第2話 スピードが命
数日後。会議室で柿谷先輩から営業初心者のぼくへのレクチャーは続く。
「法人のお客さんと個人のお客さんの一番の違いは何だと思う?」
「会社が買うか、自分の財布から買うかの違いじゃないですか?」
ぼくは答えた。
「いいね。と言うことは?」
柿谷先輩はにっこりと微笑んだ。実に感じがいい。女子社員に人気があるのだが、彼は嫌みがない。お客さん、つまりほとんどはおじさんたちにも好感を持たれるだろう。
「はい?」
ピンとこなかった。
「と言うことは、お客さんの担当者にとってはどうでもいいということだ」
「えっ?」
「自分の財布から出るわけじゃないと言ったよね。しょせんは会社の金だ」
「・・・・・・」
「他社の商品やサービスを買うことで、自分の仕事が便利になればいいのだよ」
「はあ。でも我が社の製品が他社より高かったら買ってくれませんよね?」
「そうでもないよ。この製品はこんなに優れていて、価格差を上回るメリットがありますと自分の会社にちゃんと説明がつけば買うよ。それが本当に仕事の役に立つのなら。そのお客さんが社内で説明をつけるところを手伝うのもぼくたちの仕事だけどな」
「なるほど。営業やるの初めてなので、そういう発想はありませんでした」
「全然問題なし。そのためにこのレクチャーの時間があるんだから」
柿谷先輩はまたにっこりと微笑んだ。ほんと爽やかだな、この人。
「根本的に考えてみようか。そもそもお客さんはなぜうちみたいなよその会社から商品やサービスを買うかわかる?」
「役に立つからですよね」
「そうだけど、その前に。自分の会社じゃできないか、やっても効率が悪いから他社に頼むわけだよね。だから機械を買ったり、サービスを受けたりする」
「ああ。そうですね」
「他社に頼むことは自分の会社の仕事の延長なのだよ。大丈夫かな?」
「自分で必要な機械を作ったり、作業をしたりする代わりに他社やってもらうということですよね?わかります」
「OK」
柿谷先輩はひと息ついた。
「それでは、どの他社に自社の仕事をやってもらうか。これが取引先を選ぶということだ。さて、どうやって選ぶ?」
「安いとか、品質が高いとかですかね」
「もちろん、それは重要だ。さっきも言った通り、自分の会社に説明して納得してもらうレベルはクリアする必要がある。じゃないと売れるわけがない。はい、さらに何かない?選ぶポイント」
「えっ?ちょっと思いつかないですね」
他に何かある?
「簡単に言ってしまうと、パートナーとして信頼できるかということだ。さっきも言った通り、自分たちの仕事の一部をやってもらうのだから、スムーズにまわしてもらわないと困るだろ?」
「確かに。そうですね」
言われてみれば。
「そこでお客さんから信頼してもらうためのポイントだ。何がある?」
ぼくは柿谷先輩の質問に満足に答えられていないが、それで別に詰められることもない。わからなくて当たり前だと。だからリラックスして、クイズ感覚でこの時間を過ごすことができる。先輩は教えるのがうまい。
「ええと、書類とかいろいろ間違えないということですかね?」
「もちろん、間違いはできるだけ少ない方がいい。ただ、ゼロにはできないから間違ったらすみやかにお詫びと訂正をしないとね」
柿谷先輩はごくりとお茶を飲んだ。話が佳境に入るらしい。
「まあポイントはいろいろあるから、おいおい説明するけど。ひとつとびっきり重要なことがある」
「・・・・・・」
「それはレスが早いということだ」
「レス?」
「お客さんからの連絡はほとんどメールで来るだろ?それに対する返信は早ければ早いほどお客さんに好かれる。そこは鉄板だ」
「はあ」
何だかわかったような、わからないような。
「お客さんからのメール、特に最初のうちはほとんど質問か依頼なんだよ。そこはわかるよね?それで、質問か依頼をするということはその時点でお客さんの仕事は止まっているということだ。我が社の回答がないと先に進まない」
仕事で我が社がからむか、からむかもしれないことに関しては確かにそうだ。
「であれば、我が社からの返信がすぐ来たら、お客さんはストレスなく仕事を進められるよね」
「それはそうですが、お客さんからのメールの内容によってはすぐ返事できないものもあるんじゃないですか?」
「もちろん、それはある。その場合はメールを拝見しました。いついつまでにご返事しますと返せばよい」
「なるほど」
「ただ、その際に二つ気をつけることがある」
「はい」
「第一にいついつまでに返事しますと自分で設定する期限は必ずサバを読むこと」
「サバ?」
「ちょっと確認したらすぐ返事できるなと思ったら今日中にご返事します。今日中には何とかと思ったら明日までにはと期限を切る。自分ができそうだなと思った期限に必ず時間を足す、つまりサバを読んで返事するんだ」
「安全策ですか?」
「もちろんそれもあるけど、こう返事しておけば、ほとんどの場合、自分が設定した期限より早く返事できるわけだよね。つまり、お客さんの立場になれば、期待しているタイミングより早く返事を受け取ることになる。好印象しか残らない」
「そういうことですか」
感心した。こういうことを教わらなければぼくは馬鹿正直に期限を設定しただろう。それはつまりギリギリの期限を意味して遅れるリスクがあるし、期限を守ったとしてもお客さんにとっては当たり前に過ぎないのだ。
「というわけで、お客さんとの付き合いで大事なのはスピードだ。営業開発室のアドバイザーは」
「また誰か来るんですか?」
「もちろん。次は二瓶秀雄さんだ」
レクチャーが終わってから、また超能力者かよ、今までの講義は何だったのだと思いつつも、ぼくは営業開発室・二瓶さんのところへ挨拶に行った。
二瓶さんはうまく言えないが、遊び人風の人だった。馬券売り場によくいそうな。そして、まさにそのまんまで彼は昼間からデスクで競馬新聞を読んでいた。これで誰も咎めないのは凄い。どんな業績を上げているんだよ。
「白井です。本日お世話になります。よろしくお願いします」
ぼくが頭を下げると、振り向いた二瓶さんは人懐っこそうな笑顔を浮かべた。
「おう、若いの。よろしくな」
とだけ言って、また競馬新聞に戻った。大丈夫かよ?
