第六章 古代パート「霧を超える者たち」

――時を超えて。


夜明け前の空は、まだ深い灰色に包まれていた。

砦の最上段に立つ台与の小さな肩が、凍てつく霧の風にかすかに震えている。

彼女の眼下には、霧の帳が谷を覆い尽くし、その奥に潜む“何か”の気配だけが、静かに蠢いていた。


その場に、足音もなく現れたのは和真だった。

老いの兆しこそ見えるが、その体には武人としての芯があり、目には静かな熱が宿っていた。彼は無言のまま、台与の傍らに立ち、共に霧を見つめた。


「……来るな」


低くつぶやいた声が、砦の石壁に響く。


「“火の民”が、こちらを窺っている。昨夜、斥候が二人、戻らなかった」


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その言葉に、台与の眉がかすかに揺れる。

だが彼女はうなずかず、ただ霧を見つめ続けた。


(怖い……)


胸の奥底に沈んだままの感情が、ゆっくりと浮かび上がる。

恐怖、迷い、そして――重責。


(だけど……私が動かなければ、この国は壊れてしまう)


彼女の脳裏には、傷ついた兵たちの呻き声、老いた卑弥呼の背中、そして和真の苦悩の眼差し――が、幾重にも重なっていた。


(私は、“選ばれた”わけじゃない。……でも、“選ばれつつある”)


目を閉じる。深く息を吸う。


霧の匂い。土の湿気。遠くの梟の鳴き声。


(逃げないと、決めたはず)


彼女の細い指が、そっと胸の紐を解き、巫女衣の下に隠されていた一本の短剣を取り出す。

それは、かつて卑弥呼が霊儀の際に使っていたもの――

今は、彼女にとっての“覚悟の証”だった。


「……行きましょう、和真様」


台与が初めて“共に”立つ意志を見せた瞬間だった。

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砦の中段では、兵たちが小さな焚き火の周囲で眠り、または装備の点検に勤しんでいた。

武器は古び、人数も限られていたが、ここを最後の砦と心得る者たちの目は決して揺らいでいない。


台与の姿がその前に現れたとき、兵たちは驚きとともに姿勢を正した。


「この霧は、我らの国の“結界”です。

けれど今、それが破られようとしています。

私は、巫女としてではなく、この国の“継ぎ手”として、ここに立ちます」


和真が後ろから一歩、彼女の横に並ぶ。


「女王の声は、今、ここにある。若くとも、未熟であろうとも、それを誰も否定はできぬ」


その声に、砦にいた者たちがうなずいた。

そして静かに、武器を取る者が現れ始めた。

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その頃、霧の谷底。

狗奴国の先遣部隊が、静かに進軍の準備を整えていた。


「王は、台与という少女をご存じか?」


狗古智卑狗の問いに、卑弥弓呼は地図に目を落とし、頷いた。


「若き巫女、か。女王の座に近いと聞く。だが霧の中に座す限り、民を導くことなどできぬ」


「……ですが、もし彼女が、霧を越えてくるなら」


「その時は――」

卑弥弓呼は腰の剣に手をかけ、炎に照らされる刃を見つめた。


「――我が手で、終わらせよう」

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卑弥呼の宮では、炎の祭壇の前で老いた女王が座していた。

かつてはこの国を霊で導いた“声”も、今は小さな囁きに過ぎない。


彼女の耳に、遠くの太鼓の音が届く。

“火の太鼓”。狗奴国の軍が動き出す合図だった。


「……早いな。まだ霧も晴れぬうちに」


静かに目を閉じると、彼女の横に控えていた難升米が問う。


「ご命令を」


卑弥呼は、かすかに首を横に振った。

そして、炎の奥を見つめながら、こう言った。


「台与に伝えよ。――霧を越えられるか否か、それがこの国の命運。

怖れるな。戦えというのではない。前に立ち、声を上げることが、未来を照らす」


難升米は頭を垂れ、言葉を胸に刻んだ。

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砦の外縁部。霧がわずかに裂け、影が動いた。


「来たぞ!」


兵の声が響いた瞬間、矢が一本、音もなく飛来し、門の柱に突き刺さった。


次の瞬間、四方から角笛と太鼓の音が鳴り響く。

それは“火の国”狗奴国の出陣の合図。


台与は目を見開いた。


「始まった……!」


和真が剣を抜く。


「これは、霧を超える者たちの戦だ!」

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砦の上、霧を切り裂く風の中で、台与はまっすぐ前を見据えた。


(私は、何者にもなれぬかもしれない。

けれど、ここで逃げれば、もう誰も信じてはくれない)


(霧を超える。それは、“誰かになる”こと。

……私自身の言葉と、意志で)


「――開け、門を。霧の中へ、我らが進む」

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霧の谷に、火矢が舞う。

戦は、今始まろうとしていた。

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                                第六章 了

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