第二章 古代パート「霧の向こう側」

――時を超えて。


南の高地に霧が立ち込める朝は、決まって音が遠のいた。

鳥の声も人の足音も、すぐに白い気配の向こうへ消えていく。

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和真は馬を降り、湿った地面をゆっくり踏みしめる。

草がしっとりと濡れ、霧が鼻腔びくうにひんやりとからみついた。

村の家々は低く寄り添い、まるで霧に溶けようとしているようだった。

その屋根の間をうように、老人や女たちがうつむいて行き交う。

言葉は交わされても、声はすぐに霧にさらわれた。

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「……また、あかりを見ました。」

年老いた男が、背を丸めたまま息を吐く。肩が細かく震えていた。

「谷を越えて、赤い光が……ゆらりと動いて。昔はこんなこと、一度も……。」

言葉の先は、湿った空に吸われていった。


和真は顔を上げた。

霧はただ静かに漂うばかりで、その奥をのぞこうとする者をこばむ。

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「村の者には、しばらく家を離れぬように伝えよ。」

「……はい。」

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馬のたてがみを撫でると、ひどく冷たく濡れていた。

和真は手袋を外し、指先に宿る体温を確かめる。

昔、幼い頃にこの霧の中を歩いた記憶があった。

卑弥呼に手を引かれ、坂を登った。

何も見えなかったが、姉の指先は強く、頼もしかった。

(あの頃のように、ただ信じていられたら……)

胸の奥に、ひび割れたような痛みが走った。

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宮へ戻ると、やしろの奥は白いとばりへだてられていた。

燈明とうみょうの光が柔らかくにじみ、誰もいないように見えた。

「霧が深いのだな。」

とばりの奥から、卑弥呼の声が落ちる。

不思議と、呼吸を整えたくなるような声だった。

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狗奴国くなこくの気配が、日に日に近い。

この霧に紛れて、何を仕掛けてくるかわかりません。」

「わからぬことは、恐ろしいか。」

「……はい。」

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布の向こうで、衣擦れの音がする。

「私も同じだ。」

和真は、胸が締めつけられた。

幼いころから、姉が不安を口にするのを聞いたことはほとんどない。

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「だが恐れは霧と似ている。目を凝らせば、その奥に輪郭りんかくが見える。」

「その輪郭りんかくが……もし災いなら。」

「そのときは、災いを受け入れ、越える。」

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短い沈黙が落ちた。

霧がとばりへだて、二人の気配をかつ。

和真は深く頭をれた。

霧が、言葉の余白を満たすようだった。

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(昔……まだ私が幼かった頃、南の集落が争いに巻き込まれた。)

夜の霧に紛れて、狗奴くなの兵が押し寄せた。

遠くに見えた篝火かがりびは、一つ、また一つと増え、赤く燃え広がった。

その光景を、ただ立ち尽くして眺めていた。

震える声で姉の名を呼んだが、返事はなかった。

(あのときも、霧はすべてを隠していた。

だが、本当に恐ろしかったのは……自分が何もできなかったことだ。)

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夜が訪れると、霧はさらに深くなった。

村の屋根は影に沈み、篝火かがりびだけが赤い点となってまたたいた。

やがて、その光はもう一つ増えた。

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「おい。」

若い男が震える声をあげる。

「あれは……昨日はなかった火だ。」

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和真は霧をにらんだ。

赤い光が二つ、わずかに揺れていた。

(これが争いのともしびか、それとも……)

胸の奥に冷たいものが降りてくる。

霧は、ただ静かにその境界を隠していた。

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ふと、幼い日の声がよみがえる。

「恐れなくていい」と、姉は言っていた。

あの声を信じた自分が、今も心のどこかにいる。

けれど、指先を伸ばしても、霧は何も教えない。

霧は、すべてを覆い隠すだけではない。

人の心の奥に、言葉にならない不安を映し出す。

和真は目を閉じた。

霧が胸の奥でゆっくりと広がっていった。                        

                                第二章 了

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