彼女の瞳に映る
高守 帆風
彼女の瞳に映る
夜中でも、住宅街は明るかった。信号が青になるのを待ちながら向こう側のマンションを見る。夏だからか平均起床時間も長くなるのだろうか。自転車に乗った20代くらいの若者が歩道で隣に並んだ。車の少ない中で大人しく待っている人を見かける度、この街の治安が良くてよかったと安堵する。信号が青に切り替わって歩き出すと、自転車の彼はあっという間にサラリーマンを追い越した。
手前のマンションを抜けていくつかの店を横切ると、自宅のマンションが見えてくる。大きな敷地に二つの棟が並んだ、茶色の外装が印象的な建物だ。
手前の玄関で鍵を挿すと扉が開く。8階まで階段で上がるのは億劫なため奥のエレベーターまで歩く。ふと、すぐ手前のエレベーターに長髪の女性がいることに気づいた。微動だにしない綺麗な立ち姿に、一瞬目を奪われた。しかし、エレベーターの上の矢印のボタンを押していないのか、ボタンは光っていなかった。少し気になったけれど、こんなおっさんが聞くのも野暮だと思いそのまま通り過ぎた。
毎度の事ながら残業は微々たるストレスを募らせていた。しかし、家に帰れば妻が料理を作って待ってくれている。共働きなのに料理は自らしてくれているのだから、甘んじてできるだけ早く帰れるよう気をつけていた。時計を見ると19時を過ぎていた。慌ててパソコンを閉じて、残っている上司に腰を折りながら先にオフィスから出た。
昨日より少し遅い電車に乗り、時計を確認すると家に着くのは21時前になりそうだった。1度乗り換えて電車を待つ。
ふと、昨日見かけた女性のことが頭をよぎった。その場では綺麗に見えたはずなのに、思い返すと少し不気味な雰囲気だったように思う。
あまり彼女のことを考えたくなくてスマホでアプリゲームを起動する。電車の中のこの時間はゲームに夢中になれて一時を忘れることができる。3ゲームほどしたところで最寄り駅のアナウンスが流れた。
今日は信号待ちをすることなくマンションに辿り着いた。前にあるマンションの電気が半分ほど付いていなかったためいつもより夜らしさを感じた。
マンションの玄関を通り過ぎると、昨日の女性はまたそこにいた。ボタンも押されていない。よく見たら、彼女には足がなかった。喉の中でひゅ、と風がなる。サラリーマンは見てないふりをして足早に通り過ぎた。
奥のエレベーターを震える指で連打して、慌てて8のボタンを押して閉めた。
エレベーターから部屋はそう遠くなく、いつもより早足で帰宅した。
「た、ただいま」
「おかえりなさい、遅かったね」
洗濯物を畳んでいたらしく、妻は玄関から近い部屋から出てきた。濡れた髪を見てドライヤーはいいのかと尋ねると、めんどくさくて、と返ってきた。
「冬じゃあるまいし、早く家事終わらせたいのよ」
「そうか…早く帰って来れなくてごめん」
「ご飯先食べるでしょ?温めるのはお願いね」
「もちろん」
妻はいわゆるキャリアウーマンで、体力があるからか仕事も家事もテキパキこなせる人だった。この家を買ったのも彼女のお金がほとんどだ。最初は彼女といると楽ができると思って付き合っていたのに、今では自分の無能感を叩きつけられているようで少し苦しい。仕事してるだけ偉い、とフォローしてくれるがそれもまた重い言葉だった。
「なぁ、今日は外に出たか?」
「夕方に買い物に出かけたけど。どうしたの?」
「いや…1階のエレベーター前に女性がいなかったか?長髪の」
「長髪の女性? マンション内でもあまり見かけたことないけど」
「そ、そうだよな…うん」
「何、浮気?綺麗な人だったんだ?」
やっぱりあの女性は霊の類なのだろうか。そう思って聞いただけなのに妻は少し口元を歪ませていじけたように揶揄った。冗談のような声色だったけれど、霊だと言っても信じて貰えないような気がして言い訳もできなかった。
「ご飯行きましょうよ!先輩!」
珍しく定時までに仕事が終わったと思ったら、部下に声をかけられた。誘ってくれるのはとても嬉しいけれど、先に確認しようと妻のLINEを開く。律儀ですねと意外そうに言われて、怒ってみせるけれど全然怖くないと言われてしまった。
無事妻から了承を貰い、部下2人と居酒屋に入った。
今日は飲むという部下に合わせてビールを頼み、焼き鳥やえだまめをつまみに会社の愚痴をお互いに話した。アルコールが回ってくると、良くないと思いつつ家での愚痴も喋ってしまった。
「なんだかんだ一人暮らしは悪くないと思うんだよ」
そう締めると、部下1人は神妙に頷いていた。飲みに誘ったもう1人の部下は心外だというように肩を組んできた。酒の匂いが肩にかかる。
「そんなこと言っちゃダメっすよ~。俺最近彼女できて、仕事のモチベ爆上がりっすよ!奥さん大切にしましょ!」
「そうだよな…うん…」
他にも言いたいことがあったが、酒と一緒に飲み込んだ。それからも言いたい放題の部下の話を聞きつつ、体調に差し障らない程度で酒を止めて外に出た。夏の夜はジメジメしているから酔い覚ましにはなりにくい。
まだふらふらした頭を振って駅で別れた。
最寄り駅に着く頃にはある程度酔いが覚めていた。車の走行音を聞きながら早く秋にならないかと思った。せめて風があれば気持ちいいのに。
マンションの玄関をくぐると、また彼女はいた。不思議と、ジメジメした空気を感じなくなっていた。止まりかけた足を無理やり動かして、彼女の後ろを通り過ぎようとした。
「私のこと、視えるんですか」
止まって、しまった。
まさか声をかけられるとは思っていなくて、びっくりして足を止めてしまった。
「私が、視えるんですか」
そこで、初めて彼女と目が合った。
目は大きいのに、どこか昏さがあって光がなかった。少しも動いていないはずなのに距離が近く感じて、咄嗟に走って逃げた。
「すみません!ごめんなさいっ!!」
何に謝っているのか分からないまま、エレベーターに入って何度も閉のボタンを押した。彼女はあの場所にいるままなんだろうか。 害がないなら良かったけれど、気味が悪い。何かそこにいる気がして、チラチラと周りを見ながら家へ逃げ帰った。
8月も終わりに近づいてくると、毎度夏らしいことが出来なかったと嘆く社会人が増えてくる。上司に言われた資料を抱えて人事部の前を通ると、定時デーを部署ごとに作らないかという話が聞こえてきた。
勝手に噂を広めてこれを確実にするべきか、それとも後で怒られないように安易なことは言わないでおくべきか葛藤した。そんなことを考えているとあっという間に部署に戻ってきていた。
「いやー助かるよ。さっき聞いたんだけどさ、今日部長の奢りでパーティだってさ!行こうぜ!」
上司は上機嫌で俺の持っていた資料を机に置いた。
人の金で食うご飯が美味い、なんてあけすけな上司に苦笑しつつ、早くに決まったから大丈夫だろうと急いで妻に連絡を送った。
居酒屋の飲み放題に参加したのは上司含め12人だった。来たい人だけが集まり、各々で固まって談笑している。
店員が最初のビールを持ってくると場は盛り上がった。隣に座る部下は一気にジョッキを煽り、満足そうな声を出した。次々に運ばれてくる皿を流しながら他愛もない話をする。ビールでお腹が膨れてきた時、部長からのラストオーダーがかかった。
「それぞれの机で残り1品までで勘弁してくれ~!」
思ったより食べる社員が多かったらしく、部長の痛切な叫びに笑いが起きた。
最後の注文が終わると、席の喧騒は少しずつ落ち着きを取り戻した。飲み足りないと零す上司をなだめながら外に出る。
若い社員は二次会がどうのと話していた。時計を確認すると、22時を超えていた。明日は休みとはいえ、疲れてしまったから二次会の誘いは断った。
同じく二次会には参加しないと答えた同僚と、一緒に駅まで向かった。
慣れた道を通って信号を渡り、マンションが見えてくると自然と肩の力が抜ける。
流れる動作で解錠して、すぐ手前のエレベーターで1階に降りてくるのを待つ。光が灯ったのを確認して乗り込み、8のボタンを押した。扉は一度閉まった後にもう一度開き、ゆっくりと閉まった。
エレベーターは8階まで止まることなく動き、8階で扉が空いた。そしてしばらくした後に自動的に閉まり、誰かが押した下ボタンによって下降し始めた。
「…待ってたよ」
ジメジメした夏の夜に存在感を示すような、凛とした涼やかな声がエレベーターに響く。声の主は、ネクタイが依れて床に倒れているサラリーマンを見てニッコリと笑いかけた。
彼女の瞳に映る 高守 帆風 @uni_hkzKlight
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