天泣

空野閑人

天泣

 雲が分厚く垂れこめていて見えなかったけど、太陽が空の高みに差し掛かる頃合いだったと思う。いつもの場所でいつもの手筈通り、歔欷きょきの儀が行われている。今回の慟哭者代表の家族のみんなが、祭事場の中心で泣いていた。今回捧げられた方のお孫さんだろうか、女の子の声がとりわけ大きく響いていて、痛ましかった。

 彼女らだけではない。場を取り囲むように並んだ村人の皆が泣いていた。涙を流さなくては、いけなかった。



 儀式の翌日は決まって休日となっている。村人たちは心なしか静かに一日を過ごす。私の場合は、唯一の話し相手に会って、儀式で捧げられた人についてのお話を聞くことが習慣だった。目立つところでは話せないから、森の少し奥まったところへ足を運ぶ。

 以前、外から来る商人さんの話を盗み聞いたことがある。「この村は恐ろしくお人好し」で、「気味が悪いほどやさしい人が多い」と彼らは言っていたっけ。思い返せば、村の中で喧嘩沙汰が起こっているのを見たことがない。どの顔にも笑みが浮かび、穏やかな表情をしていた

 ……私たちに対するときはその態度に陰り《かげ》が出るけれど、それはさておき。

 その優しさの目的は何だろうかと問われれば、村の人はきっとこう答えるのだろう。「誰かが命を終えたときに、より深く、真の悲しみを感じるようにするためだ」と。

 余計な諍いを起こして涙を無駄にしないためというのもあるのかな。とにかく、悲しみと涙は大切なのだと。それがこの村の共通認識らしい、美徳とさえされている。涙は神への供物、悲しみは神に届かせるべき祈り。そう信じられている。

 

 空模様は神様の心境を映す鏡だという。晴れは安寧、くもりは不安の兆し、そして雨は、神が何かに心揺さぶられ流した涙。この村の主な仕事は農耕だ。だから、ほどよく降雨が必要。そこで彼らは神の憐憫を誘う。そのための歔欷きょきというわけだ。「命を終えたときに」と言っているが、そのために「終わらせられる」命がある。

 どうして私が一歩引いた視座でいるかというと、村に属しながら関わりが持てないからだ。私と私の周囲の人は、村の役割の中でも最も穢れに近いとされる仕事をしている。獣の皮の加工、刑罰の執行やその後処理を請け負っている。

 歔欷きょきで命を摘み取るのも、私たちの仕事……私はまだやったことがないけど。腕っぷしの強さだけはあるから、多分そのうち順番が来るだろうと、覚悟だけはしている。

 こんな役割のせいだ。空間を共有しつつも、明確な区分けが存在している。生きる世界を区別しているのだ。みやこの方では四民平等なる言葉が掲げられてしばらく経つらしいけど、そんなものはどこ吹く風だ。少なくともこの村には吹いていない風だ。

 

 特に私は、この村の生まれですらない。どこか山奥から下りてきた死にかけの両親が、抱えていた幼子をこの村に預けたらしい。最初からよそ者だった、私は。

 その山というのもいわく付きで、まずもって人が暮らしているような場所ではない。両親が下りてきたという日も不自然な山火事が起きていたらしい。狐火を見たという村人もいるが、こんな村の住人の言うことの信憑性は眉唾物だ。

 情け深いことに最低限の衣食住は用意してもらえたものの、早々に一人での生活を強いられた。生まれつきの白い髪と薄い肌の色が、排外意識に拍車をかけた。仕事の中で獣の血液が髪にかかれば、「お前にはべにがよく映える」と下卑た言葉をいかにも悪意なさげな笑みと共に投げかけられた。

 

 そんな中でも風変わりな人間はいるもので、ひとりの少年――「マサル」だけが私と頻繁に話す間柄だ。私にもう一つの名前を、「はく」を与えてくれたのも彼。両親から名づけはされていたはずだが、忘れてしまった。使われないものはすぐに忘れてしまう。だから白という名前が私の名前としておきたい。

