真実と事実のパラレル
森本 晃次
第1話 プロローグ
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和6年6月時点のものです。お話の中には、事実に基づいた事件について書いていることもあれば、政治的意見も述べていますが、どちらも、「皆さんの代弁」というつもりで書いております。今回の事件も、「どこかで聞いたような」ということを思われるかも知れませんが、あくまでもフィクションだということをご了承ください。実際にまだ標準で装備されていないものも、されることを予測して書いている場合もあります。そこだけは、「未来のお話」ということになります。
最近、また自殺というものが流行っている。
自殺に限らず、事故というものは、
「連鎖する」
と言われているが、まさしくその通りだった。
事故というのは、昔から、自動車事故、列車の人身事故、さらには、航空関係の事故というのは、
「一度起こると、続く」
と言われるが、それを、
「謎の連鎖」
といってもいいのだろうか。
世の中で見つかる、変死体というもの、
「事故なのか、事件なのか、自殺なのか?」
ということで捜査される。
事件というのは、当然、殺人事件のことであり、
「犯人が存在している」
ということから、犯人を逮捕し、起訴しなければならない」
ということになる。
事故ということであれば、こちらの、
「被害者と加害者」
という関係で、いくら事故であっても、人を殺害したということには変わりなく、罪状が、
「殺人」
ということでなくとも、少なくとも、
「業務上過失致死」
ということにはなるということで、しかも、通報していないわけなので、もし、その時に生きていれば、
「救護義務違反」
ということになり、
「なぜ救急車を呼ばなかったのか?」
ということになる。
さらに、警察に通報もしていないわけで、こちらも、
「通報義務違反」
ということになり、いわゆる、
「ひき逃げ事件」
ということになるだろう。
そうなると、これは、もはや、
「交通事故」
というわけではなく、
「ひき逃げ事件」
ということで、
「事故ではない、事件だ」
ということになるのだ。
もし、そこに、
「殺意」
というものがあれば、殺人事件ということで、問題はまったく変わってくるといってもいいだろう。
事故と事件、その切り分けは難しいということで、捜査の段階で、明らかになってくることも多いだろう。
中には、
「殺人を、事故に見せかける」
ということも結構あるようで、ひょっとすると、今までに、
「交通事故」
ということで処理された事件の中に、
「本当は殺人事件だった」
というのも含まれているのかも知れない。
そうなると、警察は、
「まんまと犯人の術中にはまってしまった」
ということで、
「被害者が報われない」
ということになるだろう。
近親者や遺族の中には、
「これはおかしい」
ということで、警察に訴えていた人もいるかも知れないが、警察が、
「事故だ」
と判断したのであれば、少々のことで、再捜査ということはするわけもない。
よほどの証拠が出てきない限り、警察としては自分たちの不利になるようなことをするはずがないのだ。
もっとも、
「よほどの証拠が見つかった」
という時点で、
「警察の捜査が甘かった」
ということで、世間から、相当な非難を受けるということは免れないことだろう。
それを考えると、
「警察も、本当はいい加減な捜査ができるわけもない」
ということである。
また、
「自殺」
というものも、判断が難しい時がある、
「自殺に見せかけて殺す」
ということも、昔からよくあるっことで、そのトリックなども、よく、ミステリー小説などでは言われている。
自殺ということで、考えられるのが、
「服毒自殺」
というものであるが、この場合は、
「毒物の入手経路」
などというのが、問題になってくる。
「一般人は、そう簡単に入手できるものではない」
ということから、被害者が、
「手に入れることができる可能性のある中にいる」
ということであれば、
「自殺」
