第29話 逃亡者たちの不器用な夜

聖女に手を引かれ、霧の中をひた走る。

背後からは、かつて彼女の部下だった者たちの、怒りに満ちた声が聞こえてくる。

訳が分からない。

だが、今は、生き延びることだけを考えなければならない。


「……こっちです!」


イリスは、谷の岩壁に隠された、獣道のような細い道へと俺を導いた。

数分も走っただろうか。

やがて、水の音が聞こえ始め、俺たちは、小さな滝の裏側にある、洞窟へとたどり着いた。


「……ここまで来れば、ひとまずは」

イリスは、滝の水音で外界から隔絶された洞窟の中で、ようやく俺の手を離した。

彼女も、息が上がっている。その額には、玉のような汗が浮かんでいた。


途端に、気まずい沈黙が、俺たち二人を支配した。

敵だった女。

ついさっきまで、殺し合っていた相手。

その女と、今、二人きりで、狭い洞窟の中にいる。


「……」

「……」


先に口を開いたのは、イリスだった。


「その肩、見せてください」

彼女は、俺が先ほど斬られた肩を指さした。


「断る。あんたに、これ以上隙を見せるつもりはない」


「治療するだけです。わたくしの聖法気マナは、治癒の力に特化しています。放っておけば、傷口から闇の気が入り込み、厄介なことになりますよ」

彼女は、有無を言わさぬ口調で言うと、俺の隣に膝をつき、俺の服の破れた部分に、そっと手をかざした。


温かい、柔らかな光が、彼女の手のひらから溢れ出し、俺の傷を包み込む。

痛みと、熱が、すうっと引いていくのがわかった。

これが、聖女の力……。


「……なぜ、俺を庇った」

俺は、治療をされるがまま、問いかけた。


「さっきも言ったはずです。あなたのその力こそが、希望だと、わたくしは信じているから」

イリスは、顔を上げずに答えた。

「そして……わたくしは、シオンを利用した。その罪滅ぼし、というわけではありませんが……これ以上、あなたたちの関係を、わたくしの都合で踏みにじるわけにはいかないと思ったのです」


その横顔は、聖女というより、ただの後悔に苛まれる、一人の女性の顔だった。

俺は、それ以上、何も言えなかった。



(リリム視点)


戦場は、混沌としていた。

聖王国軍は、指揮官である聖女の失踪により、混乱の極みにあった。

ゼノンとルナリアの活躍で、戦況は我ら魔王軍が圧倒的に有利。


じゃというのに……!


妾の心は、鉛のように重かった。


「見つからんのか! アレンは! あの聖女と一緒に、どこへ消えた!」


妾は、城壁の上から、眼下の部下たちに怒鳴り散らしていた。

あの光の後、アレンの気配は、聖女イリスの気配と共に、完全に戦場から消え失せていた。

妾の眷属たちが、森の隅々まで探しておるが、いまだに何の報告もない。


「リリム様、お気を確かに。アレン様のことです、きっとご無事ですわ」

隣で、ルナリアが慰めるように言う。


「うるさい! あの女狐め……! アレンを誑かしおったに決まっておる! 捕らえたか、あるいは……!」

最悪の想像が、頭をよぎる。

アレンが、あの女に、寝返った?

いや、それだけはありえん。あやつは、妾と『契約』したのだ。生きて帰ってくると!


「魔王様!」

その時、血相を変えたエリアが、妾の元へ駆け寄ってきた。

「ライアス様と、シリル様が……!」


妾は、舌打ちを一つすると、エリアに案内されて、地下の客間へと向かった。

そこでは、傷の癒えたライアスが、今にも飛び出さんばかりの勢いで、扉の前に立っていた。


「魔王! アレンはどこだ! あんたの部下なんだろ、なぜ一人にした!」

妾の顔を見るなり、ライアスは胸ぐらを掴まんばかりの勢いで詰め寄ってきた。


「離せ、人間! 妾が、一番それを聞きたいわ!」

妾がライアスを睨みつけると、彼はぐっと言葉に詰まった。


「……すまない。だが、このままじゃ……!」


「わかっておるわ! 今、全力を挙げて探させておる!」


妾とライアスが、アレンのことでいがみ合う。

妾たちの心は、今、一つだった。

アレンを、取り戻す。

ただ、それだけじゃ。



(アレン視点)


洞窟の中。

イリスによる肩の治療が、終わった。

傷は、跡形もなく、完全に塞がっている。


「……礼は、言わん」


「ええ、結構です」

イリスは、静かに微笑んだ。

その笑みは、もう、俺が知っている聖女のものではなかった。


彼女は、覚悟を決めたようだった。

彼女がなぜ、教団を裏切ってまで、俺と接触しようとしたのか。

世界の真実とは、なんなのか。


「アレン。わたくしたちの世界の戦いの歴史は、全て、偽りです」


「……どういう意味だ」


「聖王国を統べる教皇……いえ、あの男が求めているのは、魔王の討伐ではありません。あの男が求めるのは、魔王の心臓。それを用いて、禁断の『神格化』の儀式を行い、自らが新たな神となること」


「……神に、なる……?」

スケールが大きすぎて、理解が追いつかない。


「その儀式のためには、いくつかの触媒が必要でした。その一つが、三年前、シオンが命を落としたあの任務の奥で、あなたたちの王国が手に入れた、古代のアーティファクト。教皇は、そのために、あなたたちの王国と取引し、シオンを見殺しにさせたのです」


シオンは、ただ、そのために…。

巨大な陰謀の、小さな歯車として。

怒りで、奥歯を強く噛みしめた。


「あの男が神になれば、世界は終わります。聖も魔も、人も、全てが、あの男一人の意思の下に作り変えられる。わたくしは、それを、止めなければならない」

イリスは、祈るように、続けた。

「アレン。わたくしは、あなたに助けてほしいのです。あなたの『黎明の力』だけが、あの男の野望を打ち砕く、唯一の可能性なのですから」


聖女からの、世界の命運を懸けた、依頼。

俺は、追放された、ただの冒険者だぞ。

あまりにも、荷が重すぎる。


俺は、答えを出せずにいた。

魔王城では、リリムたちが、俺の帰りを待っている。

俺は、一体、どうすればいいんだ。


俺が答えを出す前に、イリ-スは、ふと、洞窟の外に視線を向けた。

その顔に、緊張が走る。


「……まずいですね。追手が、もうここまで」


彼女の言葉と同時に、滝の音が、不自然に途切れた。

洞窟の入口が、複数の人影によって、塞がれる。

その中の一人は、俺がよく知る、そして、今一番会いたくない男だった。


「――見つけたぞ、アレン。そして、イリス様」

くらい瞳で、シオンが、そこに立っていた。

「二人まとめて、ここで始末する」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る