 交流のきっかけは、あるとき村の外れで静かに泣いている彼に出くわしたことだった。儀式の日以外に泣くことは咎められるから、私の足音に気がつかれたときはずいぶん怯えられた。いわば涙の無駄打ちをしてしまっているわけだけど、私にそれをどうとも思わなかった。

 その時は何も言わずに通り過ぎたが、何度か森の中で会うようになって、徐々に口をきくようになった。

 

 


 森の奥。待ち合わせ場所にいくと、既に少年がいた。いつもの木のうろから頭だけを出して、こちらを覗いていた。何か挨拶をするでもなく、手にした木の枝をかすかに振っている。私も手を振り返して洞に入る。地べたに腰を下ろすと、彼は小さな巾着を渡してきた。

「お話の前に、これ。あげる」 

 開けてみると、中にはボツボツとした突起のある粒が入っていた。小石のようにも見えるが、重くはない。なんでも、「こんぺいとう」と言うらしい。音の響きから、異国からの物なのだろうと思った。

「お父さんからもらったけど、固くてボクは好きじゃなかった」

「そぅお。ありがとうなあ、うれしいわ」

 1粒つまみあげてまじまじと見つめる。今まで見てきた木の実とも石とも似通らない、不思議な形が可愛らしい。口に含んですぐには味がしなかったけど、そのうちにじわりと甘味を感じた。試しに歯を立ててみると、乾いた心地よい音と共に粒が砕けて、果実とも違う、香りのない純粋な甘さが強く広がる。食感も楽しめる。いい菓子だ。そう簡単に手に入るような物ではない気がする。改めてお礼を述べると、少年は「持て余してたから、ちょうどよかった」と言った。なぜかそっぽを向いてそう言った。


 3粒ほど菓子をカリカリとつまんだところで、少年が話しだした。意見を求めるというよりも、自分自身に問いかけるような、静かな口ぶりだった。

「昨日の歔欷、女の子が中央にいたでしょ。隣の家の子なんだ。順番が来たって前から教えてくれててさ、その時あの子泣きそうになっちゃっててさ、ボク、ここに来れば泣いてもバレないよって言えばよかったかな」

「すっかり泣くことに遠慮がのうなってきてるなぁ。そんなん言うとったら、お前さんが叱られてしまいそうやけど」

 後半はあえて目を合わせて言った。どうも最近の彼は、村の習わしに懐疑的になっている。いつか度を越して目に余るようになってしまったら、私も心穏やかではない。かといって、村の風習に迎合してほしくもないが……。

 私の視線から顔を逸らし、俯きながら彼は言葉を紡ぐ。

「選ばれたおじいもおばあも、まだ生きられそうだったのに……サチコちゃん、あ、女の子の名前なんだけど、大きくなったサチコがかんざしつけて、おばあの着物を着るとこ見てみたいって言ってたのに……」

「それがええとされてるんやろ。そっちの方が、未練があるほうがもっと悲しゅう感じられるさかい。そやから死んでから歔欷きょきをするんやのうて、歔欷きょきのために死んでもらっとるんやろう」

 無神経な発言だったかもしれない。他人事に思っている部分が出すぎた。顔をあげた彼の目元は、想像以上に険しかった。今ここで言い争いをして騒ぎを起こすのは避けたい。

「ごめんな、今のはよくない言い方やった」

 手を合わせながら頭を下げた。彼は何か言いたげだったが口をつぐんだ。その隙に言葉を続ける。

「うちだって思ってる。こんなん、おかしい。でもな、マサル。こないな時にできることは2つしかないねん。周りを変えるか、自分が変わるか。この2つしか、ない」

 少年は小さく息を吐き、指先で弄んでいた枝をポキリと折った。やけにその音が響いて聞こえた。

「今更、歔欷きょきをやめさせられるとは思えない。かといって……でも、じゃあ……」

 不意に、風に乗って笑い声が聞こえてきた。かすかに、甲高い子どもの声が複数響いている。どうもこちらの方向に近づいてきているようだった。二人して壁際に身を寄せて息を殺す。草を踏む音がどんどんと大きくなり、そのまま通り過ぎていった。一瞬見えた煌びやかな服装から考えるに、村長の娘とその取り巻きだろう。相変わらず派手な恰好だなとしか思わなかったが、彼は信じられないものを見たかのように目を大きくしていた。

