第五章 古代パート「境界に眠る断たれし縁」

――時を超えて。


霧は、朝の光を呑んで白く揺れていた。

薄くなった雲間から、霧島の稜線りょうせんがのぞいている。


卑弥呼ひみこは、低い丘の上で立ち止まった。

霧の奥には、かつて交わされた約束の気配がある。

それを思うと胸の奥が鈍く痛んだ。


台与とよ。」


彼女の声に、少女は顔を上げた。

まだ幼い眼が、霧の先に怯えと憧れを宿している。


「この霧は、境界です。火と水の境であり、命と死の境でもあります。」


「……はい。」


「怖いと感じますか。」


「少し、怖いです。」


卑弥呼は微笑んだ。

「それでいいのです。恐れは無知ではなく、知ろうとする心です。」


和真かずまかたわらで霧を見つめていた。

声には出さずとも、彼の瞳も揺れている。


「和真。」


「……昔は、この先にも道があった。」


「ええ。」


和真は視線を落とした。

「狗奴の者たちが塩を運び、布を交わし、女たちが縁を結んだ。

祭りの夜には、境がなくなるとさえ言われた。」


「それが、いまは……。」


「境を越えることは、試練ではなく侵略になる。」


卑弥呼は小さく息を吐いた。

「だからこそ、さかいの意味を知る者が必要です。」


台与は霧の奥を見た。

揺らめく白の向こうに、赤い稜線りょうせんがぼんやりと浮かぶ。

燃える山。その山に寄り添うように、いくつもの集落の幻が重なった。


「都が……見えます。」


「都は霧の奥にあります。」

卑弥呼の声は静かだった。

「けれどそれは、心に映るものです。見失ってはなりません。」


台与は頷いた。

自分がこの霧を越えられるのか、答えはまだ出なかった。


──────────────────────────────


遠く、霧の境界を隔てて、狗奴国の兵たちが集まっていた。


焚火の赤い光が、卑弥弓呼ひみここの横顔を照らす。

彼は黙って、古い布を手にしていた。

それは、かつて邪馬台国から縁組の証として贈られた調度ちょうどの端切れだった。

布には、亡き妻の手の跡が残っている気がした。


「かつては、境などなかった。」


狗古智卑狗くこちひこが視線を落とした。


「塩も布も、この霧を隔てずに通い、女たちが縁を結んだ。」


「それが今は、霧がすべてを閉ざす。」


「境は人が引いたものです。」


卑弥弓呼は布を握りしめた。

「だが引いてしまえば、戻れない。」


焚火が小さく爆ぜた。

狗古智卑狗は灰の舞う中で、王の横顔を盗み見る。


「王は、あの女を恐れておられるのですか。」


「恐れはしていない。」


卑弥弓呼は霧を見つめた。

「ただ、あの霧が告げている。これが最後の境界だと。」


かつて、この霧の奥に妻がいた。

彼女は火の神に祈りを捧げ、やがて戦乱に呑まれて命を落とした。

布だけが、その記憶を留めていた。


「狗古智卑狗。」


「はい。」


「我々は戻れぬ。だから進むしかない。」


「……承知しました。」


──────────────────────────────


丘の上で、卑弥呼は霧の向こうを見つめていた。


「台与。」


「はい。」


「霧を越えた先には、かつて多くの者がいました。

塩を分かち、布を贈り、縁を重ね、ともに祈りを捧げたのです。

それでも境界は、こうして立ち現れます。」


「どうして、すべて失われてしまうのですか。」


「境を守る者と、越えようとする者がいるからです。」

卑弥呼は小さく息を吐いた。


「この地の国々は、私たちの霊威に従っていました。

狗奴国も、最初は同じでした。

卑弥弓呼はその霊威に憧れ、私の一族から妻を迎えたいと望んだのです。」


彼女は霧の奥に視線を落とした。


「けれど私はそれを許しませんでした。

血を混ぜることは、境界を失うことだと考えたのです。」


「……。」


「結局、難升米の姉を両国の絆として送り出すことにしました。……だが、その縁も戦乱の中で失われました。」


台与は息を呑んだ。


「戦は、私が一族を守ろうとした代償でした。

それが卑弥弓呼の畏敬いけいを恐れに変え、やがて争いを呼んだのです。」


卑弥呼は目を閉じた。


「そして私もまた、境を越えられなかった。

本当は、戦など望んではいませんでした。

けれど血を守ると決めた時、戦うほかに道はなかったのです。」


霧は少しずつ薄くなっていた。

遠くに、狗奴国の斥候の気配が揺れている。

境界は、試練から戦いへと形を変えようとしていた。

                        第五章 了                

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