう。


 いくら飲んでも顔色一つ変えない彼女を前に、ノンアルコールの甘い微炭酸を喉に流し込む。ベリーの甘すぎるソースは炭酸水に溶けても口の中に人工的なきつい甘さを残す。水滴のついたピッチャーを傾け、小さなコップに水を注いで流し込んでも、薄らと口の中にはベリーが残った。


 絢奈は口を開かない。正しくは、言葉を発さない。ただ黙々と肉を焼き、酒を流し込み、肉や米を頬張った。ただ元々マルチタスクを得意としない彼女にそれは酷だと感じ、そっと一つしかないトングを奪い取る。これまで二人で焼肉に来たときは、気を使ってかトングを離さず肉を焼いて皿に乗せてくれる絢奈も、今日はそれを私から取り返そうとはしなかった。


 高校時代から始まった二人での決起集会。激安チェーン店の食べ放題でどれだけ元が取れるか競うように食べていた。会話では無く食べることを優先する外食は何処か不思議なもので、しかし決して空気の悪いものでは無かった。それから高校卒業後も予定を合わせては二人で食事に行った。女子大生になったと意気込んだ絢奈に連れられ、洒落た店に連れていかれたこともあった。けれど私たちには到底似合うはずも無く、結局はこの安いキムチと酒があればいいと店を変えることは無かった。


 咀嚼音だけが個室に響く。いつもの慣れた掘り炬燵の席では無い席だ。予約しておいたと、絢奈からメッセージが届いたのは今日の夕方のこと。最後の講義中に何度も光ったスマホの画面をこっそりと覗けば、たった一言送られていたその言葉と、既読無視を叱る何とも言えない表情をしたおじさんのスタンプが十数件。バイトも入っていなかったからこちらも何とも言えない表情をしたおじさんが頭の上で大きく丸を作っているスタンプを一つ送った。それだけの会話とも言えないやり取りの末、決まったのがこの会だ。


 絢奈との決起集会は久しぶりだなと少し胸を躍らせ個室の襖を開けるとジョッキを傾ける彼女と目が合った。胸元まで伸びた綺麗な黒髪はきつく縛られていたのか薄らと型がついてしまっていて少し不思議な印象を抱く。


「……就活、してるんだっけ?」


席に座るや否や、変わらないねと絢奈は私に言った。そう言った彼女に絢奈もね、とは返せそうになかった。口から出たのは当たり障りない世間話。学校の違う彼女との話題探しは時事ネタか昔話が多かった。今回は大学内でもちらほらと耳にする機会が増えた話題を振ってみた。


 その問いに、絢奈は曖昧に笑ってジョッキを煽った。やけ酒かと理解するには十分な反応だった。手渡された注文用のタブレットにはノンアルコールとソフトドリンクのメニュー画面が表示されている。絢奈はそういう気が使える子だ。いつものようにコーラを頼んだ。注文履歴を遡ってみると、絢奈は既に生ビールとハイボールを飲み終わっているようで、その飲む速さに驚き、更に注文履歴には表示されているのに卓上にない料理名を見ては食べる速さにも驚いた。


 気だるげな店員がコーラを持ってきて、空いた皿を下げていく。一通りメニューに目を通し終わった後絢奈にタブレットを返し、適当に注文お願いします、といつもと変わらない言葉を掛けた。

「どうっすか」

注文完了を押す前、絢奈は再度私にタブレットを手渡した。その注文は、少し量は多いものの普段と変わらない内容だった。

「タン塩どうせ追加するんでしょ、三人前で良いじゃん」

何品かを追加して、絢奈に返すと追加されたものを確認するでもなく、注文完了が押された。


 注文したものが届くと、絢奈は黙々と肉を網へと並べた。それから会話も無く、二人して肉を頬張った。私がトングを奪い絢奈を食べることに専念させると焼けるよりも食べる方が早く、網には常に生の肉が並んでいた。しかし絢奈は手持無沙汰になることも無く、肉が無いならとキムチをつまみに酒を煽った。


 段々と絢奈の食べる速度も飲む速度も落ちていった。それでも彼女は食べる手を止めることは無かったし、きっと凄い速度で凄い量の酒を飲んでいたのだと思う。


「和美、食べてる?」


三度目の追加注文が終わった後、グラスを置いて絢奈はそう言った。食べているよ、と返したが不満げな表情を浮かべ、彼女は私の手元に置いていたトングに手を伸ばした。


 何度目かの気だるげな店員はタン塩とハラミを持ってきた。絢奈は私とは違って、綺麗に肉を網の上に並べる。几帳面な彼女らしいと言えばらしいが、きっとそれを言うと彼女は怒るのだろう。血液型占いを信じるのは日本くらいだ、と。


