僕は君の自由の詩を殺す
月
全文
夏の午後、僕の部屋に風鈴の音色が響き渡っていた。窓の外では蝉が鳴いており、時折吹き込む風がカーテンを揺らす。部屋の片隅で夜川百は扇風機のよく当たる床で寝そべり、文庫本を手にしていた。彼女のか細い指がページをめくる音が、静かな部屋に小さく響く。僕は机に頬杖をつきながら、彼女が読んでいる本の表紙をちらりと見る。『鳥籠の外』――自由を求めて彷徨う少年少女の物語。百らしい選択だった。彼女はいつも、自由や死生観をテーマにした小説を好んで読んでいた。
「凪沙、この本、すごいよ」
百は顔を上げ、扇風機の風に揺れる前髪の隙間から僕を見つめる。
彼女の声には、どこか熱を帯びた響きがあった。
「主人公がね、自分の人生に疲れちゃって、自由を願うんだけど、結局死ぬことでしか自由になれなくて、あの世に旅立っちゃうんだ。自由って、生きることと、死ぬこと、どっちなんだろうね?」
まるで自分自身に問いかけているようだった。僕はその重さにたじろぎながら、なんとか答えた。
「うーん…自由は、僕と百とでもかなり変わってくると思うんだ。人ひとりひとりが自分なりの自由を見つけてやっと生きるのが自由なのか死ぬのが自由なのかが明確になってくる。自分で選べるんだったら、どっちも自由の一部なんじゃないかな、と思う」
百は小さく頷いて、本に目を戻した。
「凪沙は深いこと言うね、でも、うん。きっとそうだね」
百の声が扇風機の音と混じって部屋に溶けていく。彼女の言葉はいつも、まるで本のページの隙間からこぼれ落ちた詩のようだった。
手にしていた文庫本は、ページの端が少し折れ、彼女がどれだけ熱心に読み進めていたかを物語っていた。表紙には、彼女が最近ハマっている作家の名前が控えめに印刷されていて、僕も何度かその作者の本を手に取ったことがあったが、彼女と僕とじゃ小説の読むジャンルが違いすぎて理解するのに膨大な時間を使った。
彼女にとっての本とは、ただの物語ではなく、手に取れる厚さの物語を自分の人生に重ねているようであり、感情の波を共に泳ぐ友だった。
僕、水瀬凪沙と夜川百は小学生の頃からの幼馴染というやつだった。
同じ団地で育ち、夏休みはこうして小説を読みふけたり、たわいもない話をして過ごしていた。
百は昔から本の虫で、自由をテーマにした物語や、生と死の意味を探るような小説に心を奪われていた。
難しい小説を読むものだなと思ったこともあったが、彼女の生い立ちを少しだけ知っている僕は納得せざるを得なかった。
厳格な父親と、百がまだ幼い頃に男と家を出た母親。彼女とそんな話をすることはないけれど、夜になると彼女の家の窓から盛れる怒鳴り声が、団地の静寂を切り裂くことがあった。
それが全てを物語っていた。
夏休みが終わり、蝉の声が少しずつ遠のいていく九月。教室の窓からは、運動場を囲む桜の木々がまだ緑を保ち、時折吹く秋風に葉がざわめいているのが見えた。
百はいつものように窓際の席で、机に広げた文庫本に目を落としていた。『鳥籠の外』はもうすでに読み終わったのか、新しくなった表紙には『砂の城』という、崩れゆく人生を静かに描いた物語に没頭しているようだ。彼女のページをめくる音は、教室の喧騒に掻き消されてしまいそうだったが、僕にはそのか細くて小さな音が妙にはっきりと聞こえた。
「百、またそんなに重い本読んでるの?」
彼女の前の席に腰掛けて、声をかけると、百は少しだけ顔を上げて、整った人形のような顔で僕を見つめた。
「うん、この本は生きることがどれだけ脆いのか、でもそれがどれだけ美しいかを綴っているような気がする。凪沙も、読んでみる?」
彼女の声は静かだったけど、どこか挑戦的な響きがあり、僕は苦笑いしながら首を振った。
「ううん、僕には少し難しすぎるかな。百の解説付きなら考えるけど」
百はくすっと笑って、本を閉じた。
「じゃあ、放課後にでも話してあげるよ。図書館で」
教室はいつものように騒がしかった。クラスの中心にいるような陽気なグループが声を上げて、窓際では数人がスマホを覗き込んでなにかを見ている。百はそんな喧騒を完全に無視して、弁当の包みを解いている。彼女の弁当はいつもシンプルで、白米に梅干しと焼き魚、ちょっとした野菜が添える程度。
