序章:第11話

   いくさは濁流の如く地に荒れ狂い



 らんが机を踏み台にして、妖種へと飛び掛かっていた。


 右手に握りしめた金剛杵ヴァジュラ──その竜頭りゅうずあぎとを開き、喉の奥から光が延びた。

 六〇センチほどの長さの、輝ける刃。

 光の剣──それが宝剣・倶利伽羅竜王くりからりゅうおうの正体だった。


「ああああ────ッ!」


 それまでのあどけない姿からは想像もつかない殺気をみなぎらせて、鸞は妖種に向けて剣を振りかぶる。

 だが、いざ斬り下ろそうとした手が、一瞬、止まった。


「ぐ……ぅ……!」


 苦悶の表情のまま、鸞は腕を振った。

 光が空を裂く。

 刃より一瞬早く、妖種は机から飛び降りていた。


 激しい後悔が鸞を襲った。躊躇っていなければ、左腕くらいは持っていけたはずだった。

 相手は妊婦──頭では偽物と分かっていても、直前になって、心が斬ることを拒否したのだ。

 非情な相手に対してさえ非情になりきれない。これが自分の未熟さだ。


 ガバリ────臨月の腹が十文字に割れ、ヘソの緒で繫がった胎児が飛び出してきた。


「うぁ──!?」


 鸞はその光景に戦慄する。


 その怯みを突いて、胎児が真っ二つに割れ、ノコギリのような牙を剥いて襲いかかった。触手の擬態だったのだ。


「ぐぅ──ッ!」


 牙がブレザーの肩に食い込む。

 バリッ────

 下のシャツごと、布地が引きちぎられた。


 露わになる肌。

 そこから、一枚の紙が舞い落ちた。

 一見すると意味不明な漢文と、図形の羅列──呪符だ。


「────あなたは!」


 妖種が何かに気づいた。


「しまった!」


 鸞もまた気づかれたと悟って、後ろへ飛んだ。

 最後列の実験机に着地し、剣を構え直す。

 奇しくもそこは、隠れている翔からは丸見えの位置だった。


 ────大丈夫か、鸞!?

 翔はそう叫ぼうとした。

 だが、出来なかった。

 シャツを破られ、はだけた幼馴染みの肌に、それを見てしまったのだ。


 大きくはない。だが、見間違えようのない女の膨らみだった。


 ──鸞が女だった!?

 ────なぜ、いままで気づかなかった!?

 ──────幼い頃からずっと一緒だったのに!!


「つぅ……ぅッ!」


 翔は頭を押さえた。

 疼くような痛みが渦巻いている。まるで脳そのものがうごめいているようだった。


(なんだ……なにが……?)


 疑問しか湧いてこない。

 考える余裕などなかった。


「翔────うッ!」


 翔の呻き声に気を取られた鸞に、触手が群れで襲いかかる。

 すかさず剣で切り払うも、止められなかった数本が手足に絡みついた。


 ダァン──!