「……あれ、サチコちゃんとこのかんざしだ」

 

 大して話せないうちに、その日の会話は打ち切られてしまった。村長の娘の後を追うように、彼が洞から出て行ってしまったからだ。うっかり私が娘に見つかろうものなら何をされるかわかったものではなく、戻ってくるかもしれないからと、私はうろでただ金平糖をつまみ続けた。




 例外的に次の歔欷きょきはそう間もなく行われた。普通は一年に一度程度の間隔だが、前回から雨が一切降らなかったのだ。昨年度が不作気味だったというのもそれを後押しした。

 マサルとはそれなりに親密になっていたつもりだったけど、だからこそ言えないこともあった。それがお互いにそうだったとわかったのが、歔欷きょきの当日だった。

 今回の犠牲者を手に掛ける担当は私だということ、少年もまた、次の犠牲者が彼の祖母だと明かさないままにいたのだった。


 あんなことをしたかった、こんな光景を見たかったなど、犠牲者は未練を一通り述べる。その後に、私によって殺される。彼の祖母は年相応に老けてはいるものの、外見上の不健康さは感じられない。こんな風習さえなければもっと生き永らえられただろうに。手にした御幣ごへいのつけられた刀が、ひどく重く感じられた。

 すすり泣く声が既にあがり始めている。少年へちらと目をやると、下唇を噛むような、悲哀よりも嘆きの色をそこに見た気がした。


 未練を述べるのも終わりに差し掛かる。

「マサルはおばあのごはん、美味しいって言ってくれたねえ。いつもいつもありがとうって、言ってくれたねえ……他にも言いたいことたっくさんあるけど、出てこないもんだねえ。この時が来るとわかってたのにどうしてもっと言ってこなかったのかねえ……ごめんね」

 「ごめん」と、その言葉が未練を言い終わったことを意味する。周囲の村人は、表面上はすすり泣きを維持しつつ、本泣きへと移行するタイミングを図っている。向けられる「今か今か」という視線が私を刺す一方で、実に穏やかな老婆の視線が私を貫く。

 なぜそんな顔をするんだ、受け入れられるんだ。本気でこれが人の死だと……思えてしまうのだろう。

 目の前の景色を全て蹴散らしたくなって、私は刀を振り下ろした。意識するのを忘れていたが、教えられた通り致命傷にはなっていない。痛みに呻く様子さえも、虚気は利用する。だから、すぐに絶命させることは禁じられていた。

 刀が振るわれるたびに悲鳴と泣き声、血飛沫が上がった。曇天の下で、地上の赤が実に鮮烈だった。

「もうやめて!」

 マサルの声だった。他のどれよりも大きな音に私はハッとなり、改めて目の前の状況を見た。腹部の切り口から這い出た臓腑が祭壇の床に落ち、じくじくと赤黒い液体の垂れる肩からは一部白色が覗いている。

 いつのまにか、呻き声すらあがっていなかった。いや、それは音を消されていただけだった。身体は痙攣し、それでも喉の奥から掠れた呻きをあげる。殺されていない、いや、まだ殺してもらえていない。その境界線に置かれた存在の、あまりにも静かな絶叫だった。