彼女の父親が作ったものだとは思うけど、その質素さが百らしいとすら感じた。
「凪沙、今日の放課後、図書館いく?」
百が箸を止めて僕を見る。彼女の目は、まるで本の奥に隠されたなにかを探すように、いつも少しだけ遠くを見ている気がした。
「うん、いいよ。どうせ帰ってもなにもないし」
僕は部活に入っていないので、家に帰っても特にすることがない。百は文芸部に所属していたが、部活というよりは図書館で本を読む時間を確保するための口実みたいなものだった。
放課後の図書館は静寂に包まれていた。古い木製の本棚が並び、陽が差し込む窓から埃がキラキラと舞っている。
百はいつもの窓際の席に陣取り、『砂の城』を手に持っていた。
僕はその真向かいに座り、短編小説集を開きながら、彼女の話に耳を傾けた。
「この本の主人公、全てを失ってからやっと自分の人生を見つけるんだ。でも、失うことは本当に自由の一部なのかな?それとも、ただの終わり?」
百の声は、図書館の静けさを溶け込むように柔らかかった。そんな彼女の声が僕の頭の中すらも侵食していき、心地いい。
僕は本を閉じて、彼女の言葉を反芻する。
「失うことが自由…か。でも、失ったら何も残らないよ。自由ってさ、なんかもうちょっと、こう、生きてる実感みたいなものが必要な気がする」
百は少しだけ微笑んで、窓の外を見た。
「凪沙はいつも現実的だよね。でも、うん、生きてる実感か…。確かにそれ、わかるかも」
そのとき、図書館のドアが大きく音を立てて開き、数人のクラスメイトが入ってきた。少し騒がしい彼らの声が、僕たちの心地の良い静けさを劈いた。
百は一瞬眉をひそめたが、すぐにいつもの調子で本に目をやった。彼女にとっての図書館はただの部屋じゃなく、物語の世界に飛び込むための手段の一つだったのだ。
「百は、たまには他の人と話したいと思ったりしないの?ほら、クラスのやつら、よく百のこと気になるって言ってるよ」
僕が軽い調子で言うと、彼女は小さくため息をついた。
「私は、凪沙さえ居てくれればいいよ。それに……本だってあるしね」
その言葉には、百の家のこと。彼女の父親の怒鳴り声や、物心着く前に居なくなってしまった母親のことを思う。彼女が本に逃げる理由を、僕は少しだけ理解していた。
学校は、文化祭特有の雰囲気に包まれていた。教室には色とりどりの装飾が貼られ、廊下では部活の出し物の看板を作る生徒たちの笑い声が響いていた。
机の上にはチラシの束や装飾用のリボンが散らばり、黒板には誰かが書いた「文化祭まであと五日!」の文字が踊っていた。
僕は文芸部の教室に足を踏み入れる。
そこには、夜川百が机の上に広げた原稿用紙に向かい、静かに筆を走らせていた。
彼女の周りだけがまるで、文化祭の賑やかさから切り離されているかのような静かな空間を纏わせていた。
「凪沙、きてるなら声かけてくれればよかったのに」
百が顔を上げ、ペンを置いて僕を見た。彼女の声は柔らかくて、どこかいつもより弾んでいるように聞こえた。
「ごめん。なんだか集中して物語を書いている百を見ていたら、僕まで百の世界に飛び込んだような感覚になったんだ」
僕がそう言うと「なにそれ」と小さく笑い、目を細めた。なんだか僕が変なことを言ったかのようになってしまい、恥ずかしかったけど、彼女が嬉しそうに笑うのを見て、僕は胸の奥が温かくなり、自然と口角が上がった。
百の机の上には、原稿用紙のほかに、白い表紙のノートが置かれていた。表紙には「夜川百」とだけシンプルに書かれ、角が少し擦り切られているのが目に入った。彼女がいつも持っている文庫本とは違う、特別な雰囲気を持つノートだった。
「そのノートって、何?なんか…気になるんだけど」
僕が指さすと、百は一瞬目を丸くし、ノートを手に取った。
「これ?うーん、ただのメモみたいなものだよ。詩とか、好きな小説の一端とか、頭の中で思いついたものを殴り書きしたものとか」
彼女の声には少し照れが混じっていて、いつも落ち着いている百にしては珍しくそわそわしている様子だ。
「見てもいい?百のこと、もっと知りたいんだ」
彼女はきょとん、としていたが、でもすぐに小さく頷いた。
「凪沙なら、いいよ。でも、笑わないでね。頭の中を覗かれてる気がして、恥ずかしいから」
