第二章 険しい契約結婚①
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掛井琉河の主張はこうだった。
家主曰く、この土地には家族以外を入れてはいけないという掟がある。この家を守る主たる比奈子はその掟に縛られている。そういう意味では、任務であれば必ず遂行しなければならない裏中務の隊士と同様の立場だ。
ならば任務と同様に正式な手順を踏んで、この土地に足を踏み入れる権利を得ればいい。
つまり、主たる比奈子と一時的にでも家族という身分になればいいのだ、と。
(……そんなことのために、夫婦を偽装しようとまで……!?)
あまりのことに比奈子は眩暈を通り越して倒れてしまいそうだった。この男、一体どれだけ任務に忠実なのか。さすがは前世において任務だとしても女ひとりを躊躇なく斬り殺した男である。
親戚も親戚だ。国家権力を前に怖じ気づいたのか屈したのか知らないが、こうも易々と比奈子の身柄を売り渡すなんて。尤もあの夫婦からすれば比奈子がどこで野垂れ死のうと知ったことではないだろうが。
比奈子だって二度目の人生を歩む程度には成熟した女性である。何か事情がある事柄において、今さら貞操がどうのと言うつもりはない。
だがその相手というのが比奈子にとっては大問題だ。
(一体何が悲しくて、自分を殺すかもしれない男に嫁入りしないとならないのよ!?)
これを受け入れてしまえば、比奈子はこの男に二十四時間見張られ続ける終わりの見ない監視生活に突入だ。何か不自然な行動でも取ろうものなら、それはまっすぐ死へと繋がる。前世での比奈子の何がこの男に妹の仇だと思わせたのか、それがはっきりしないことには的確には避けようがない。迷い込んできた妖も無視し、この家の怪奇現象も無視し、ひたすら人畜無害な一市民を装って暮らすという、考えただけでも逃げ出したくなるほど息の詰まる生活が待っている。
だがそれを逃れる術を、比奈子はもう持たない。唯一それを為し得るはずだった道は、あの憎たらしい親戚の署名と捺印によって塞がれてしまった。
目の前がくらくらし、何も言えずにいる比奈子に、琉河はやはり淡々と告げてくる。
「もちろん、ただ一方的にそちらの生活を侵害するつもりはこちらにもない。此度の任務への協力に対する見返りは用意している」
「……見返りですって?」
「条件と言ってもいい。もしこの監視任務でお前に何も疑わしい点が――こちらが求めるものが見つからなかった場合の話だ」
琉河は懐から書面をもう一枚取り出し、比奈子に寄越した。この男が持ってくる書類にいいことが書かれていた試しがないので、比奈子は存分に警戒しながら書面を開く。
が、読み進めていくうち、比奈子はみるみる目を見開いた。
「……離縁の慰謝料?」
「ああ。もし何事もなく監視任務が終了となった場合、婚姻状態を偽装し続ける必要もなくなる。任務協力への対価として、そこに記載されている金額を支払うことを約束する」
そこには比奈子一人が一生、余暇も楽しみながら十分に暮らしていけるだけの金額が記載されていた。そして例によって警保局の捺印、裏中務の桐野という人物の署名まである。
今の比奈子の生活は、この家に隠されたまま誰からも忘れ去られていた先祖代々の遺産を細々と切り崩すことで成り立っている。慎ましく生きる分には何とか食べていけるだけの蓄えではあるが、金の掛かる遊びや趣味、余暇を楽しむには心許ない金額ではあった。それに今は健康体でも、将来医者にかかることもあるだろうし、そうなればある程度まとまった金が必要になる。
それに、と比奈子は書類を見つめる。
(……これだけのお金があれば、心機一転この土地を離れて暮らすことだってできるわ。何だったら外国へ飛び出したっていいかもしれない。そういう道を選ぶことだって、このお金があればできる)
比奈子は今度の生において、『変わり者』としての自分を対外的に演出するための手段として本をたくさん読んでいる。動機はそうだったが、次第に自宅での生活を充実させるための趣味のひとつになっていった。今まで読んだ本の中には、外国の暮らしや文化について描かれたものも少なくなかった。
先立つものさえあれば、悠々自適な人生を送るのにこの家に拘る必要はないのかもしれない、とは前々から少し頭の隅に浮かんではいたのだ。現実味のないことだったので今までそのことについて深く考えてみたことがなかっただけで。
ごく、と唾を呑む。
この任務さえうまくやり過ごせば、今よりももっと未来の選択肢を増やせる。
それは一度死んで選択する権利すら失った比奈子にとってはあまりに魅力的すぎることだった。
――だが、まだ足りない。
(お金は確かに必要だけど、命までは賭けられないわ)
自分を殺すかもしれない相手との同居と天秤に掛けるには不足すぎる。
しかし書類を読み進めるうち、見逃せない記載がついでのように付け足されていることに気付いた。
(……『対価の支払いをもって、該当の監視官は同監視対象を以後担当しない』?)
「あの、これは?」
瞬時に湧き上がりかけた期待感を内心で抑え込みつつ、比奈子は取り澄ました声で書類を指さしてみる。
琉河はちらりと書類に目を落とし、ああ、と呟いた。
「記載の通りだ。慰謝料の支払いが完了した後は、もし仮に何か別の案件でまた裏中務が動くことになっても、そのときは俺以外の隊士が担当する」
「……それは、一体なぜ?」
「過去に任務中の隊士が相手方と癒着し大問題に発展した例があるからだ。それ以降、同一の隊士が一定期間以上、複数回同じ任務に就くことは隊の法度に加えられた」
背筋が粟立つ。無論、降って湧いた無上の喜びにだ。
「……そうなの。それは災難ですこと」
半ば上の空で、心にもないことを比奈子は呟いた。
慰謝料の金額などもはやどうでもいい。このついでのような記載こそが、今の比奈子にとっては目も眩む条件だ。
(つまりこの監視任務を潜り抜ければ……)
――この男は比奈子の目の前から、今生から永久に消え去るのだ。
「……何事もなければ、本当にすぐに離縁して出て行ってくれるのね?」
窺うように顔を上げる。琉河は頷く。
「必ずそうすると約束しよう。ああ――あと、付け加えるまでもないだろうが、本物の夫婦のように振る舞う必要はない。俺のことは宿直している公務員だという認識のまま、お前は今まで通り普通に暮らしていればいい」
――こうなったら腹を括るときだ。
細く長く息を吐き、比奈子は精神を整える。
(さっさと任務を終わらせてさっさと出て行ってもらおう。ここまできたら、もうそれしかないわ)
腕組みをし、片眉を上げて琉河を見上げ、比奈子は答えた。
「わかったわ。この契約結婚生活、受けて立ちましょう」
どうせ長居をさせる気など毛頭ない。あまりの収穫のなさにこの男が根を上げて逃げ出すまで、こちらもひたすら粘るのみだ。今生の命と、そして穏やかな隠居生活を守るために。
こうして、元敵同士の根比べ――もとい、偽装夫婦の同居生活が始まるのだった。
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