 小さな身体が宙に浮き、壁に叩きつけられた。

 龍王が床に落ち、光を失って顎を閉ざした。


「そう……まさか、護符で力を隠していたの……」


 鸞の喉に、関節に、さらなる触手を巻き付けて妖種が言う。


「盲点だったわ……翔くんなんて目じゃない獲物が、こんなところに転がっていたなんてね」


 妖種がなにを言っているのか、翔には分からない。

 だが、その意味を推理している余裕はなかった。

 疼痛とうつうは、ますます強くなっている。

 なにかを忘れている。おそらく、ここで思い出さなければならないなにかを。

 いや、それどころじゃない。

 鸞を、なんとか、助けないと────


「離せ……このッ!」


 鸞は四肢をX字に拡げられ、妖種の目の前ではりつけにされていた。


「まず、あなたから食べてあげる。その命を、思いっきり輝かせてからね」


 触手の一本が牙を剥き、鸞のズボンの裾を咥えた。


「やめ────ッ!」


 鸞の抵抗も虚しく、腰回りが一気に引き裂かれる。


 二度目の衝撃が翔を襲った。


 鸞は、やはり男だった。

 いや、それだけではなかった。

 同時に、女でもあったのだ。


「あら、初めて? 心配しないで。すぐに、気持ちよくなるから」


 触手が鸞の肌を這う。

 それはときに人の手や指へと姿を変え、脇を、腿を、胸を、撫で回してゆく。

 鸞は脱出しようと四肢に力を込め、全身をよじる。

 だが、伸縮に富んだ触手は、どうやっても振り切ることが出来ない。

 ただ眼を閉じ、歯を食いしばって、はずかしめに耐えるしかなかった。


(鸞────!!)


 その表情を目にした瞬間、翔のなかでバチンとなにかが弾けた。


「うおぁぁぁぁぁ────!!」


 痛みと恐怖を蹴り飛ばすかのように、床を蹴って飛び出した。

 振りかざした右手には、通学鞄。


 たしか、顕醒けんせいはそれが御守りになると言っていた。

 そんな力があるなら、いま見せてみろ!


 バァン──妖種の頭に直撃する。

 だが、それだけだった。


「はい。あなたはあとでね」


 ドッ──突き出された触手に腹を撃たれ、翔は理科室の奥にまで吹き飛ばされた。


「が……あ……!」


 胃が口から出るかと思うくらいの衝撃だった。これで昼のおにぎりを食べていたら、間違いなく吐いていたところだ。


「翔、逃げて!」


 こんなときにまで、鸞は他人の心配をする。

 そうだ。これが自分の知っている鸞だ。

 いまさら男だろうが女だろうが両方だろうが、それがどうした……!

 それがどうした!!

 だから、ここで逃げたら、自分は一生、自分を許せなくなる。


(なにか手はないか……なにか!?)


 通学鞄は、そばに転がっている。

 結局、こいつのなにが御守りだったのか。


 ──いや、待て……おにぎり……鞄のなか……体育倉庫で覚えた、あの違和感!


 なにか秘密がある。

 かぶせを開き、中身をひっくり返した。

 空になった内側に手を突っ込み、無我夢中で探った。


 その間にも、鸞には危機が迫っていた。


「さて。それじゃぁいよいよ、お楽しみね」


 妖種の触手が、狙いを定める。


「くそ……ッ、お前なんかに……!」


 強がってはみる鸞だが、目は怯えきっていた。

 この妖種の捕食法は聞いている。

 これから自分がなにをされるのか、鸞にはハッキリと分かっていた。


 犯されて、絶頂に達したところを食われるのだ。

 人の生命力である霊力は、環境や感情によって、その力を大きく増減させる。

 なかでも、もっとも強く輝くときのひとつが、オーガズムの瞬間である。

 だからこそ、この妖種は伊東肇いとうはじめを喰らう直前にも、花脊由紀はなせゆきの肉体を使って性行為に持ち込んだのだ。


 そして自分には、並の人間をはるかに超える霊力が隠されている──ただし兄から聞いた話で、鸞自身に自覚はない。

 そのため、護符を用いて霊力を隠していたのだ。

 それが敵の挑発に怒り、はやって飛び出したばかりにこのざまだ。


 下から伸びてきた触手がおぞましい形を成して、鸞に触れた。


 ズン────!


 突き上げるような鈍い音。


 しかし、それは妖種の胴体から鳴っていた。


「オ……オ……!?」


 妖種が硬直し、呻く。

 なにが起こったのか、鸞にも妖種にも、瞬時には分からなかった。

 分かるのは、触手を産み出していた腹に、拳大の穴が空いていることだけだ。


「な……あ……?」


 やがて、両者の眼が一箇所に集った。


 教室の奥にいる、翔に。

 そして、その手に握られている、掌に隠れそうなほど小さな拳銃に。

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