第29話 逃亡者たちの不器用な夜
聖女に手を引かれ、霧の中をひた走る。
背後からは、かつて彼女の部下だった者たちの、怒りに満ちた声が聞こえてくる。
訳が分からない。
だが、今は、生き延びることだけを考えなければならない。
「……こっちです!」
イリスは、谷の岩壁に隠された、獣道のような細い道へと俺を導いた。
数分も走っただろうか。
やがて、水の音が聞こえ始め、俺たちは、小さな滝の裏側にある、洞窟へとたどり着いた。
「……ここまで来れば、ひとまずは」
イリスは、滝の水音で外界から隔絶された洞窟の中で、ようやく俺の手を離した。
彼女も、息が上がっている。その額には、玉のような汗が浮かんでいた。
途端に、気まずい沈黙が、俺たち二人を支配した。
敵だった女。
ついさっきまで、殺し合っていた相手。
その女と、今、二人きりで、狭い洞窟の中にいる。
「……」
「……」
先に口を開いたのは、イリスだった。
「その肩、見せてください」
彼女は、俺が先ほど斬られた肩を指さした。
「断る。あんたに、これ以上隙を見せるつもりはない」
「治療するだけです。わたくしの
彼女は、有無を言わさぬ口調で言うと、俺の隣に膝をつき、俺の服の破れた部分に、そっと手をかざした。
温かい、柔らかな光が、彼女の手のひらから溢れ出し、俺の傷を包み込む。
痛みと、熱が、すうっと引いていくのがわかった。
これが、聖女の力……。
「……なぜ、俺を庇った」
俺は、治療をされるがまま、問いかけた。
「さっきも言ったはずです。あなたのその力こそが、希望だと、わたくしは信じているから」
イリスは、顔を上げずに答えた。
「そして……わたくしは、シオンを利用した。その罪滅ぼし、というわけではありませんが……これ以上、あなたたちの関係を、わたくしの都合で踏みにじるわけにはいかないと思ったのです」
その横顔は、聖女というより、ただの後悔に苛まれる、一人の女性の顔だった。
俺は、それ以上、何も言えなかった。
◇
(リリム視点)
戦場は、混沌としていた。
聖王国軍は、指揮官である聖女の失踪により、混乱の極みにあった。
ゼノンとルナリアの活躍で、戦況は我ら魔王軍が圧倒的に有利。
じゃというのに……!
妾の心は、鉛のように重かった。
「見つからんのか! アレンは! あの聖女と一緒に、どこへ消えた!」
妾は、城壁の上から、眼下の部下たちに怒鳴り散らしていた。
あの光の後、アレンの気配は、聖女イリスの気配と共に、完全に戦場から消え失せていた。
妾の眷属たちが、森の隅々まで探しておるが、いまだに何の報告もない。
「リリム様、お気を確かに。アレン様のことです、きっとご無事ですわ」
隣で、ルナリアが慰めるように言う。
「うるさい! あの女狐め……! アレンを誑かしおったに決まっておる! 捕らえたか、あるいは……!」
最悪の想像が、頭をよぎる。
アレンが、あの女に、寝返った?
いや、それだけはありえん。あやつは、妾と『契約』したのだ。生きて帰ってくると!
「魔王様!」
その時、血相を変えたエリアが、妾の元へ駆け寄ってきた。
「ライアス様と、シリル様が……!」
妾は、舌打ちを一つすると、エリアに案内されて、地下の客間へと向かった。
そこでは、傷の癒えたライアスが、今にも飛び出さんばかりの勢いで、扉の前に立っていた。
「魔王! アレンはどこだ! あんたの部下なんだろ、なぜ一人にした!」
妾の顔を見るなり、ライアスは胸ぐらを掴まんばかりの勢いで詰め寄ってきた。
「離せ、人間! 妾が、一番それを聞きたいわ!」
妾がライアスを睨みつけると、彼はぐっと言葉に詰まった。
「……すまない。だが、このままじゃ……!」
「わかっておるわ! 今、全力を挙げて探させておる!」
妾とライアスが、アレンのことでいがみ合う。
妾たちの心は、今、一つだった。
アレンを、取り戻す。
ただ、それだけじゃ。
◇
(アレン視点)
洞窟の中。
イリスによる肩の治療が、終わった。
傷は、跡形もなく、完全に塞がっている。
「……礼は、言わん」
「ええ、結構です」
イリスは、静かに微笑んだ。
その笑みは、もう、俺が知っている聖女のものではなかった。
彼女は、覚悟を決めたようだった。
彼女がなぜ、教団を裏切ってまで、俺と接触しようとしたのか。
世界の真実とは、なんなのか。
「アレン。わたくしたちの世界の戦いの歴史は、全て、偽りです」
「……どういう意味だ」
「聖王国を統べる教皇……いえ、あの男が求めているのは、魔王の討伐ではありません。あの男が求めるのは、魔王の心臓。それを用いて、禁断の『神格化』の儀式を行い、自らが新たな神となること」
「……神に、なる……?」
スケールが大きすぎて、理解が追いつかない。
「その儀式のためには、いくつかの触媒が必要でした。その一つが、三年前、シオンが命を落としたあの任務の奥で、あなたたちの王国が手に入れた、古代のアーティファクト。教皇は、そのために、あなたたちの王国と取引し、シオンを見殺しにさせたのです」
シオンは、ただ、そのために…。
巨大な陰謀の、小さな歯車として。
怒りで、奥歯を強く噛みしめた。
「あの男が神になれば、世界は終わります。聖も魔も、人も、全てが、あの男一人の意思の下に作り変えられる。わたくしは、それを、止めなければならない」
イリスは、祈るように、続けた。
「アレン。わたくしは、あなたに助けてほしいのです。あなたの『黎明の力』だけが、あの男の野望を打ち砕く、唯一の可能性なのですから」
聖女からの、世界の命運を懸けた、依頼。
俺は、追放された、ただの冒険者だぞ。
あまりにも、荷が重すぎる。
俺は、答えを出せずにいた。
魔王城では、リリムたちが、俺の帰りを待っている。
俺は、一体、どうすればいいんだ。
俺が答えを出す前に、イリ-スは、ふと、洞窟の外に視線を向けた。
その顔に、緊張が走る。
「……まずいですね。追手が、もうここまで」
彼女の言葉と同時に、滝の音が、不自然に途切れた。
洞窟の入口が、複数の人影によって、塞がれる。
その中の一人は、俺がよく知る、そして、今一番会いたくない男だった。
「――見つけたぞ、アレン。そして、イリス様」
「二人まとめて、ここで始末する」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます