君は悪くないから。
B
ある暑い夏の夜のこと。
無防備な背中に突き刺した包丁は、意外にも深くまで届いたようだ。
父はビクン、と一度身体を跳ねさせたのち、そのままうつぶせに倒れた。
肥えた肉体から流れた血が、赤く広がっていく。
どうしよう。ついにやってしまった。
もう耐えられなかったんだ。暴力にも、浪費にも、失われていく人間関係にも。
未来が奪われていくことに耐えられなかった。
何度も考えはした。でも、こんなに突然、「そう」してしまうなんて自分でも思わなかった。
肩で息をする。食器棚に身体を預けて、そのままずるずると腰を下ろす。
しかたなかったんだ。しかたなかったんだ。いつかこうしなければ、いずれ死んでしまうのは僕のほうだった。殺されてしまうのは僕のほうだった。だからしかたなかったんだ。
そう自分に繰り返し言い聞かせていると、
『ピンポーン』
やけに間延びした電子音がした。呼び鈴が鳴ったと気付くのに少しかかった。
まずい。どうしよう。どうしよう?
血の気が引いていくのを感じる。いまにも倒れてしまいそうな感覚はめまいにも似ていた。少しの間を置いて再度呼び鈴が鳴ったことで、僕はふらつく足取りで玄関へと向かった。
覗き穴を確認すると、そこには長髪を後ろで束ね、眼鏡を掛けた、いかにもな優男が立っていた。アパートの隣室に住んでいるお兄さんだ。
お兄さん?
お兄さんだ!
僕はすぐさま扉を開けた。
お兄さんは僕に声を掛けようと何か口を開こうとして、そのまま止まった。僕の背後にある死体に気付いたようだ。そして、すべてを察したように、僕の目を見た。その表情は、泣きそうなようにも、笑っているようにも見えた。
そして震える僕の肩を抱いて、赤子をあやすように背中に手を当てた。
「大丈夫。深呼吸して。大丈夫だから。ね」
とん、とん、と、寝かしつけるかのような手の動きに、僕はようやく、唾を飲み込んだ。
「落ち着いて。俺は君の味方だ。何も言わなくていい。わかっているから」
お兄さんは後ろ手で扉を閉めると、鍵を掛けた。そして僕を台所の椅子に座らせると、父だったものに歩み寄っていった。
「包丁を、縦にして刺したんだね。刃は上のほうが体重が乗って、深くまで入るんだ」
突き刺さったままの取っ手をハンカチで拭いながら、お兄さんは淡々と死体を確認する。
「内臓にまで至ってるね。瞳孔も開いている。もうダメだろう」
お兄さんは死体にバスタオルを幾重にも巻くと、手早くフローリングについた血を拭き取り、僕に足のほうを持つよう、促した。
「まだ暖かいし、死後硬直が始まる前に運ぼうか。クルマを出すよ」
アパートからそう遠く離れていない山林。
そこの路上から少し離れた傾斜のある場所に、お兄さんと二人で穴を掘った。
このあたりの土壌は腐葉土のようで、簡単にスコップが入る。すぐ見つかってしまわないか不安だ。その考えが顔に出ていたのか、お兄さんが微笑んだ。
「深く埋めないと野犬やら動物に掘り出されちゃうっていうけど、人力じゃ限界があるしな。一メートルくらいを目標にしようか」
死体はお兄さんが持ってきたアウトドア用の寝袋にバスタオルごと押し込まれて、手足がブラブラしないように固定されている。
鈴虫の鳴く声を背景に、ザクッ、ザクッ、と、土を掘る音が無機質に続く。七月は夜でも蒸し暑い。額に粘っこい汗が伝う。
「このくらいでいいだろう」
長方形に掘られた穴に、寝袋が転がされて落とされる。上から土をかぶせ、足で土を踏み固める。その後、申し訳程度に枯れ葉で覆った。
一息ついたとき、お兄さんと目が合った。
なんで、お兄さんは協力してくれるんですか?
問いかけようとして、怖くなってやめた。
お兄さんはまた、人の良さそうな微笑みを浮かべると、
「俺は君がひどい目にあってたこと、知ってる。だから大丈夫だよ。俺は君の味方だ。心配しないで」
そう言って、クルマに戻ろう、と僕の背中を支えてくれた。
「さあて、どこに行こうか。もうマンションには戻れないからね。どこにだって行っちゃうぞ。なんか美味しいものでも食べに行こうか。お肉とお魚、どっちがいい? 北陸とかいいかもね。いっそのこと、北海道とか行ってみる?」
運転席に座ったお兄さんは、やけに高いテンションで話しかけてきた。僕はどう返事していいのかわからなくて、半笑いで目を伏せた。
お兄さんはため息をつくと、
「やっぱり、疲れたよね。少し離れた街で、宿を取ろうか」
声のトーンを落として、つぶやくように言った。
────
ビジネスホテルの一室。
ツインベッドの片方で、少年はようやく眠りについたようだった。
渡した錠剤が効いたらしい。ちょっと強めの、よく眠れるおクスリ。
彼が虐待に近い扱いを受けていたことには気付いていた。
隣室だったから、怒鳴り声はよく聞こえた。ドタドタと暴れるような音。そして、不意に訪れる静寂。幾度も警察に届けようと思った。しかし、アパートの前で彼と顔を合わせる度、その思いは押し殺さずを得なかった。
高校生くらいだろうか? まだ幼さの残る面立ちに、何かスポーツをやっていたのか、引き締まった身体。体中に痣があったし、頬や額に切り傷があることもあった。それでも、彼は俺を見つけるごと、健気にも笑いかけてくれた。
いつの日か、訊いてみたことがある。「大丈夫なのか?」と。
主語はなかったが、彼はくみ取ってくれたようで、「はい」と答えた。
「唯一の肉親ですから。僕がいないと、父は生きていけないと思うし。いまは少しつらいですけど、きっとそのうち、落ち着くと思うんです」
返す言葉がなかった。助けを求めてくれればよかったのに。そうすれば、きっとなんとかしてあげられたのに。
でも、本人が望まない手助けなど、余計な世話でしかない。それこそ、家庭の事情というやつで、ただの隣人に介入する余地はない。行政などの手を借りることも考えたが、何より、彼の意にそぐわないことをするのが嫌だった。
たぶん、嫌われたくなかったのだ。
俺は彼に自分を重ねていたのかもしれない。周りに優しくしようとするがあまり、自分を殺している様子が、見ていられなかった。
まるで、幼いころの自分を見ているようで。
『目が醒めたら、アパートの部屋に戻りなさい。
そして、いつもの生活に戻りなさい。
君はなにも見ていないし、していない。警察には黙秘を貫くように。
何か困ったことがあれば、以下の電話番号を頼りなさい。
きっと、なんとかしてくれるはずです』
手紙を彼の枕元に置くと、俺は着替えて、クルマへと戻る。
懐に、例の包丁があることを確認する。
死体にも、家具にも、べったりと俺の指紋をつけておいた。
彼は何も悪くない。すべて、やったのは俺だ。
警察も、きっと同じ罪を過去に犯した自分の言うことなら、信じるだろう。
「元気で、幸せに生きてくれよ」
声には出さず、心の中で祈りを捧げ、俺はそのまま、出頭した。
君は悪くないから。 B @Blindwind
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