いちごソーダとカレイドスコープ
隠岐 イチカ
1.秋の初め
一
十月。夏の暑さが残る九月と比べて、十月は少し肌寒い季節になる。明日から上に何か羽織ろうか、と屋上で洲崎愛衣は思った。
九月に文化祭が終わって大きな行事がなくなるこの時期は、なんだかつまらないなと考えながら、一人空を見る。今日は友人が二人とも恋人と過ごすからと、放課後に一人になっているのもこのつまらなさの一因だろう。なんとはなしに来た屋上で、秋の空気を胸いっぱいに吸い込む。この時期の空気が、愛衣はとても好きだった。冬ほど澄み切っておらず、夏のような湿度もない、ちょうどいい感じの空気。屋上からグラウンドを見下ろすと、走り回る運動部たちの姿が見える。自分にもあんなに打ち込めるものがあったのなら、今ここでつまらないなどと考えていなかったのだろうか。少し前に金色の内側にほのかな桜色をインナーカラーに入れた髪をくるくるといじりながらぼんやりとまた空を眺める。二つに束ねた髪が風に揺れる。
「……枯れた地面に割れたアスファルト」
空を見つめていた愛衣の耳に、聞き覚えのある歌詞とメロディが耳に入った。とても気に入っていて、最近ずっと動画サイトで見ている、いちごソーダという曲名の恋の歌。MVが光と花で溢れていて、とて綺麗でそれも気に入っている。
「一面が赤いラナンキュラスで溢れた」
原曲は甘やかな不思議な声で歌い上げている。だけどそれとは違う、控えめだけど可愛らしい声。誰かが歌ってるんだろう。可愛らしい声で、愛衣はとても好ましく思った。声が聞こえる場所は、愛衣のいる反対側、屋上の出入り口を挟んだ反対側だった。ゆっくりとそちらに近付くと、黒い髪を後ろで一つに束ねた女の子が、イヤホンをして歌っていた。彼女は愛衣には気付いていない様子で歌い続けている。
「ねえ」
愛衣は横からそっと顔を覗き込んで声を掛ける。声の主を知りたかったのもあるが、単純にこの曲を好きな人を見つけたのが嬉しくて、その話題を共有したかったのだ。その行動は彼女をとても驚かせてしまったようで、黒縁メガネの向こうのめがまんまるく見開かれて、それから顔を真っ赤にして硬直してしまった。
「さっきの曲、いちごソーダでしょ。あたしもあの曲好きなんだ〜」
隣に並んで、にひひと愛衣は笑う。黒髪の少女は赤面したまま首を縦にぶんぶんと振り同意した。
「いいよね、あの歌。寂しいけど好きな気持ちで溢れててさ、MVも綺麗だし」
愛衣は鉄柵に肘をつきながらいちごソーダの鼻歌を歌う。爽やかな曲調の歌を、甘やかで色気のある声で歌い上げる。なのに歌詞は寂しげで不思議な曲。
「……爽やかな曲調で、歌い方は甘くて可愛くって、なのに歌詞の内容は寂しい気持ちになって、すごく、素敵、ですよね」
顔を赤くして俯きながら、黒髪の彼女が控えめにポツリと呟いた。徐々に小さくなるその声は、静かな屋上でなければかき消えて聞こえなかっただろう。
「わかる! そう! それなんだよね〜! あたしも同じこと思ってる!」
決して流行ってるとは言えないこの曲を好きな人を見つけただけでも嬉しかったのに、好きなところまで同じだなんて、そんな夢みたいなことがあっていいのだろうか。心が躍る。もっと話したい。そう思ったところでスマホが鳴る。そうだ、今日は友人たちが恋人と過ごしてて暇だと送ったら、姉にどこかの喫茶店に行こうと誘われたのだった。届いたメッセージには『もう少しで校門につくよ』と書かれていた。ぱん、と顔の前で両手を合わせて黒髪の少女に向き直る。
「ごめん! ほんとはもっと話したかったんだけど、ちょっとこの後用事があってさ、また今度話そう!」
「あっ、うん、また、今度……!」
黒髪の少女は長い前髪を揺らしながら首を縦に振った。
「そういえば同じクラスの子だよね? 話したことはないけど、ええと、小湊さん!」
名前を覚えられているなどと思っても見なかった小湊秋穂は、心の底から驚いて声を上げてしまった。そのまま何も言えずに固まる秋穂に、愛衣は人懐っこい笑みを向ける。
「明日さ、また話そうね!」
ばいばい、と愛衣は力一杯手を振って去る。秋穂はその姿にささやかに手を振り返した。明日また話そう、と言われることがあるなんて思ってもみなかった秋穂は、驚きと高揚感で、しばらくその場に立ち尽くした。
