第5話

その日、義兄と別れて、帰宅したのが、午後9時頃。

スーツを脱いでハンガーにかけようとしていた私に、妻が言いました。


「そう言えば、さっき、ナガノさんという人が、家にいらっしゃったのよ。」


「ナガノ?!この家に入ったのか?おまえ、なにかされなかったか?」


ナガノという名前を聞いたときの私の反応が、よほど怖がっているように見えたのでしょう。妻は、心配そうに、私に聞きました。

「いいえ、なにも。誰なの?ナガノさんって、あなたと約束があると言ってたけれど。」


妻によると、ナガノという人物が、家に来たのは、午後7時すぎ。私が、義兄と会っていた時間帯です。その頃に、うちの呼び鈴が鳴ったそうなのです。うちのマンションは、一階のエントランスに入るときに、オートロックの共用玄関があります。来客は、そこで、訪問したい部屋番号を入力して、部屋の呼び鈴を鳴らす仕組みです。


ナガノと名乗る人物が、共用玄関の前から、呼び鈴を鳴らして、妻とインターホンで会話している様子は、インターホンに録画が残っていました。


映像では、ナガノの顔は、よく見えません。ナガノがインターホンに近づきすぎており、カメラは、ナガノの胸から、首あたりまでをアップで映しています。ナガノの着ている、紺色のスーツと、オレンジ色か黄色、でしょうか。そんな派手な色のネクタイが見えます。ときどき、口は写りますが、顔全体は、見えません。たぶん、若い男性だと思います。


呼び鈴に妻が出ると、ナガノが答えます。

「ナガノと申します。ご主人と約束があって、参りました。」


妻は、すぐに私の不在を答えます。

「夫は、まだ、勤め先から帰ってきておりませんが。」


ナガノという人物は答えます。

「おかしいな。ご主人は、今日は会社には行っていないはずですけれど。」


「いえ、今朝は、会社に行ったはずですけど。」

後で聞いたのですが、妻は、このとき、私が、家族に言わず、こっそり会社を休んでいるのじゃあないかと疑ったそうです。メンタル不調で会社を休んで、それを家族に言えないでいる、というような話、ときどきありますからね。それくらい、私は、ここしばらく、妻からみて、なにかおかしい状態にみえていた、ということなんでしょう。


「おかしいな。ご主人は、先週、事故にあって、まだ、怪我が治っていない。今日までテレワークになっているはずですよ。」

私は、声を上げそうになりました。先週、事故にあった高桑は、今日までテレワークで、明日から出社なのです。たぶん、ナガノは、あのとき、私と間違えて、高桑を攻撃したのでしょう。そして、なぜだかはわからないけれど、今も、高桑の出勤の予定と私の予定を混同しているのです。


インターホンの録画は、ここで切れていました。

妻が、このナガノという人物は、会話を続けるべきではない不審人物と判断して、ここでインターホンの会話を打ち切ったのです。


その30分後に、もう一度、妻が、インターホン越しにエントランスのカメラを確認していましたが、その時点では、すでにナガノは、いませんでした。


インターホンの録画をみおわって、私は、本当に恐怖を感じていました。冷たい汗が首筋を流れ、口の中に苦い唾液がたまり、喉になにかつまっているような感じがしました。


妻が聞きます。

「ナガノって誰なの?」


私は、妻に、会社にナガノという人物が来たこと。それが誰だかわからないこと。ナガノが来た後、会社の同僚で、怪我をした人がいること。ナガノが呪いをかけると言っていたこと。を、妻に説明しました。


ナガノが、「私」に呪いをかけようとしているとは言いませんでした。はっきりとはいいませんでしたが、私の「会社」に恨みがある人物のように印象づけるように話しました。妻に心配をかけたくなかったのです。小説のNくんの話もしませんでした。どうせ、説明してもわかってもらえないと思ったのです。


妻は、ナガノのことを、私の会社の商品に対するクレーマーのような人物と解釈したようでした。


私には、

「あんまり、危険な仕事はしないでね。」

とだけ言いました。

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