彼女の頬がほんのり赤くなり、ノートをそっと差し出してきた。
その仕草に、僕の心臓の鼓動が高鳴るのを感じた。
ノートを開くと、百の細かい字でびっしりと書かれたページが広がった。最初の数ページには、短い詩や物語の断片が綴られていた。どれも、自由や孤独、生と死をテーマにしたものばかりで、百らしい感性が滲み出ていた。ただの1冊のノートなのに、なんだか百の温もりすらを感じて愛おしかった。
あるページには、こんな言葉が書かれていた。
「生きることは、籠の中で歌うこと。死ぬことは、籠の外で飛ぶこと。どっちが自由なんだろう?」
これを読んだ瞬間、僕の胸に鋭い何かが突き刺さった。
百がいつも手にしている『鳥籠の外』や『砂の城』のような小説のテーマが凝縮されているようだった。僕は実際に彼女が読んでいる本を手に取り、読んだことはないけれど、この言葉の一文字一文字に、彼女が楽しそうに本を開く姿を想像させる何かがあった。
百の自由への憧れと、決して口には出さない彼女の孤独が心にこんな言葉を刻んだのだと思うと、胸が締め付けられて痛かった。
「これを読んでいると…百の心の中に入っていくみたい。僕は百のすべてを知らないけど、でも、なんだか、このノートには百がいるような気がする」
僕が顔を上げて言うと、百はノートを握りしめて目を逸らした。
「や、やっぱり恥ずかしいよ。真剣に読まれてそんな風に言われたら、なんか、照れる」
彼女の声は小さくて、ますます頬が赤くなっている。
その日の放課後、僕は百のことだけを考えていた。
一冊のノート、彼女の自由への憧れ、そして彼女の孤独。
彼女はあまりにも多くのものを独りで抱え込みすぎている、と、そう思う。
百の心そのものが、自由を求めて今も彷徨っている。彼女の心の内を見る行為に、拒否反応を見せず、ノートを見せてくれたことが、なんだか特別で、胸の奥で温かいものが膨らんでいくのを感じた。
文化祭当日、文芸部の教室は予想以上の賑わいを見せていた。
百が書いた短編小説『鳥籠の影』は、自由を求める少女が孤独と向き合う物語で、訪れた生徒たちからは「切ない」「深い」と囁かれていた。
百は控えめに冊子を配りながら、時折照れ笑いを浮かべていた。僕は彼女の隣に立ち、彼女の書いた言葉がこんなにも人に響いてることに、誇らしい気持ちになった。
「すごいよ、百の物語に、みんな引き込まれてる」
僕が言うと、彼女は小さく首を横に振った。
「ううん、書きたい言葉を綴っていったら、ひとつの物語になっただけなんだ…。でも、凪沙がそう言ってくれて、嬉しいよ」
彼女の笑顔が、いつもより少し大胆で、僕の心を強くざわめかせた。
展示の合間、百がふとノートを手に取り、ページをめくっていた。
彼女の指が、さっき読んだ「籠の中で歌うこと」のページで止まった。
「このノートね…ほんとは誰にも見せるつもりなかったんだ。でも、凪沙に見せたら、なんか、ふっと心が軽くなった気がするんだ」
百の声はとても静かで、でもどこか自信をもっているようだった。
「百の書くもの、全部、百そのもののように感じるんだ。……だから、もっと。もっと知りたい。百のこと、全部」
僕が思わず口にすると、百は一瞬固まって、顔を真っ赤しにノートを閉じた。
「な、凪沙!急に何!?そんな、…そんなこと、言わないでよ!」
彼女の慌てた様子が、いつもと違って無防備で、僕はますます心を奪われた。
僕は『鳥籠の影』を読んでいなかった。朝には大量の冊子が積み重なっていて、すべて無くなるなんて考えてもいなかった僕と百は、残った冊子を二人で読もうと話をしていた。
すべてを渡し終えた百は、「凪沙に読んでもらうはずだったの、なくなっちゃったね。今度また先生に追加分を刷ってもらうね」なんて、嬉しそうに笑っていた。
文化祭から数週間が経ち、教室の窓には雨が静かに叩きつけられていた。黒板にはまだ文化祭の名残である「成功おめでとう!」の落書きが残り、教室は平穏な日常を取り戻しつつあった。
僕の目は窓の外をぼんやりと眺める百の姿を捉えた。
彼女の手には文庫本もノートもなく、ただ窓の外をただ見つめていた。文化祭の日から百は小説を読むことをやめている。とても楽しそうに一ページを捲っていき、物語の世界に飛び込む彼女が好きだった僕は、そんな日常に少しの寂しさを感じていた。