二
翌日、たしか彼女の席は窓際の前から三番目くらい、と愛衣は教室に入るなりその辺りに目を向けた。黒髪を後ろの低い位置でひとつに束ねた黒縁メガネの少女は、たしかに一番窓際の前から四番目の席に座っていた。友人に挨拶をして自分の席の机にカバンを置くと、そのまま真っ直ぐ秋穂の席へと向かう。
「おはよう」
横から挨拶すると、本を読んでいた秋穂は驚いた顔をして愛衣を見て、それから小さく「おはようございます」と言った。挨拶が返ってきた嬉しさで満足気に笑う愛衣と視線が合い、秋穂はそっと縮こまり、前髪と本で顔を隠してしまった。
「なんで顔隠したの? もしかしてあたしと話すのイヤだった?」
「そんなことない、すごく話したかっ……た……です」
尻すぼみに小さくなるその声は、ざわついた教室では少し聞き取りづらかったが愛衣の耳にはしっかりと届いた。
「あたしとまた話したいって思ってくれてたってこと? えへへ、うれしいなあ」
「わ、私は、その、お話ししたいと思ったんですけど、洲崎さんは、私なんかと話していいんですか……?」
「? 小湊さんと話しちゃいけない理由があるの?」
「だ、だって、私、こんな、地味な人間で、面白みもないから……」
「話すのに容姿とか面白さとか関係あるの? あたしはないと思うな」
「な、ない……でしょうか……」
「ないよ! 小湊さんだってそういうの関係なく話したいって思ってくれたわけでしょ? それでいいじゃん?」
自信がなさそうに、前髪の向こう側の瞳がキョロキョロと動く。本を持つ手もそわそわと落ち着かないように何度も本を持ち直している。
「ね、あのさ」
愛衣は秋穂の顔を覗くこむように隣にしゃがみ込む。
「小湊さんってさ、下の名前なんていうの?」
昨日帰ってからずっと気になっていた。親しくないクラスメイトの下の名前まではさすがに覚えてはおらず、なんだったろうかと考えていたのだ。
「えっ、ええと、秋穂です、小湊秋穂といいます」
「秋穂! かわいい響きだね、秋穂って呼んでもいい?」
「え、あ、呼んでも大丈夫、ですけど」
「けど?」
秋穂の目が泳ぎながら愛衣から顔を逸らしていく。慌てるその様子を見ながら、愛衣は気を悪くしただろうかと考えた。
「もしかして、イヤだった? あたし距離の詰め方へたくそってよく言われるからさ、イヤならほんとにイヤって言っていいからね」
「イヤじゃないです、大丈夫。ただ、私、まだ仲良くないのに呼んでもらっていいのかなって」
「あたしが呼びたいって思ってるんだから、そこはいいんだよ〜。でも気を悪くさせちゃったわけじゃないならよかった」
それでさ、と曲の話題について触れようとしたところで予鈴が鳴る。愛衣は普段から早くはない時間に登校してくるため、朝はあまり時間がなかった。
「うう、また曲について話せなかった……お昼休みにまた来るからさ、今度こそ話そうね!」
秋穂が返事をする間もなく、愛衣は自分の席へと向かっていった。残された秋穂は担任の先生が来る前にとそっと本を机の中にしまった。
別世界の住人だと、秋穂は思っていた。きらきらとした世界の住人。自分の住む暗い世界とは違う。だから、話すことなどないのだろうと、関わることなどないのだろうと、そう思っていた。けれども、たった一つの曲が、交わらないと思っていた世界に橋を架けてくれた。彼女にとっては何気ない日常の一つかも知れない。でも、自分にとっては。
暗い森の中に、光が差した瞬間だった。
三
「だあ〜、疲れたあ〜」
机にだらりと突っ伏しながら、愛衣は前の席に座る友人に言った。友人は「あんたは気力も体力もなさすぎ」と笑う。突っ伏してからお昼休みであることに気がついた愛衣は、勢いよく起き上がる。
「うわっ、なに」
「お昼休みじゃん!」
「そうだよ〜、だからお昼食べよ〜」
愛衣の友人の一人である清野雪が席へとやってきてゆるく言う。彼女は近くの椅子を借りようと周りを伺っていた。
「ごめん、今日ちょっと他に先約があってさ〜! また明日一緒に食べよ!」
「おお、黄金の右手謝罪じゃん」
右手を縦に顔の前に差し出して謝る愛衣を見ながら、平原美月がからからと笑う。
「いいよいいよ、毎日一緒に食べなきゃ死ぬわけでもないしね」