 形勢逆転。今度は私が無言で肉を頬張る番だった。絢奈は焼けた肉があると有無を言わせず私の皿へと肉を移した。私の好みを嫌というほど理解している彼女はカリカリに表面が焦げるまで肉を焼いてくれた。


「……それ、絶対肉の良さ殺してる」

「別にいいじゃん、お腹下すよりさ」


いつの間にか頼まれていた白米と一緒に肉を咀嚼する。食べ放題じゃ無いのにこんなに食べて大丈夫なのか、焼けていく肉を見て考えていたのはそんなことだった。


 食べ放題じゃないのなら、ゆっくりと食べれば良いのではないか。気づいたときには遅かった。目の前の彼女は見た目には分からないものの、随分と酔いが回っているようだ。


「……そんなに飲んで、明日大丈夫なの」


彼女が持つ洋酒が何杯目なのか、数えることは止めてしまったけれどこれだけの量を飲んでも変わらない彼女は相変わらずザルのようだ。


「んー、んー?ま、大丈夫でしょ」


幾つか柔らかくなった声色で、ゆっくりと喋る様子を見るにアルコールが効かない身体では無いはずだ。それでも彼女は酒を飲む手を止めない。


 注文履歴を見ると若い女二人で食べる量とは思えない値段が表示されていて、多めにお金を下ろしておいて良かったと思った。


「私、明日も授業あるんだけど」

「そっかあ……帰っちゃう?」

「いや、まあまだ大丈夫だけど」


何故か久しぶりの会話は余りにも弾まなかった。ただ絢奈が酒を飲む。それを私が見る。そんな時間が流れていた。


 結局、絢奈はラストオーダーまで居座った。二人でちびちびとサイドメニューをつまんだり、気になった期間限定メニューを食べてみたりしながら。何度か彼女のスマホが鳴った。電話も何度か掛かってきた。「彼氏じゃないのか」そう言っても彼女は連絡を見ようとはしなかった。


「リア充が」

「別に、彼氏くらいいるでしょ」

「いないから言ってんだけど」


ラストオーダーで頼んだ卵スープとホットウーロン茶が届く。その頃には小言も言えるくらいに絢奈は通常運転に戻っていた。特別彼女がおかしかったという所はこれといって思い浮かばないけれど。


 レンゲで器用に葱を避ける絢奈を見ながら、ホットウーロン茶にピッチャーの水を注ぐ。


「……それ、外では止めたほうが良いと思うよ」

「葱も、外ではちゃんと食べたほうが良いと思うよ」

「え、うるさいんだけど」


変わらない彼女に安心する。高校生の頃は素面でずっと馬鹿みたいな話をしてたんだもんなと思い出に浸っていると、和美は今も素面だけどね、と野次を飛ばされた。


 変わらない。変わってくれない彼女は、何度かレンゲでスープを啜った後、面倒くさそうに容器を持ち上げ、直接口をつけた。


「口の中、火傷しちゃうよ」

「んー?猫舌じゃないもん」

「猫舌って存在しないんだよ」

「……それ、私が教えたやつじゃん」


意気揚々と私に教えた豆知識を私が使ったのが気に食わなかったのか、絢奈は小さくべーっと舌を出した。子供のような、それこそあの頃と変わらない彼女が居た。


 過去に縋りすぎだよと、いつだったか友人に言われたことを思い出す。大学の友人に絢奈の話をした時だっただろうか。自分には普通だった感覚が、普通では無いことを知った。絢奈とはこれから先もずっと変わらず友達で、回数は減ってもこれからもこの店で定期的に決起集会を開いて馬鹿をやるのだと。そう信じて疑わない自分が居た。それに絢奈との限られたやり取りの中でも彼女もこの関係を望んでくれていると感じることが出来たから。


 絢奈がトイレに行って帰ってきたところにそのまま帰るよと声を掛けた。不服そうだったがここで座られるとまた店を出るのに手こずってしまうことは目に見えている。彼女に羽織りものと鞄を手渡すと、ありがとうと小さく笑った。