「小説、読まなくなったの?」
僕が声をかけると、百はゆっくりと顔を上げてかすかに微笑んだ。でも、その笑顔はどこか薄く、いつもより遠くにいるように感じられた。
「凪沙…。ううん、読まなくなったわけじゃないよ、ただ、今は読みたくないの」
彼女の声は、雨音に溶け込むようだった。寂しさを匂わせる声色が、僕の胸に小さな違和感を覚えさせた。
「そっか、でも…百、なんか最近元気ない気がする。図書館、行ってみない?いつもの席、空いてるよ」
僕が軽く提案するも、彼女は目を伏せて首を小さく振った。
「今日はいいかな…。私、ちょっと考えたいことがあるんだ。ごめんね、凪沙」
彼女の目は僕を捉えていたが、どこか遠くを見ているようで、胸に冷たいものが走った。
ついこの間まで文化祭気分で盛り上がっていたため、盛り上がりが消えた後、静かな空虚感に包まれているようだった。
数日後の放課後、図書館で百を見つけた。彼女はいつもの窓際の席に座っていたが、手には馴染みの文庫本の姿は無くて、ノートを広げて外を眺めていた。
最近の百はよく外を眺めている。どんなことよりも小説を読むことが好きな彼女だったから、僕は違和感を覚えている。
「百、またこんなところでぼーっとしてるの?」
軽く笑いながら声をかけると、百はゆっくり振り返り、かすかな笑みを浮かべた。
「うん。なんか、雨の音、落ち着くんだ。凪沙もよく聞いてみてよ」
その言葉は、とても冷淡な声色で発せられた。抑揚のひとつも無く、まるで突き放されたようだった。
僕は彼女の隣に腰を下ろし、窓の外を見た。雨粒がガラスを滑り落ち、団地の遠くの明かりがぼんやりと滲んでいた。
「あのさ、文化祭のときの『鳥籠の影』結局読めてないんだ。冊子、刷り直したんだろ?見せてよ」
僕が言うと、百は一瞬固まり、すぐに目を逸らした。
「うん、刷ったけど、今は持ってないんだ…ごめん」
彼女は、まるで風に消えてしまいそうなくらい弱々しかった。
いつもなら、自分の書いた物語を嬉しそうに話してくれるのに、今日はどこかよそよそしい。
今思うと、この時点で百の異変に気づけばよかったのだ。
明らかに減っていた口数、毎日のように読んでいた小説を読むことがなくなったこと。笑顔の薄さ、すべて、彼女は僕に気づいて欲しかったのかもしれない。
十月末、団地の空は重い曇りに覆われていた。
百が学校に来なくなってから二週間が経った頃だった。
昼休み、なんとか理由をこじつけ学校を早退して百の家へと向かった。
団地の階段を駆け上がり、ドアを叩いたが、返事がない。窓から漏れる声もなく、ただ静寂が広がっていた。
携帯に「百、今どこ?大丈夫?学校で待ってるよ。」とメッセージを送った。
でも、返事はなかった。胸の奥で広がるざわざわした予感は見事的中した。
団地の裏の公園を歩いていると、ブランコのそばに白いノートが落ちているのを見つけた。見覚えがある筆跡で夜川百と書いているのが見えてすぐに彼女のものだと分かった。
雨で濡れたページは滲んでいたが、最後のページには短い言葉が残されていた。
「籠の外は、静かだった。もう歌うことはできない。」
その瞬間、頭が真っ白になった。足が勝手に動き、団地の川沿いに向かった。なぜそこに行ったのか、自分でもよく分からなかった。ただ、百がいつも「籠の外」と書いていたこと、彼女の遠い目が脳裏にこびりついて離れなかった。
川沿いの草むらに、百はいた。冷たい水面に静かに浮かぶ彼女の姿は、まるで籠から解き放たれた鳥のようだった。でも、その自由は、僕の心に空っぽの穴を残した。
手に握ったノートは、雨でずっしりと重くなっていた。それがなんだか彼女の抱えていたおもりのように感じて、胸が苦しくなった。
濡れたノートを握りしめて、僕は自分の部屋の机に座った。
震える手で一ページ一ページを丁寧に捲り、頭の中でさっきまでの出来事を反芻する。
僕の幼馴染、百は死んだのだ。ページの端から、折り畳まれた紙を見つけた。それは、文化祭で百が書いたはずの短編小説。『鳥籠の影』の原稿だった。冊子が無くなって読めなかった物語。なぜここに?