翌日。あるお客さんを柿谷先輩、ぼく、そして二瓶さんの三人で訪問した。
このお客さんは我が社との商談が大詰めに来ていて、契約寸前だった。ぼくたち営業は何とか今月中に契約書へ捺印して欲しかった。買ってもらう機械は品不足であり、ようやく確保したやつは現在仮押さえ。なかなかこのお客さんが契約をくれないので、他の商談で先に成約したら取られてしまう可能性があった。そうなると、今度はいつ手配できるかわからない。
ひどい話だが、お客さんから導入希望日はしっかりと指定されていた。納期厳守だと。契約をくれないと導入できるはずもなく、しかもせっかく確保した機械は失いかねない状態。
今日も今月中に契約をいただかないと本当にまずいですと柿谷先輩が何度もお客さんに懇願したが、お客さんの担当者は社内手続きがいろいろあってねえとのらりくらり。先日の一色さん同様、営業開発室の二瓶さんは今日の商談でひと言も発しなかった。見方によっては薄笑いと思える表情を浮かべているだけだった。
「契約くれないなら機械は入れられませんと蹴っ飛ばしてやりたいんだけどな」
お客さんのビルを出た後、一緒に入った喫茶店で柿谷先輩がこぼした。
「でも、そうも言えない弱みがあるんだよなあ」
商談が終わって、二瓶さんはちょっと行ってくらあとどこかへ姿を消した。また帰ってくるらしい。オフィスではなく、なぜここで彼を待っているのかわからなかったが、柿谷先輩から説明はなかった。
「弱みって、どういうことですか?」
柿谷先輩に質問。ぼくはまだ、この商談の背景などをよくわかっていなかった。
「君も知っている通り、この機械自体はたいした値段じゃないじゃん。ただ、これが入らないと続きが入らないのだよ」
要は今回の機械導入をきっかけに高価な機械を続々と入れようとしているらしい。ただ、最初の導入をしくじると後に続く大型商談は全部消え失せるのだとか。それはこだわるはずだ。
「お待たせ!」
二瓶さんの声。ぼくは彼の姿を見て絶句した。
和服、それもいわゆる着流しで時代劇によく出てくる遊び人の姿だった。なんでコスプレしてるの?
「こちらお願いします」
柿谷先輩が鞄から取り出した契約書、まだ捺印してもらえてないやつを二瓶さんに渡した。彼はそれを和服の懐に入れる。いったい何をしているのかよくわからない。
「おうよ」
二瓶さんは席につかず、そのまま店を出た。ぼくたちも会計を済ませて後を追う。そして、さっきのお客さんのビルの前まで来た。
「そろそろかな?」
二瓶さんは商談時のにこやかな顔とは異なり、厳しい表情をしていた。
「はい。さっきの担当者は定時きっかりに帰るそうですから」
「よっしゃ」
二瓶さんはまたどこかへ消えて行った。
「こっちへ来て」
ぼくは柿谷先輩に引っ張られて、一緒に物陰に隠れた。意味がわからない。
「見つからないように気をつけて」
誰にだよ?
たぶんさっきのお客さんの終業時刻となり、続々と社員が出てきた。その様子を物陰から見守る柿谷先輩とぼく。意味がわからない。
やがて、さっきの担当者が出てきた。もう帰るのか。多少残業してでもうちの契約を進めてくれたらいいのに。
と、思った瞬間。
どこからか現れた着流し姿の二瓶さんが担当者にぶつかった。そして振り返りざまに言う。
「おっと危ねえ。気をつけな」
これ、時代劇でスリがやるやつである。担当者もまさかさっきの商談に来ていた営業が着流し姿でぶつかって来たとは思わないだろう。だから誰だかわかっていないはずだ。
二瓶さんはそのまますたすたとぼくたちの方へ歩いてきた。
「これでいいか?」
懐からさっきの契約書を取り出した。えっ、何これ?お客さんの社印が押してある。
「ありがとうございます。これで契約成立です!」
柿谷先輩は深々と二瓶さんに頭を下げた。
「じゃあな。あばよ」
二瓶さんは時代劇のスターよろしく、肩で風を切り去って行った。夕暮れのオフィス街に着流し姿の遊び人。違和感しかない。
「見たか?二瓶さんのスピード凄かっただろ?」
「柿谷さん、これ犯罪じゃないですか?スリですよね?」
「どうして?何も盗ってないよ。うちの契約書に捺印してもらっただけ」
「意味がわからないです。あの担当者だって会社の社印を持ち歩いているわけじゃないですよね?なぜ押せるんですか?お客さん社内の稟議は通っていますか?」
「それが全部大丈夫なんだ。俺もなぜかはわからない。これが二瓶さんの特殊能力だ」
「ええっ?こんなのありだったら、営業いらないじゃないですか。片っ端から二瓶さんがお客にぶつかれば」
「さすがにそれは無理。契約金額と回数に上限がある」
なんで、そこだけきっちりしてるの?昼間に受けたまともな営業レクチャーと今の無茶苦茶な光景が頭の中で一致しなかった。
何なんだよ。ぼくが入ったのは魔法学校か?恐るべし、営業開発室。
【三話に続く】
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