モラトリアム
異端者
『モラトリアム』本文
ヒトは、生まれる前はこの星の全てを知っている。
だが、全てを知っていては現実では生きていけない。
だから、不要なことを一度忘れる必要があるのだ。
つまり、生まれてからヒトがしていることは学習ではない。
回想、あるいは回帰。
そんなユニークな論文が発表されたのはいつのことだったか。
それは大多数に受け入れられることは無く、歴史の中に消えていった。
無は無限と似ている。
……いや、違う。同じものだ。
無とは無限の一つの形。全く無いというのは、限りなくあると等しい。
「この子は、どんな子になるのかしら?」
母親の声が聞こえてくる。
「さあ、きっと君のように賢い子になるだろう」
父親がそう言う。
それは確かに、間違いではない。
現時点での私は、彼らより賢い。
しかし、それ故に産まれ出る際に大幅なデグレードが必要とされる。
彼らの社会に溶け込むためには、彼らの水準に合わさねばならない。
つまり、この胎内に居る間が深い思索を楽しめる最初にして最後の機会、超越的思考のモラトリアムである。
もっとも、デグレードの水準も様々である。
その中で比較的軽度な者は「天才」あるいは「秀才」と呼ばれる。
また稀にほとんどデグレードされない個体も生まれ、その多くは「神」や「預言者」と呼ばれる。
とはいえ彼らから見れば、大衆の多くは「劣化品」でしかない。彼らが優れているのではない、周りが大きく劣っているのだ。
「あ、あれはなんだ!?」
父親の大きな声。
私はふいに思索を断ち切られ、不快感を覚えた。
「きゃー! あなたー助けてー!」
宙に浮く感覚があった。
どうやら私は、母親ごと持ち上げられているようだ。
しかし、この浮遊感は一体……。
「妊娠中のヒトのメス。一個体を確保しました」
未知の言語だったが、理解は容易だった。
「ご苦労。早速、取り掛かる」
しまった――そう感じた時には遅かった。
私は母親の胎内から取り出されていた。
堕胎でもなければ帝王切開でもない。母体を傷付けず、胎児の私を取り出したのだ。
油断していた。本来なら、この社会の水準に合わせてデグレードされなければならかったのに……。
だが、落ち込んでいる暇はなかった。
目の前には、灰色の皮膚をした四本腕のヒト型生物が二体。それも頭が異様に大きい。
おそらくは異星知性体だろう――私はそう見当を付けた。
目的は胎児である私で間違いないだろう。
私は彼らの目の前に浮かんでいた。
「これがこの星の知性体の子どもか……醜いな……」
片方、やや背が低い方がそう言った。
「まあ、そう言うな。この星の知性体を滅ぼす前にサンプルを確保せよと言われている」
背が高い方がなだめる。
「こんな野蛮な連中の……サンプルなど要るものでしょうか?」
低い方が不快感を
「それを決めるのは、我々ではない――『カウンシル』の指示だ」
高い方はやや事務的というか、冷めた様子で答えた。
「野蛮で失礼」
私は理解したばかりの彼らの言語で挨拶をした。
「ヒッ!」
低い方は明らかに動揺していた。
「うろたえるな……おかしい。こんな反応、見たことがない」
高い方は冷静さを保とうとしているが、完全には動揺を隠しきれていない。
「先程、滅ぼすと言ったな?」
私は言葉を続けた。
「ああ、そうだ。この星の文明は我々と対話可能な水準にないと判断したからだ」
「それもカウンシルとやらの指示か?」
「ああ、その通りだ。しかし――」
高い方が私をじっと見つめた。
「我々の言語は、まだ君たちには理解されていないはず……だが?」
大きな頭を揺らす。それはヒトでいうところの「首を
「未知の言語でも、そのパターンは有限だ。後はどれに当てはまるかだけだ」
私がそう言うと、低い方が叫んだ。
「コイツ! 異常ですよ! 今すぐ処分を――」
「静かに!」
高い方が制した。
「つまり、君のような我々と対話可能な個体が居るのだな?」
「それ以外、どう結論付ける?」
高い方は何かを少し考えているようだった。
そして、無言でドアらしき物を通って出ていった。
後には、怯えている低い方と私が残された。
だが、私には分かっていた。
彼はこのことをカウンシルに報告しに行ったのだと。そして、新たな指示が出されるだろうと。
低い方は壁際に座り込んで私を見ていた。
先程までの威勢が嘘のようだった。
しばらくして、高い方が戻ってくると言った。
「この星の知性体への対処は、少しの間『保留』することになった」
「えっ!? ……き、危険ですよ!?」
「黙れ、そうカウンシルが判断したのだ。従うより
それから、私の方を向いて言った。
「本当に、君のような賢明な個体が他にも居るのだな?」
「ああ、大抵はデグレードされてしまうが」
「デグレード?」
私は疑問を
それはある意味、人類を危険に
「……つまり、人間社会がそうする必要がない程に成熟すれば、君のような個体はそのまま生まれてくることもできる、と?」
彼は本当に頭が良い。理解が早くて助かる。
「もっとも、本当にそうなるまでにはまだまだ時間が掛かるが」
私は嘘偽りなく言った。
「素晴らしい!」
彼は称賛に
「そんな……そうなる前に滅ぼさないと、危険ですよ!?」
低い方はまだ理解が追い付いていないようだ。
「何を言う!? これこそがカウンシルの……いや我々が待ち望んでいたものだ!」
私に向き直って続けた。
「いや、失礼。探していたものが、ようやく見つかったので感極まってしまって……」
「何を探していた?」
「我々に変化をもたらす特異点を探していた。我々の社会や技術はかつて時と共に発展を続けていたが、それも頭打ちとなっていた。我々がより良い変化を求めるならば、我々の『外』にある成熟した文明との接触が必要だと考えて探していた」
「では、なぜ人類を滅ぼそうとした?」
「我々はより良い方向に変化したい――そのためには、悪しき文明を滅ぼすことで、良き文明の発展を促す……作物を育てるのに雑草を刈るようにね」
彼は以前より親しげな目で見て言った。
「しかし、先に言った通りまだ時間は掛かるぞ? 少なくとも、数百年――」
「構わない。我々はその時間単位で一万年以上も待ったのだ。今更その程度、誤差に過ぎない」
こうして、人類初の異星知性体との対話は終了した。
私は母体に戻され、そのまま帰された。
父親と母親は記憶を消されたが、私は覚えていた。
もっとも、それも産まれる時には忘れてしまうだろうが。
この「人類初の異星知性体との対話」があったことが人類に周知されるのは、ずっと後の時代のこと――
モラトリアム 異端者 @itansya
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