という可能性は高くなるわけだが、実際に、
「自殺者には、できないが、知り合いなどが、医療関係者」
ということであれば、自殺の可能性もないこともないが、
「知り合いという関係から、毒薬を盗むという危険を犯してまで、自殺者に協力する」
というのは、そう簡単にありえることではない。
しかも、毒を欲するのであるから、渡してしまうと、
「何に使うか、実際には分からない」
というものだ。
相手には、自殺の理由を説明し、
「そういうことなら」
といって、自殺を助ける気持ちになるものだろうか。
しかも、自分が危険の中に入ったうえでである。そんなことが簡単にできるということいなるのだろうか。
「相手は、自殺してしまうのだから、それでいいのだろうが、それに協力させられる方はたまったものではない」
相手からすれば、
「ありがとう」
の一言かも知れないが、ここまでして、自分に何のメリットもなく、下手をすれば、
「殺人事件」
ということで取り上げられ、いくら、
「自殺しようとしているので、手を貸した」
といっても、本人が死んでしまっているのだから、どうしようもない。
遺書などがなければもっとひどいことになり、何といっても、服毒なのだから、遺書がなければ、
「殺人事件」
ということでの捜査になり、その毒物の入手経路は、当然調べられることになり、
「俺には、入手可能だ」
ということになれば、警察は、
「自殺ほう助」
とは考えず、まずは、
「殺人」
という線から考えるに違いない。
実際に、殺人事件として捜査されることになると、本人が忘れていることすら、徹底的に捜査されることだろう。
さらに、
「俺が知らない事実」
ということもあるのではないかと考えると、恐ろしくなってくるというものである。
そのうちに、疑心暗鬼が強くなり、
「まさか、あの男、自殺というのはカモフラージュであり、本当に死を選ぶというのは、考えていたことであろうが、それを復讐に使おうというのであれば、できないこともない」
といえるだろう。
それが、
「自殺者と、ほう助者の関係」
というものが、
「二人だけの間の関係」
というものと、
「客観的に周りから見た関係では、まったく違っている」
といってもいいかも知れない。
「二人だけの独特な関係」
というのは、まわりから見ると、中のことはよく分からないが、
「客観的な目」
ということで、まわりは共通した意見を持っているのかも知れない。
しかし、二人の見解は、二人にしか分からず、
「それが、親友ということであれば、特にその関係性は、特殊なものだ」
といえるだろう、
警察は、あらゆる関係者に話を聞く。そして、二人の関係に捜査が及ぶと、
「二人の関係というのは、まわりから見ると、殻に閉じこもっているので、よく分からないけど、どうも、どちらかが優位に立っているようだ」
ということが聞こえてきて、
「被害者の方が、いつも下手に出ている」
という証言が強ければ、まず警察は、
「殺人事件として考える」
ということになるだろう。
当事者としては、一人の方向からしか聞けないわけなので、いくら訴えたとしても、その意見に信憑性を持たせるのは、
「相手が死んでしまった」
ということで、できるわけはないのだ。
そうなると、どうしても、まわりの意見が採用されることになり、容疑者としては、実に不利な状態になる。
本人としては。
「まるで、恩をあだで返された」
と感じることだろう。
そして、いろいろ考えてくると、
「俺は嵌められたのではないか?」
と思うのだ。
本人には、自分がそんなことをされる覚えはないのだが、
「人から、いつ、どこで恨みを買うか分からない」
というのが、今の世の中である。
そもそもが、
「恨みを買っていることも分からない」
というほど、鈍感なのだということを感じると、
「相手に恨みを買うようなことをしても、それに気づかない」
ということだとしても、無理もないことだろう。
少なくとも、その時の自分は、圧倒的に不利な状態に落ち込んでしまったわけで、死んだ親友が、
「草葉の陰からほくそ笑んでいる」
と思うと、
「これほど悔しいことがあるわけもない」