「でもそのお相手誰? 彼氏〜?」
雪がからかうように愛衣に言う。雪は恋の話が好きで、だから愛衣の恋模様も気になるのだろう。あはは、と愛衣は笑って立ち上がる。
「残念、新しく出来たお友だちだよ。そんじゃね!」
お弁当の入った袋を持って愛衣は秋穂の元へと向かう。美月と雪はゆるゆると手を振って送り出し、雪は愛衣の席に座ってお弁当を広げた。
一番窓際の列の、前から四番目。愛衣は秋穂の席まで真っ直ぐに向かう。愛衣は秋穂の前の席が空いてるのを見て、まあこの席の人が戻ってきたらすぐに退けよう、と思いながらその席に座った。
「お昼一緒に食べよ!」
すでに自身の机の上にお弁当を広げて、箸を持った秋穂の手が止まる。目は驚きでまたもまんまるく見開かれていて、その様子に愛衣の方が驚いてしまった。
「そんな驚かせちゃった? お昼に話そ〜って言ったような気がしたんだけど」
「お話をしようとは言ってましたけど、お昼を一緒に食べようとは言ってなかったから、てっきり食べ終わってからお話するのかなって」
俯いて前髪で目元を隠しながら秋穂は言った。
「それじゃあ今から予約していい? 今日のお昼一緒に食べよ!」
「あっ、はい、よろしくお願いします」
「よろしくお願いしますって、お稽古とかでもないんだからそんな堅くならなくっていいのに」
からからと笑いながら愛衣が言った。愛衣は秋穂の机の上に自分のお弁当を広げていく。今日のお弁当はタコさんウインナー入り。愛衣の母は不器用で料理が苦手だが、タコさんウインナーはがんばってよく作ってくれる。今日もおいしいし幸せだ、と愛衣は思いながら口に運ぶ。
秋穂のお弁当はほうれん草の胡麻和え、うま煮、きんぴらごぼう、グラタンが小さなカップに仕切られて入っていて、愛衣は美味しそうですごく綺麗なお弁当だなと思った。
「お弁当、ホテルの料理かな? って思っちゃった。おいしそう」
「ありがとう、昨日作った残り物ばかりだけど、そう見えたならうれしい」
「作ったって……え、秋穂がこれ作ったの? すごいね!」
「そ、そんなことは……難しいものはないし……」
秋穂は照れてさらに俯いてしまった。愛衣は料理が全くと言っていいほどできなかった。だから秋穂が料理ができること自体がすごいと思ったし、その上見た目も美味しそうなものが作れるなんて尊敬する。
「すごいなあ、あたしもお料理できるようにがんばろっかなあ」
愛衣は母が作ってくれたタコさんウインナーを頬張りながら言う。その様子を見ながら秋穂は「タコさんウインナーも器用ですごいと思う」と顔を上げて愛衣の目を見ながら言った。
「タコさんはね、お母さんが作ってくれたんだ〜。器用だよね」
「そうなんだ。器用だし素敵だね」
「そうなの〜、お母さん素敵なんだ〜」
愛衣は大好きな母を素敵だと言ってもらえて、にへらと笑った。秋穂はいい子だな、なんて考えながら、今日は曇っていて寒いだとか、今日の授業は難しいことばかりで疲れただとか、他愛もない話をしながらお弁当を食べた。二人は食べ終わったお弁当を片付けながら、愛衣はついにと今日一番話したかった話をする。
「ね、ね、いちごソーダのこと、どこで知った? あたしは動画サイトで色々見てたらおすすめに流れてきてさ、うわ〜綺麗なMVだな〜って思ってさ、それから歌詞見て、声を聞いて、すっごい好き! って思ったの!」
愛衣の表情は話ながらころころと変わり、それが百面相のようで面白いなと秋穂は思いながら見ていた。
「私は、好きな小説家さんが好きな曲だってSNSで言ってて、それで聞き始めたの」
「小説家さん。じゃあ感性があってる人のおすすめだったんだね〜、それは好きになっちゃう」
愛衣は秋穂を否定しない。それは秋穂にとってとても貴重で、とても居心地が良かった。初めて感じたこのゆるやかで楽しい安息と、それをもたらしてくれた愛衣のことをとても好ましく思った。
「このサビの部分の歌い方がかわいいのに切なくってさ〜、初めて歌詞を見ながら聴いた時泣いちゃったもん」
「わかります、とってもかわいい恋心を歌う歌い方なのに、内容は切なくて、そのギャップがまた健気さが出ていていいですよね」
「わかる〜! そうなの、健気さ! この曲って最初っから最後まで健気さに溢れてて切ないよね〜」