疑問と混乱の中、僕は紙を広げ、滲んだインクをたどりながら読み始めた。
『鳥籠の影』は少女・葵の物語だった。彼女は厳格な父親の支配する家で育ち、そんな父親に耐えられなくなった母親は葵が幼い頃に男を作って家を出た。
そんな環境下で育った少女は心の空洞を抱えていた。
葵は幼少期、父親が買ってくれた本をきっかけに本の世界に逃げ込み、自由を夢見て詩や物語を綴った。だが、父親の怒鳴り声や癇癪が響く部屋は、彼女の心を閉じ込める籠だった。
物語の中で、葵は幼馴染の少年と過ごす時間を宝物のように感じていた。彼の笑顔や何気ない言葉が、籠の中で歌う力を与えてくれた。でも、時間が経つにつれて葵の心は疲弊していく。父親の声が彼女の歌を奪い、自由への渇望と諦めの気持ちが彼女を籠の外へと向かわせる。
最後のページで、葵は川沿いに立つ。彼女はこう書いていた。
「籠の外では、歌うことしか出来なかった。籠の外は、静かで、冷たい。でも、そこには自由があった。もう、歌わなくていい。」
物語はそこで終わり、葵が川に身を投げる場面は書かれていなかった。でも、彼女の選択はあまりにも明白だった。
原稿を読み終えた瞬間、背筋が凍った。この物語は百自身の人生だと、読み終えた瞬間に気づいた。葵は百そのもので、幼馴染の少年は――僕、凪沙だった。
彼女が文化祭で配った『鳥籠の影』は、彼女の心の叫びだったのだ。彼女は、自分の人生を物語に綴り、誰かに届くことを願っていた。でも、僕はそれに気づけなかった。
ノートをめくり直すと、物語の続きのような詩が書かれていた。
「葵は飛び立った。籠の外で、初めて自由を見た。でも、自由は冷たく、静かだった。少年は、彼女の歌を聞けなかった。」
その言葉に涙が滲んだ。百は、僕にこの物語を読んでほしかったのかもしれない。彼女のノート、彼女の笑顔、彼女の遠い目――すべてが、彼女の心のSOSだった。なのに、僕は「元気ないね」と言うだけで、彼女の籠の中を覗こうとしなかった。
そしてもう一つ、ノートには百が書いた別の断片があった。
「凪沙、あなたが居てくれたから、歌えると思った。でも、籠の中の歌も、いつかは途切れる。ごめんね、凪沙。」
この一文に、胸は張り裂けそうになった。百は、僕との時間を大切に思ってくれていた。なのに、彼女の歌が途切れる前に、僕は何も出来なかった。彼女の物語をもっと早く読んでいれば、彼女の心に触れられたかもしれない。なのに、僕は冊子が無くなったことに笑い、彼女の変化を「疲れているだけ」と見過ごした。
学校に戻っても、百のいない教室は色を失っていた。
文芸部の顧問が、百の死を淡々と告げ、クラスメイトのざわめきも、すぐに日常に飲み込まれた。
僕は、百のノートを手に、図書館の窓際の席に座った。彼女がいつも座っていた場所。
『鳥籠の影』を何度も読み返していると、まるで彼女が大切に読み返して角がよれていた『鳥籠の外』のようだった。彼女の言葉をなぞり、葵の人生と百の人生を反芻する。
彼女は籠の中で自由を歌い続け、籠の外へ飛び立った。
でも、その自由は、僕には届かなかった。
「百、ごめん……。君の歌を、ちゃんと聞いていればよかった」
呟いた言葉は、雨音に溶けた。突如強く降り始めた雨が、百の涙のように見えて、僕は彼女との今までの思い出を強く心に刻んだ。
僕は君の自由の詩を殺す 月 @_Ich1gomgmg
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