 獣を解体することはあるが、畜生と人とではあまりにも差があった。私はくらくらする頭の手綱をどうにか操り、心臓めがけて刀を突き出した。


 最初に感じたのは皮膚の弾力だった。次に脂肪と筋繊維。わずかに角度を修正すると、筋膜が断たれ、刀がより深く潜っていく。

 肋骨に鋼が当たって、その感触に手が一度止まる。しかし、瞬きひとつする間に乾いた音とともに割れ、刃の道を空けていく。

 びくり、と内側から肉が跳ねた。生きている臓器の、自発的な鼓動が刀を押し返してくる。その動きはすぐに弱まり、刃が中心を貫いた瞬間、強烈な締まりが刀に伝わる。

 これが、命が尽きた瞬間なのだと直感的に理解した。

 温かい粘性のある液体が、力強く、刀身を逆流するように溢れる。胸を貫通した刀の先が、背中の皮膚をわずかに持ち上げる。生贄の体が大きく痙攣し、最後の吐息をもって、静かに沈黙した。

 刀を引き抜くと、バタリと死体が倒れた。足元に広がる血溜まりがバシャリと音を立て、あたりを汚した。ひとりの人間が死んだ。否、殺された。

 私が殺したのだ。

 なんだか熱に浮かされたような心地だった。誰かに操られるように振り返ると、少し遠くに少年の顔があった。そこに浮かんだ絶望と不条理への憤慨、何よりも憎悪の表情が、服にかかった血のように記憶へ染みを作った。

 いよいよ沸き上がった歓声のような大勢の慟哭に、少年の絶叫はかき消されてしまった。



 

 儀式の翌日、いつもの場所に彼は居なかった。当然だろうと言われるかもしれない、私だってその可能性を考えから外してたわけじゃない。でも、もしもに縋らないほど私は強くなかった。

 会って話がしたかった。どこへ向けた謝罪かは自分でも分かってないけど、とにかくごめんと言いたかった。もう少年と話せなくなってしまうかもしれない。その懸念からどうにかして逃れたかった。

 そうなってしまっては、かろうじてつながっていた世界が閉ざされてしまう。私の世界に私だけしかいなくなってしまう。この森もこのうろも、ひとりでいるには広すぎだ。

 もし会えたら何を伝えればよいだろうかと考えていた。それに集中していたせいで、近づいてくる足音に気がつくのに遅れた。一縷の期待を込めて振り返ると、そこには村長の娘が居た。

 女性と少女の中間のような、微量のあどけなさの残る顔つき。千紫万紅の服を纏い、かんざしがキラリと西日を反射する。歔欷きょきが空虚な行為であると知ってるよ、と言っているようで、そのきらめきが彼女には相応しくないと思った。

 彼女は村の中では行儀よく振る舞っているが、私の前では自己中心的かつ傲岸不遜な本性をさらけ出す。その一方で頭は回るからタチが悪い。

「うわっ、誰がいるのかと思ったらオマエかよ。最悪。あ、動くなよ。穢れが移っちゃうわ」

 なら最初から何も言わずにどこかへ行けばいいのに。そうしないのは、普段いい子を演じている鬱憤を晴らそうという魂胆なのだろう。

「変わらず姦しいなあ。そういやそのかんざし、自分のちゃうらしいやんか。村人さんがゆぅとったわ」

「なあに?やっかみ?醜いなあ。自分はこんなにきれいな物、手に入らないからって醜すぎるよ。救えないね」

 否定はしないのか。それも不思議ではなく、私のような身分の者たちは歔欷きょきの間、村周辺の見張りを担当することがある。そして私は見たことがある。村人の家に忍び込む何人かの姿を、かつての歔欷きょきで。その中に彼女もいた。

 歔欷きょきの儀を取り仕切る村長一家は、厚い信頼を得ている。私なんかが告発しても、取り合ってくれないだろう。間接的に糾弾しようとしても、きっとうまくいかない。だからこの前マサルが反応したときも、黙っていた。

