第7話 パラレル
もちろん、発見された死体が、
「村上氏と瓜二つ」
ということであれば、どうなるだろう?
そもそも、少し前に、殺され、被害者になった人物が、殺人事件として捜査している最中に、今度は別の変死体ということで発見されたということになれば、どう解釈すればいいのだろうか?」
ということになるのだ。
もちろん、
「よく似た人というのは、世の中に三人はいる」
と言われているが、
「ただの偶然としか思えないが、そうではないともいえない」
ということであれば、そこに、
「ドッペルゲンガー」
という発想が出てくるのではないか?
ということである。。
ただ、このドッペルゲンガーも、
「もう一人の自分であるドッペルゲンガーを見ると、近い将来、死ぬことになる」
という
「都市伝説」
というものがあるではないか。
ドッペルゲンガーを見ると、
「どうして死んでしまうのか?」
という理由は、ハッキリと判明していないが、その謂れとして、
「タイムパラドックスを起こさせないようにする」
という、それこそ、
「理屈としては、一番正当性がある」
と言われていることである。
つまりは、
「今回の事件で、火事になったことで、顔が判別できない」
ということは、
「もし、これがドッペルゲンガーではないか?」
ということであれば、
「辻褄合わせのために、顔が判別できない」
ということになるのだろう。
ただ、そもそも、
「どうして、タイムパラドックスというものが、いけないことなのか?」
ということになる。
それはあくまでも、今の時代では、別の観点から、
「タイムパラドックス」
というのはありえないとも言われている気がする。
例えば、
「タイムリープ」
のように、
「過去に今の意識を持ったまま、戻る」
というのは、
「タイムパラドックス」
というものと変わりはないが、
「タイムリープ」
の場合は、
「過去の自分に乗り移る」
ということで、そもそも、
「同じ次元の同じ時間に同じ人間が存在する」
という
「タイムパラドックスということは起こらないだろう」
ということである。
しかし、だからと言って、
「過去を変えない」
とは限らない。
「過去に戻って、過去を変えてしまうことで、未来が変わらない」
とは言い切れないからである。
つまり、
「タイムパラドックス」
というものの、
「根本的な問題の解決にはなっていない」
ということになるのだ。
「タイムパラドックスの問題」
というのは、
「過去を変えると、未来が変わってしまう」
ということが問題で、
「過去の自分や、まわりの運命を変えてしまうからだ」
と言われている。
しかし、
「世界というのは広い」
というもので、一人の人間が生きているうちに行動する範囲の中で、
「運命を変えてしまうだけの歴史を変えた」
ということであっても、
「その影響がどこまで及ぶか?」
ということを考えると、
「少なくとも、自分が住んでいる当たりの未来が少し変わる程度ではないか?」
ということになる。
ただ、未来というのは、
「無限の可能性」
というものがあるわけで、
「それをすべて考えなければならない」
ということは、
「フレーム問題」
というものから考えてありえないだろう。
そもそも、
「次元が、時間についてこれない」
ということになるだろう。
そんな状態で、時間軸においても、世界が広がっているわけであるから、
「自分たちが想像しているだけの広さではない」
ということで、その広さが、薄くなってくると、
「限界として、まるでバブルが弾けるかのごとく、破裂してしまう」
という考えが、タイムパラドックスなのではないだろうか?
ということは、
「広がりすぎたことの、抑制をいかに調整するか?」
ということが、
「タイムパラドックスなのではないか?」
と考える。
だとすると、
「タイムパラドックス」
というのは、もろ刃の剣というもので、
「結局は、無限の可能性を、無限に考えてしまう」
ということで、結局は、
「タイムトラベル」
という概念を否定するということになるのではないだろうか?
それを思えば、
「パラレルワールドという考え方は、タイムパラドックスという問題と、フレーム問題というものがある限り、避けては通れない問題だ」
といえるのではないだろうか?