 彼女の後姿をぼんやりと眺める。トイレでやってきたのか、髪は高い位置で綺麗に結われている。何も変わらないはずの彼女は、あの頃の彼女が霞んでしまうほどに変わってしまった。あまり詳しくない私でも分かるほどのブランド品で身を固めた彼女はこんな激安店には不釣り合いだ。彼女の背中を追う。彼女が手に持った鞄も、その中から当然のように取り出された分厚い財布も、全てが綺麗なブランド品だ。


 レジで絢奈は私に財布を出させなかった。前の客の会計を待つ間、何度か提案した割り勘も聞く耳すら持たれずに終わった。会計中、意図せず目に入った財布の中には多くのお札が入っていた。きっとその全てが万札なのだろう。


 流石に飲みすぎたのかゆっくりと歩く彼女の腕を取って店を出る。ご馳走様でした、と伝えると、表情を緩ませながら、そのお礼は受け流された。無駄に広い駐車場を通り、国道沿いに出ると絢奈は小さく声を漏らした。その視線を追う。彼女は向かいの歩道に誰かを見つけたようだった。私の腕を握った力が幾つか強くなった。それにも、私は気づかないふりが出来る。


「……今日は帰るの?」

「え……ああ、うん……帰ろうかな……」


私だけ、昔に縋っている。それは強ち間違いじゃないのかもしれない。


「どっちに帰るの?」

「……どっちって、何」

「んー?」


街灯の灯りで絢奈の顔が照らされる。今日彼女の顔を見て抱いた不思議な印象に、違和感に漸く気づけた。


 トートバックを漁り、申し訳程度に入れられた橙色の混じったピンクのようなコーラルのリップティントをリップの剝がれた彼女の唇に押し付ける。初めこそ動揺し、逃げるように身体を逸らされてしまったけれどリップだと気づくと彼女はそれを受け入れた。


「……んー、やっぱりこっちじゃない?」


スマホの内カメを使って見せるが、街灯の灯りでは上手く見ることは出来なかった。


「和美と同じ色?」

「そ、コーラルっていうの?詳しいことはわかんないんだけどさ」

「……そっか」


ありがとうと、絢奈は口角を上げた。私の問いに、答えは無い。


 くぐもった音でスマホが鳴る。鞄から取り出して目を通すと、絢奈は小さく肩を落とした。それから私の顔を見て、申し訳なさそうにそろそろ行くね、とスマホを鞄に戻しながら口にした。


「……うん、また連絡する」

「気をつけて帰るんだよ」

「酔っ払いこそね」

「うるさいって……じゃあね」


コツコツと無駄に高いヒールを鳴らして遠ざかる後ろ姿。小綺麗なブランド物を見て、何故私は就活かなんて聞いてしまったのだろう。彼女の伸びきって鮮やかな色に塗られた爪も、赤いリップも、その全てが就職生のそれとは似ても似つかないのに。


離れていく後ろ姿に、声を掛ける。

絢奈は驚いたように振り返り立ち止まる。


「絢奈さ、赤リップなんて似合わないんだからさ!」


少し声を張り上げる。表情は読み取れない。眼鏡は必要ないにしろ、自分の視力の悪さを憎んだ。


「メイクも、ナチュラルな方が、私は好き」


何台か車が通り過ぎる。店から客がぱらぱらと出てくるのが見えた。


「後さ、それ髪の毛痛んじゃうよ」


私が言葉を続けても、絢奈は声を上げなかった。言葉を探しているのか、それとも端から返事なんてする気が無いのか。それは分からないけれど。私は返事を必要としていない。


「ごめん!それだけ!」


呼び止めたくせに、彼女を置いて踵を返す。


何歩か歩いて振り返る。絢奈の後ろ姿はどんどんと遠くなり小さくなっていた。何度か顔の高さで横に動かされた腕。中途半端に見えてしまう目に、少し苛立ちを覚えた。


そんなに嫌なら、帰らなければいいのに。私ならありのままの絢奈で居られる場所を提供できるのに。そんなに縛られてまで、男に、お金に、執着してしまう子だっただろうか。赤リップも馬鹿みたいに高い位置で縛った黒髪も、ブランド品で固められた身の回りも、彼女にはちっとも似合いやしない。


「……本当に趣味悪い」


絢奈を放っておく彼氏も、絢奈をどんどん変えていく浮気相手も、それに依存している絢奈も。そんな絢奈に縋っている私も。本当に、馬鹿みたいだ。

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馬鹿と煙はなんとやら 来海ひおり @kurumi_nono_

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