ということになるのであった。
確かに、
「それまで、誰かに恨まれるなどということがなかった」
と思っているが、
「実際には、人から、大なり小なりの恨みを買わない」
という人は、生きている以上、なかなか難しいことではないかと思うのだ。
「人は一人では生きていけない」
とよく言われる。
それを、
「そんな言葉は欺瞞だ」
と思っている人がいるとすれば、それは、
「自分だけなのかも知れない」
と、疑心暗鬼になった時点で考えると、どんどん、悪い方にしか考えられないようになってくるというものである。
だから、
「自殺のほう助」
というものは、しようとすれば、
「絶対に自分が不利なことになってしまう」
ということで、
「絶対にしてはいけないこと」
といえるだろう。
それは、まるで、
「誰かの借金の保証人になる」
ということで、世間では、
「一番してはいけない」
ということの代表例ということであろう。
誰かの借金の保証人になどなると、実際に、借りた人が金を返せなくなるということになると、まず起こる現象として、
「債務者が、どこかに逃げ出したことで、行方不明になる」
ということで、いわゆる、
「夜逃げ」
というものである。
すると、債権者というのは、
「保証人に対して、その返済を頼むしかない」
ということになる、
そうなると、保証人はたまったものではない。
「自分が借りた金でもないものを、債務者がいなくなった」
ということで、
「どうして、借金を背負わなければいけないというのか?」
ということになるのだ。
保証人を必要とするくらいなので、尋常な金額ということではない。
そもそも、テレビドラマなどで、散々、
「借金の保証人になった場合の末路」
というものを、思い知らされているのである。
というのは、
「借金の保証人になってしまうと、相手は絶対に逃がさない」
なぜなら、
「保証人がいなくなれば、取り立てるところが、完全になくなる」
ということからである。
だから、取立人も必死で、借金を返させようとする。
ひどい場合は、奥さんを風俗に売り飛ばしたり、借金の方にいろいろ理不尽なことも平気でさせられたりする。
何といっても、
「借用証書に、保証人として、署名を判を押している」
ということなのだから、
「逃れることはできない」
ということだ。
そんな悲惨な状況を、テレビドラマなどで見て知っているはずではないか。
それなのに、
「簡単に判を押す」
ということが果たしてあり得るのかどうかである、
よほど、
「何かの弱みでも握られていない限り、こんな、損にしかならない危険なことに、足を踏み入れる」
ということなどありえないのではないだろうか?
しかし、それでも、実際に、
「保証人をつけて、借金をし、債務者が、逃亡し行方不明になったために、保証人に、その債務が向けられる」
ということは結構あることであろう。
「どうして、保証人になんかなるんだ?」
というのは、一種の、
「七不思議」
ということになるのではないだろうか?
そんな理不尽な負いたてを食らい、結局、にっちもさっちもいかなくなり、
「自殺をする」
ということも結構あるに違いない。
これこそ、
「確かに、保証人になる」
という自分の行動の甘さが招いたということで、見方によっては、
「自業自得」
と言われるかも知れないが、それでも、
「本当は死ななくてもいいのに」
ということで、命を落とすことになったのだから、
「気の毒だ」
ということに変わりはない。
この場合は、確かに、
「追い詰められての自殺」
ということで、
「一般的な自殺」
に変わりはないわけだが、よく考えてみると、
「殺人に匹敵する」
といってもいいのではないだろうか?
「死んでしまわないとどうすることもできない」
というほど、追い詰められていたわけで、それを追い詰めるのが、
「借金の取り立て屋」
というものであり、しかし、
「もっと悪い、元々の悪党」
ということで、
「一番罪深い」
という意味で、
「金を借りておいて、返せないということで、逃げ出したやつ」
ということになるのではないだろうか?