それを考えれば、
「今回、殺されたはずの村上氏が、今度は、自殺という形で、もう一人の自分が、自分でとどめを刺す」
ということになるわけである。
顔を分からないようにしたのは、
「人間の考えられる理屈」
というものをごまかしたいという意識があるのか、
「もし、その通りだ」
ということになるのであるとすれば、
「顔を焼くという所業をしたという何かの見えない力が働いている」
ということであれば、その仕業というのは、
「人間の創造主」
ということで、
「神様ではないか?」
と考えられるのだ。
そもそも、
「神様が人間の創造主だ」
ということであれば、
「ニワトリが先か、タマゴが先か?」
という発想になるのであって、
「神様が人間を作った」
ということであっても、神様が、
「人間の前に現れる」
ということではない以上、人間は神様を確認することはできない。
そのために、
「聖書」
などという書物に書き残すことで、その存在を伝承しようというものである。
だから、
「人間が存在しなければ、神というものの、伝承ができない」
ということになるであろう。
そして、もう一つ、今回の事件で、
「顔が確認できない」
ということで考えられるのは、
「自殺だ」
ということである。
「キリスト教」
のように、
「自殺というものは、自分を殺害するということで、殺人と同じだ」
ということであるので、
「自殺というのは許されない」
ということで、神様の罰から、
「顔が分からないようにした」
といってもいいだろう。
ただ、実際に自殺をしたものの中で、ハッキリと顔が分からないというものは、そんなにあるわけではない。
「列車に飛び込みう」
「ビルから飛び降りる」
などという。
「身体を傷つけることで、死を選ぶ」
と考えられるものでもないとできないだろう。
確かに、
「飛び降り」
「飛び込み」
と自殺は多いかも知れないが、それ以外にも、
「服毒」
「リスカ」
などというものもあったりする。
中には、
「ガス自殺」
というのもあったりする。
しかし、
「死に際がきれいな死体」
ということであっても、死んでしまったことで、
「どれだけの人に迷惑をかけることになるか?」
ということも言えるのだ。
特に、
「借金などのように、死に際に金が絡むものは、迷惑以外の何ものでもない」
といえるだろう。
「鉄道への飛び込み自殺など、賠償金を遺族に課せられる」
ということで、
「これ以上の迷惑はない」
ということだ。
さらには、
「借金を抱えての自殺」
などというと、
「遺族であったり、保証人を裏切る行為」
ということになるだろう。
もちろん、
「家族の病院代」
などということのために、借金をしたという場合などは、
「仕方がない」
ということもあるだろうが、
「ギャンブル」
であったり、
「美人局」
などのような弱みを誰かに握られたということでゆすられていたということであれば、それこそ、
「許されることではない」
といえるだろう。
ただ、
「死んだからといって、問題は解決しない」
ということで、
「ただ、逃げただけだ」
ということになるだろう。
だから、
「自殺というのは、自分を殺す」
ということで殺人と同じだと言われるが、
「逃げた」
と言われるような場合に限っては、
「本当に許されることではない」
といえるだろう。
ただ、今回の、
「村上氏の自殺」
というのは、どういうことであろう。
そもそも、村上氏の殺害という事件を調べていた刑事というのは、
「どこを探しても、彼が殺されなければいけない」
という理由が見つからないのであった。
ただ、村上氏のことを聴きこんできた中には、
「村上さんという人は、二重人格だから」
と言われたのだった。
それに、
「奥さんが不倫をしていて、どうやら、自分も不倫をしている」
ということだというではないか。
だから、殺人において犯人は、
「奥さんで間違いない」
ということになっているが、それはあくまでも、
「不倫」
という問題からである。
ということであった。
それ以外のことで、村上氏のことを悪くいう人はいなかった。
村上氏の不倫相手であっても、
「あの人は優しい。そうじゃないと、不倫と分かっていて付き合ったりなんかしないわよ」
といっていたのだ。
そして、さらに、
「彼は、恨まれるようなことは絶対にしなかった。不倫でも、女性の扱いは実にうまく、恨みを抱かせない」
ということに関しては、
「素晴らしい」
といえるということであった。
ただ。村上氏は、
「何を考えているか分からないところがあった」
と言われている。
「急に難しいことを言い出すことがあったんだけど、それは、自分が一人で考えていることを、いきなり、まわりにぶつけるからで、その内容は、実に理路整然としたものだ」
ということであった。
だから、そんな話を人にする時、
「しっかり相手が、判断できるかを見極めて、できないと思えばしなかった」
というのであった。
ただ、村上の性格として、
「自分が話の中心になったり、自分の話が盛り上がってくれば、自分の世界にはまり込んでしまって、まわりが見えなくなる」
と言われているようだった。
それにしても、
「奥さんに殺された村上」
と、さらには、
「自殺をしようとして、顔が焼けただれた」
と言われる、
「もう一人の村上」
というのは、どちらが、本当の村上だというのだろうか?
世の中には、
「パラレルワールド」
というものがあるという、
それこそ、
「次の瞬間には、無限の可能性が広がっている」
という言葉と同じで、
「一つの可能性だけで、最初から最後まで言っているわけではない」
ということだ。
その可能性というものを、どこまで信じさせるかということを考えると、
「どこかで、必ず、合っていないと思われる辻褄を、合わさなければいけない」
ということになるのだろう。
だから、この発想が、
「デジャブ現象」
というものを
「理解するために必要だ」
と言われるが、
「まさにその通り」
であった。
デジャブというのは、
「どこかで見たような気がする」
というものだが、
「そうやって記憶の引き出しから引きずり出したものが、理論を組み立ててくれるのだ」
と考えると、
「記憶というものと、意識というもののジレンマが、デジャブと、辻褄合わせだ」
と考えさせるのではないだろうか?
「パラレル」
というもの、
「パラドックス」
というもの、それぞれに、別々の可能性があるもので、パラドックスというのは、
「逆説」
という可能性になるということである。
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