第22話 焼け焦げたパンケーキ

シンジが時計台で鐘を鳴らし、マリアナの想いが光となってムハンマドの手に託された頃。


フィフィのカフェでは、時間の流れを歪める「未来スパイス」をめぐる三つ巴の戦いが始まろうとしていた。


ムハンマドは、妻の幻影が消えた後のメモを握りしめ、目の前の男を睨みつけた。しかし、男は動じることなく、不敵な笑みを浮かべていた。男の背後から現れたコック帽の男、ミスター・パンケーキは、まるでこの場のすべてを知り尽くしているかのように、静かに微笑んでいる。


「未来は、誰にも渡さない」


ミスター・パンケーキのその言葉が、カフェの空気を一変させた。彼の声には、まるで時を操るかのような、奇妙な響きが宿っていた。ムハンマドは、彼がただのパンケーキ職人ではないことを直感的に悟った。彼は、この町に隠された、もう一人の時の番人なのかもしれないのだった。


その瞬間、外から再びゴォオオンと鐘の音が響き渡り、カフェの窓がビリビリと震えた。時計台から降り注ぐ光の粒が、カフェの床に落ち、小さな星のように輝き始める。そして、その光の一つが、ムハンマドの握るメモに吸い込まれていった。


メモは、再び眩い光を放ち、ムハンマドの体を包み込んだ。次の瞬間、彼の肉体が、まるでフィルムを逆再生するかのように若返っていく。白髪は黒々とし、顔の皺は消え、宇宙飛行士だった頃の、精悍な顔立ちが蘇った。彼は、マリアナのスパイスによって、失われた時間を取り戻したのだ。


若返ったムハンマドは、その変化に驚きつつも、不思議と冷静だった。体の中を巡る、若さと力が漲る感覚。それは、宇宙船で未知の惑星を見た時のような、興奮に満ちた感覚だった。彼は、妻が残したスパイスの真の力を、ようやく理解した。


「お前たちが言う未来は、どうせ誰かの犠牲の上に成り立つ、まがい物の薄汚いフューチャーだろう」


ムハンマドは、かつて宇宙船でスパイスを使った時、狂った計器の中に見た、無数の星々を思い出した。あれは、別の世界線での出来事だったのかもしれない。マリアナは、その起こり得る(かも知れない)可能性のすべてを、彼に託したのだ。


ムハンマドの言葉に、謎の男は嘲笑った。


「面白いことを言う。だが、その可能性は、我々の手で管理されなければならない。無秩序な時間は、この宇宙を滅ぼす」


男がそう言うと、彼の背後から、黒いコートをまとった男たちが数人、カフェへと入ってきた。彼らは全員、無表情で、まるで意志を持たない人形のようだ。男は彼らに目配せし、一斉にムハンマドへと向かわせた。

しかし、その瞬間、ミスター・パンケーキが一歩前に出た。


「無秩序は、時に最高の芸術を生み出す」


彼の言葉と同時に、カフェの床に落ちていた光の粒たちが、まるで意思を持ったかのように動き出す。光は、ムハンマドを囲むように渦を巻き、黒いコートの男たちを弾き飛ばした。彼らは、床に倒れ、ピクリとも動かなくなった。

謎の男は、驚きに目を見開いた。


「ミスター・パンケーキ……お前、一体何者だ?」


ミスター・パンケーキは、再びにっこりと笑った。


「私はただのパンケーキ職人さ。過去も未来も、材料の一つにすぎない」


彼はそう言うと、手にしたフライ返しを、まるで剣のように構えた。そのフライ返しは、普段使っているものとは違い、わずかに青みがかった光を帯びていた。

謎の男は、警戒しながらも、自らの懐から小さな腕時計を取り出した。その腕時計は、秒針がまるで流れるように動いており、文字盤には、この町の時計台と同じ模様が刻まれている。男は、その時計をムハンマドへと向けた。


「この時計は、時間の流れを固定する。君の若返りも、マリアナのスパイスも、すべては無に帰す」


しかし、ムハンマドは動じない。彼は、かつて宇宙飛行士だった頃、極限の状況下で培った、驚くべき反射神経と冷静さを持っていた。彼は、テーブルの上のスプーンを掴み、フライ返しを構えたミスター・パンケーキと、腕時計を掲げる謎の男を、交互に見つめた。