 けど、正規の村人が気づいたという点は脅威になりえるかもしれない。だから揺さぶりをかけてみたのだが。すさまじい自信だ。

「……余計なこと言ってると、次の歔欷きょきではついでにはくも捧げるように言っちゃうよ」

「好きにしいや。しょうもない」

 普段は名前でなんか呼ばないくせに、皮肉たっぷりに口にされるとざらざらした感じがする。

 腰を上げて一歩近づくと、演技がかった悲鳴を上げて逃げていった。

 失せろ。私を名前で呼んでいいのは彼だけだ。




 マサルとの再会は、存外早く訪れた。「明日話したい」とだけ書かれた紙が住まいに届いていた。

 何を話すのだろう。やはり考えながら歩く。


 道すがら用意していた言葉の数々もいざ目の前にすると霧散してしまい、とりあえずで開けられた口からは何も音が出なかった。対照的に、マサルは凛然と声を出した。

「周りを変えることにした。みんなの目を覚ます……もう、泣かなくていいように。好きに泣けるように」

「えぁ、変えるって、どないして?」

 狼狽えながら投げかけられた質問に答える代わりに、彼はいくつかの紙を袂から出した。

「覚えてる?サチコちゃんのかんざし。村長の家を探ったら、歔欷きょきの儀ごとの紙があって、捧げられた人とその人から奪った資産の一覧が書いてある……村長は、歔欷きょきで命も悲しみも……家族の宝物まで奪っていたんだ。この紙を、それぞれの家に配る」

「そないなことであいつらの目は醒めへんわ。無謀や、やめとき」

「それでも」

 彼は私の言葉を遮る。

「ボクはそうしたいんだ。自分を捻じ曲げることはできなかった、だから周りを変える。ボクがどうなったっていい、何もしないではいられないんだ」

「そこまでして救う価値のある村なんか?自分らが満足してるならええやんか。うちと一緒に逃げよう。これも周りを変えることになるやんか」

「ごめんね、はく。ボクは、村の人たちを、嫌いになりきれないの」

 この言葉を最後に、彼は村へと帰っていってしまった。踵を返す刹那、泣き出しそうな顔を一瞬浮かべたように見えた。

 救おうとするあなたに救われた私の想いはだんだんと冷たくなっていった。それをごまかしてくれる雨は、いまだに降らない。




 翌日の村は、変だった。表では変わらぬふりをして、家の奥にはざわめきが起こっている。

 だけど、動いたのは村人ではなかった。

 非常時に鳴らされる半鐘が響き、村の全員が広場に集まった。本来、私のような身分の者は集まりに顔を出してはいけないのだけど、マサルが何かしようとしているのだろうかと気になった。遠くから様子をうかがうと、村長の娘が号令をかけたようだった。

「みんなの家に届いた帳簿は、全部この子が作ったデタラメ。この前の歔欷きょきの儀でおかしくなっちゃったみたい。みんなも見てたでしょ、狂人みたいに叫んでたの。でも安心して」

 娘がさっと横に移動し、背後にあった何かが姿を出す。被せられた布を外すと、そこには物言わぬマサルの姿があった。

「これ以上狂う前に、はくに対応してもらったから」

 その場に立っているだけで精いっぱいで、大声を出して間違えを正す気力も、激情に任せて彼女を痛めつける気も起きなかった。マサルが愛した村の構成員だ。傷つけることは意に反してしまう。

 誰か私の姿を目ざとく見つけたのだろう。悪への制裁を加えた私への称賛の声が飛んでくる。どの声も耳にいれたくなかった。どいつの声も雑音だ。笑顔の張り付いたあいつらの姿さえ目にしたくない。


 彼が嫌いきれなかったものを、私は愛しきれない。

 元から隔絶されていたんだ。仲立ちを失った今、私は私の世界で孤独になるほうがいい。こんな正しさしか知らない世界なんて、私の生きる場所じゃない。

 視界のふちの滲みに堪えかねて、とうとう瞳を閉じた。


 ひとつの足音が間近に迫っていた。通りすがりに何を言われるのだろうかと身構えたが、何も起こらず通り過ぎて行った。嫌味だろうか。音からして少し遠回りをした様子だった。目を開くと各々日常に戻ろうとしていて、私への関心はすっかりなくなっているようだった。