警察としても、
「借金による夜逃げ」
ということで、
「捜索願が受理する」
ということになるかも知れないが、問題は、
「金銭の貸借」
という問題なので、これは、
「民事事件」
ということである。
警察の原則は、
「民事不介入」
ということなので、
「借金から逃れようとする人間を助ける」
ということはしない。
「危害が加わる可能性がある」
ということであれば、
「できる限りの身辺警護を」
ということで、見回りを強化するくらいのことはするかも知れないが、当然のことながら、
「四六時中、警察が護衛する」
などということができるわけもない。
したがって、
「自殺した」
ということであっても、それは、警察の範疇ではなく、
「ただ、事務的な処理が行われる」
というだけのことであった。
それを考えると、
「警察というのは、実に弱いもの」
ということがいえ、さらには、
「民事関係を警護してくれる機関があってもいいのではないか?」
ということである。
確かに、
「探偵などの、有料機関」
というものであればやってくれるが、その費用はかなりかかる。
「そもそも、借金を受け負わされた身で、できるわけもない」
ということである。
「世の中、本当に理不尽ということになる」
というものである。
そんなことを考えていくと、
「自殺する」
というその理由がどのようなものがあるかによって、
「自殺をどこまで防ぐことができるか?」
ということになるだろう。
しかし、実際には、それらの問題を解決する機関というものがあるわけではない。
警察としても、
「事件にならないと何もしない」
という性質ではないか。
少なくとも、
「自殺は事件ではない」
ということから、自殺は、
「自殺として形式的に処理される」
というだけのことである。
これは、事故というものに対しても同じことで、
「事故の原因について言及することもなく、事故として、形式的に処理する」
というわけである。
そもそも、
「世の中で、事故も自殺も、頻繁に起こっているわけで、それを一つ一つ検証したとしても、結局、その一つ一つに違いがあるわけなので、自殺や事故の理由を突き止めたとしても、検証するには、あまりにもパターンが多すぎるということである。何といっても、一つとして、まったく同じ事例というのは存在しないのだから」
ということになるのであろう。
要するに、
「物理的に、その検証は無理だ」
ということだ。
もしできたとしても、それを関連付けができなければ、
「自殺や事故の抑止」
というものに繋がらないということだ。
事故を防ぐということであれば、
「事故として問題になる」
例えば、
「鉄道会社」
であったり、
「航空会社」
道路関係であれば、
「国土交通省」
などが、
「事故検証チーム」
というものを作り、検証を行うということをすれば、少しは減るに違いない。
しかし、どの機関も、それをしようとすることはしない。
鉄道会社などはそのいい例というもので、
「人身事故が起こってしまったのは、事故だから仕方がない」
としか思っていない。
その証拠に、昔であるが、人身事故を起こった路線で、
「警察の調べ」
などが行われていて。
「運転見合わせ」
という状態だった時、ちょうどその時期は、連鎖的に、毎日のように人身事故が起こっていた時で、条約の数人が駅員に向かって、
「何やってるんだ。こっちは急いでいるのに、どうしてくれるんだ。タクシー代を出せ」
といっているのを見たことがある。
実際に、
「駅員に詰め寄っても仕方がないことだ」
ということであるが、確かに、数日の人身事故は、
「客側からすれば許せない」
という気持ちも分かるのだ。
そこで、詰め寄られた駅員は、
「いやぁ、人身事故ですからね、しょうがないですよ」
といって、笑顔で話しているのだった。
さすがに、利用者側が皆起こり出した。
実際に、駅員の胸倉を抑えようとした人もいたくらいで、駅員としては、
「何が利用客の気持ちを逆なですることになったのか分かっていない」
というのであった。
駅員とすれば、
「自分たちの会社が起こした事故。自分が悪いわけではなくとも、普段から、客と思って接していれば、そんな他人事のような態度はとれないはずだ」
というはずなのに、やっていることは、
「頭っからの他人事」
ということである。
「それまで、一人が怒っているのを、冷静に見ていた客も、駅員が、詰め寄ってくる客にビビッてしまい、客に対して、普段であれば、親近感が湧く笑顔を見せることで、許されるということを、一番やってはいけないその場面で行ってしまった」
ということである。
これほど許されないことはないだろう。
実際に、怒り狂っている客を、最初に怒っていた人の方も、
「急に点火してしまった火に、ビックリしているかも知れない」
そして、
「俺がやらなくとも、まわりが戦ってくれる」
ということで、そっちに任せると、自分も冷静になることができて、さらに、
「鉄道会社の非常識な対応」
というものを今度は、
「客観的に感じることができる」
ということで、
「自分から、責め立てる必要もない」
と考えるようになったのであった。
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