大好きなこの曲を好きな人に初めて出会って、愛衣はつい一人でずっと思っていた曲についての感想を話し続けてしまう。MVの美しさ、歌声のかわいさ、歌詞の切なさ、きっと歌に込められた物語はこう、この歌詞でこの主人公はきっとこう思った。秋穂はずっとそれを肯定して、自分の考えも話してくれる。それが愛衣にはとても楽しい時間で、お昼休みいっぱいを使って話をした。
「あ、お昼休み終わっちゃうね。ねぇ、秋穂」
スカートのポケットをごそごそとしながら愛衣は言う。ポケットからスマートフォンを取り出して、画面をタップしている。
「よかったら連絡先教えてよ、またお話ししたいからさ」
「えっ」
「え、ってそんなに驚くこと? あ、や、ダメならそれでもいいんだけどさ」
「ち、ちがう、ダメじゃなくって! そんなこと聞かれたことなかったから、びっくりして……」
「聞かれたことないの? そっか〜、秋穂ってぐいぐい来られるの苦手そうに見えるもんね、みんな遠慮しちゃってるんだな〜」
「いえ、そんな、そういうことでは……」
秋穂は自分のスマートフォンをカバンから取り出しながら、口ごもる。自分はクラスに馴染めずにいるだけで、遠慮しているとかではないと思う、と伝えたかったが、秋穂の好意的な言葉を踏み躙るような言葉を言いたくはなかった。
「ええと、これなんですけど」
秋穂は自分の連絡先を見せる。これをこうして、と愛衣がぽんぽんと秋穂のスマートフォンの画面と自分のスマートフォンの画面を操作をした。
「はい、できたよ! ありがとう!」
「いえ、こちらこそ、ありがとうございます」
会社の上司に挨拶するみたいに深々と背中を丸めてお礼を言う秋穂。それを見て「そんなお辞儀しなくっても」と愛衣が笑う。
「それじゃあお昼休み終わっちゃうし、これで戻るね。またね、秋穂」
「はい、また」
自分の席へと戻ろうとしていた愛衣が何かを思い出したかのようにぴたりと動きを止め、くるっと秋穂の方に向き直ってやってくる。
「そういえばさ、あたしに丁寧に話さなくっても大丈夫だよ〜、次からそういうの禁止で」
愛衣はいたずらっぽく笑いながら元の道へと戻っていった。秋穂の反応を待たずに。
秋穂は、次があるならどう話せば、どう接すればとぐるぐる考えて、それ以降の授業は内容が全く頭に入ってこなかった。
四
家路についた秋穂は、いつも通り鍵をかけて、靴を揃えて部屋に入る。部屋の電気を付けると、いつもの自室が待っていた。けれど秋穂の心はいつもと違う。浮き足立つような、駆け出したくなるような、そういう気持ち。秋穂はこの気持ちをどうしたらいいのかわからずベッドに沈み込む。スマートフォンを取り出して連絡アプリを開く。両親以外で初めて並ぶ連絡先。それを見る度にこのそわそわしてるしている気持ちが増幅される。スマートフォンを枕元に投げ出して、手近にあったクッションに顔を埋めて足をバタつかせる。
秋穂の人生で初めてできたお話し相手。いや、お話し相手だなんて言うのは烏滸がましいかもしれない。偶々、偶然、他の人が知らない話題を私が知っていただけで、それを共有できた相手だっただけ。それだけの話。でも、それでも。秋穂はまたクッションに顔を埋めて足をバタつかせた。
枕元に放ったスマートフォンがピロンと音を鳴らす。普段鳴ることなど全くない聞きなれない音に秋穂はびくりと反応してしまった。そっとスマートフォンの画面を確認する。
『よかったら明日も話そうよ! いちごソーダ以外にも話したいこといっぱいあるからさ〜』
初めて秋穂の目に映るメッセージ。それだけで心が躍るのに、明日もまた話そうと言ってくれている。しかも曲以外の話も、と。
私なんて偶々曲の話ができる相手だから、と曲の話が終わったらこの関係も終わってしまうのだろうと思っていた。それなのに、曲の話以外もできるだなんて。初めてできたこの関係を、秋穂は心から嬉しく思い、そしてどうかずっと続きますようにと願って、すぐに二つ返事を返した。
五