 思っている以上に孤独になってしまったと分かるまでは、そこそこの時間を要した。私から一定の範囲に人が近づくことがなくなった。いや、近づけなくなってしまっているようだった。私の周囲には、外界と私とを隔てる陽炎が立ち上っている。不可視の柵のようだ。外からこちらを認識できなくなっているようで、まともに会話も成立しない。それをいいことに物をかっぱらって村を出て、都を目指した。目的と言えるものはないけど漠然となんでもありそうな気がしたから。

 

 美味しいものも、珍しいものもたくさんあった。清潔な服は着ていて気持ちがよかった。でも、物質的な幸せがあふれていても、それでは何も埋められていない気がしてならなかった。笑い声の響く街中で、私はますます透明になっていくようだった。

 自然の少ないこの街では、雨粒だけが私の本当の輪郭に触れられた。それに安堵を覚える一方で、かつての村のことを思い出して喉が詰まるような感覚もあった。

 いつしか街では透明人間が物を盗むという噂がまことしやかに囁かれ始めた。それが唯一の存在証明だった。それひとつでは耐えられないほど、虚しさが大きくなっていた。私が望んでこうなったはずなのに、自分の意志ではどうにもできない陽炎が憎かった。誰かが私の存在に気がついてくれるとしたら、私が身を投げて地面に染みを作った時だろうか。それすらも視認されないままに、私は朽ちていくのか?


 そんな考えがよぎった日の夕方だった。雑踏の中をぽつねんと歩いていると、ふと一人の女性に目が留まった。黒の袴に同じく黒の編み上げブーツ、上半身は藍色の銘仙に身を包んだ、私と同じくらいの年齢の子。学生帽を被っているのは異色だが、惹かれたのはそこではない。

 鍔の隙間から覗く瞳に魅了された。書店を出てすぐのベンチで読書にふける瞳は、楽しげを越えて恍惚としているようにさえ見える。ときおり見せる、艶やかな黒髪をかき上げて読書の邪魔にならないように除ける仕草が嫋やかだった。

 生き生きとした視線が不意に上げられ、私の方へ向けられた。

 目が合う。視線が、逸れない。

 こちらがピタリと固まっている間に、ぱたんと本を閉じてカバンにしまい込んだかと思うと、人波をかき分けてこちらに近づいてくる。高鳴る胸をなだめすかしているうちに彼女との距離はどんどん縮まり、静謐な水面が穿たれたように陽炎が揺らいだ。とうとう彼女は私の手に触れた。彼女の肌は死人のように白かったけれど、ずっと待ちわびた温度が確かにそこにはあった。

「透明人間さん、捕まえた」

 低めの声が心地いい。口調は淡々としていたものの、あの村では得られなかった本当の笑みが目元に浮かんでいる。私も何か言おうとして、しばらく使われないままだった喉からは震えた声が出た。

「なん、で?」

「そんな髪色は目につきやすいからね」

 いや、そうではなく――

「……常ならぬ力を持っているのは君だけじゃない。でも大丈夫。たくさんではないけど、私たちの居場所はちゃんとある。だから、もう、大丈夫」

 両の手で包み込まれたぬくもりが伝播して、全身まで包んでくれているようだった。勝手に流れ出した雫が地面に点を描く。私の足元だけじゃない。晴れているのに、地面には点がたくさん描かれ始めていた。

「狐の嫁入りってやつ……やろか」

「天泣、とも言うらしい。天が泣くって書いて、天泣」

 なあんだ。雲がない時にこそ、天は涙を流すのか。

 急に笑い出した私に驚くでもなく、あんまり綺麗に笑うからと、女の子も「ふふふ」と淑やかに笑い声を漏らした。


 周りが慌てて傘を掲げだす中、私たちだけが無防備に服を濡らした。どれだけ濡れても、手にしたぬくもりが消えることはないとわかっていたから。


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天泣 空野閑人 @Sorano_shizuhito

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