「未来を固定する? それは、過去を無視することと同義だ。わしは、マリアナの過去を、そして未来を、この手で掴む」


彼の言葉と同時に、ムハンマドの握るメモから、再び光が溢れ出す。光は、若返った彼の体を包み込み、まるで鎧のように彼を守った。


三人の男は、お互いに一歩も譲らない。

未来を決定する戦いの幕開けだった。ムハンマドの若返り、ミスター・パンケーキの青く光るフライ返しの謎めいた力、そして謎の男の持つ、時間を固定する時計。


「このパンケーキは、少し焦げ付いているな」


ミスター・パンケーキが、にこやかに言った。


「味見をしてやろう。覚悟は良いか?」


「ふふっ、味見をしてやろう、か。随分と余裕だな」


謎の男がそう呟くと、彼の手に持たれた腕時計が、チカチカと不気味な光を放ち始めた。秒針は、もはや時間を刻むことをやめ、不規則に前後へと揺れている。まるで、男の心臓の鼓動を映し出しているかのようだ。


その時、カフェの隅で固唾を飲んで事態を見守っていたフィフィと湖が、何かに気づいたように顔を見合わせた。二人の視線の先には、カフェの壁に掛けられた、もう一つの古びた時計がある。その時計の針が、今、カチカチと音を立てて動き始めたのだ。


「あれは……」


フィフィがそう呟く。その時計は、普段は動かない、ただの飾りだったはずだ。しかし、ミスター・パンケーキの言葉と、謎の男の腕時計の光に呼応するかのように、動き出したのだ。


「フューチャーを固定だと?そんなものはフレンチトーストにバターを乗せるようなものだ。甘くて美味しいが、すぐに飽きる。俺たちが目指すのは、もっと複雑で、もっと美味しいものだ」


ムハンマドは、テーブルの上に置かれたメープルシロップの瓶を掴み、中身を謎の男の腕時計に振りかけた。甘い香りがカフェに広がり、シロップは時間の流れを固定する腕時計の文字盤にこびりつく。腕時計は、一瞬だけ光を放った後、音を立てて止まった。


「ふむ、なかなかいい手だ。だが、私のパンケーキには、もう少しスパイスが必要だな」


ミスター・パンケーキは、そう言うと、青く光るフライ返しを、まるでマドラーのように回し始めた。彼の周囲に集まっていた光の粒が、フライ返しに吸い込まれていく。光が集まり、まるで星を閉じ込めたかのように輝き始めた。

その時、店のドアが勢いよく開き、一人の男が入ってきた。男は、見慣れた作業着を着て、手に大きな工具箱を抱えている。


「やあ、みんな。急いで修理に来たぞ!」


その男は、町の時計台を直しに砂漠の向こうからはるばるやって来た、山田だった。山田は、店内の異様な光景に一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに事態を察したように、ムハンマドへと駆け寄った。


「ムハンマドさん、あのスパイス、まだ持ってる?」


山田は、ムハンマドにそう尋ねると、工具箱の中から、古びたゼンマイを取り出した。そのゼンマイは、まるで時計台の鐘と同じ模様が刻まれており、中央にはプレアデス星団を模した七つの窪みがある。


「マリアナさんが、俺に託してくれたんだ。もしもの時のためにって」


山田の言葉に、ムハンマドは驚きを隠せない。マリアナは、ムハンマドだけでなく、町の皆に、未来への希望を託していたのだ。


ムハンマドは、スパイスの瓶を開け、残りの銀色の微粒子を、山田が持ってきたゼンマイの窪みに振りかけた。ゼンマイは、再び眩い光を放ち、カフェの壁に掛けられた時計の文字盤へと吸い込まれていく。

壁の時計は、勢いよく動き始めた。針は、狂ったように回転し、カフェの空間に、無数の時間と、無数の未来の可能性を映し出し始めた。そして、その光景の中に、マリアナの幻影が、再び微笑む。


「未来は、誰か一人が決めるものではありません。たくさんの人々の想いが、未来を創っていくのです」


その幻影の言葉と同時に、謎の男は、光の波動に包まれ、どこかへと消えていった。残されたのは、壊れた腕時計だけだった。

ミスター・パンケーキは、その光景を見て、満足そうに頷いた。


「どうやら、未来のパンケーキは、皆で作るらしい。少し複雑なレシピだが、なかなか面白そうだ」


彼はそう言うと、ムハンマドにフライ返しを差し出した。


「どうだ、一緒に作ってみるか?」


ムハンマドは、その手を取り、穏やかな笑みを浮かべた。町の時計台の鐘が、今度は祝福の音色のように、優しく響き渡る。夜空には満月が、優しく町を照らしていた。


未来は、誰にも奪えない。未来は、みんなで作るものなのだろう。きっと。


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咲川と猫 the memory2045 @acidfreakkk-yomisen

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