あれから毎日のように、愛衣は秋穂に話しかけてくれるようになった。それはいちごソーダの話だったり、別の曲の話だったり、秋穂が読んでいる小説の話だったり、もっと単純に天気の話だったりもする。愛衣の好きなもの、苦手なもの、秋穂の好きなもの、苦手なもの。そういった他愛もない話を毎日続けている。秋穂にとっては、そんな毎日が本当に居心地がよくて、愛衣といる時間がとても好きな時間になった。
ある日、秋穂が読んでいる本の話になった時、愛衣はどんな内容なのかと聞いた。それは秋穂の好きな作家のミステリーで、何度読んでも面白いものだった。「私も読んでみたいけど、ミステリーみたいに難しいのはなあ」という愛衣に「それじゃあ同じ作家さんの、恋愛小説を貸そうか?」と尋ねたら、目をきらきらと輝かせて「本当?」言ってきた。だから、今日、その本を持ってきたのだが――。
「それでさ、私の彼氏がさ〜」
「えぇ〜、また惚気話? まあいいけどさ〜」
今日のお昼は秋穂とではなく、愛衣の友人たちと一緒にお弁当を食べていた。そして今、放課後も愛衣は友人たちと談笑しており、ただでさえコミュニケーションが苦手な秋穂にはこの空気に割って入っていくのは難しかった。別に、今日この本を渡せなくったっていい。また別の日に、愛衣が自分に話しかけてくれた日に渡せばいい。でも、もしもその別の日が来なかったら? 愛衣はきっと突然いなくなるような人じゃない。でも、もしも。今渡せなかったら、その別の日はもう来ないかもしれない。
秋穂は、そっと愛衣とその友人たちの前に出た。
「す、洲崎さん!」
「あれ、秋穂? どうしたの?」
「これ、あの、この間言ってた本なんだけど……」
秋穂はここで思い至った。どうしよう、もしもあの時の言葉がただの世間話で、本当に貸して欲しいわけじゃなかったのなら。「本当に持ってきちゃったの?」と引かれてしまったら。ぐるぐると考える秋穂の方にそっと手が伸ばされる。秋穂が持ってきたその本に愛衣の手が触れた。
「えーっ! 本当に? うれしい! ありがとう!」
愛衣はいつもの、きらきらとした宝石のような笑顔をしてくれた。自分は何を疑っていたのだろう、愛衣はお世辞でそんなことを言う人ではなかった。いつだって綺麗な気持ちで、自分に向き合ってくれているのだから。
「え、なに、本読むの? 愛衣が? 嘘でしょ?」
「なにその反応、傷つくなあ」
いいでしょ、と頬を膨らませながら愛衣は友人たちと軽口をたたく。そうだ、必死で周りが見えていなかったが、愛衣は友人たちと談笑中だったのだ。秋穂は「それじゃあ」と言ってその場を去ろうとするが、愛衣が「ちょっと待って」と秋穂を引き留めた。
「ね、ね、あたしのことさ、愛衣って呼んでよ」
「え!」
秋穂は飛び上がるように驚いてしまった。愛衣って、下の名前で、呼び捨てに?
「あはは、そんな驚かなくったってさ〜。よく考えたら丁寧に話すの禁止って言ったのに苗字にさん付けって変じゃん?」
愛衣は当たり前のように言う。秋穂にとってそれがどれだけハードルの高いことで、難しいことなのかも知らずに。秋穂は目をキョロキョロと泳がせて必死で言い訳を考えたが何も浮かばず、俯いて覚悟を決め、ぐっと顔を上げる。
「め、愛衣……さん」
「え〜、さん付けやだ〜。愛衣って呼んでよ〜」
「う、うぅ……め……愛衣」
「それでよし」
にひひ、と満足気に愛衣が笑うと、周りにいた愛衣の友人二人が秋穂に話しかけた。
「私は美月ね」
「私は雪だよ〜」
「ええっ! 美月……さんと、雪さん、ですね、洲崎秋穂と言います」
「私もさん付けやだな〜」
「呼び捨てがいい〜」
美月と雪が、上目遣いで秋穂をきらきらと見つめる。うう、と秋穂は一唸りし、それからまた覚悟を決めて二人を見る。
「み、美月……と、ゆ、雪……ですね、よろしくお願いします」
「そうそう、ありがと。それじゃあ私らも秋穂って呼んでもいい?」
「それから私たちにも丁寧な接し方禁止で〜」
秋穂が赤面して唸りながら二人とわいわいと話しているのを、愛衣は自分の大事な友人と友人が仲良くなってくれて嬉しいな、と思って見ていた。しかしそれと同時に何故か心のずっと奥の方に、少しだけ、ほんの少しだけ淀みを感じた。けれどそれは一瞬のことで、三人の会話に参加して秋穂の話をしていたらもう忘れてしまった。
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