序章:第10話
「兄さん!?」
さすがの
あまりにも早い合流だ。時間を稼げと言っていたのは、いったいなんのためだったのだろう。
「ここは任せろ! 行け!」
「兄さん、剣を!」
「持っていけ!」
「でも……はい!」
一瞬の
「行こう!」
翔の手を取り、階段で三階へと上がる。
昇りきったところで、さらに顕醒が闘っている方とは逆方向に走った。
「何処へ行くんだ!?」
「わかんない!」
「それでいいのかよ!?」
「兄さんが走って逃げろって言ったから!」
なるほど! 翔は強烈に納得した。
鸞にとって、兄の指示は絶対なのだ。
ただ、それは統率や上下関係による、義務的なものだけではないのだろう。
絶対の信頼と尊敬──先刻からたびたび表出する顕醒への態度が、それを物語っている。
(本当に……それでいいのか?)
鸞が信じるというのなら、自分も信じたい。
だが翔の勘は、この廊下の行く先に危険を感じていた。
言うべきだとわかっていて、口に出せない。
黙って鸞に手を引かれてゆくばかりだ。
鸞が信じているものにケチを付けるようで
しかし、なにより翔を妨げたのは、自分の直感への疑念だった。
──ひょっとしたら、これは霊力の発言などではなく、反発かもしれない。
反抗、と言ってもいいだろう。この悪い予感は、顕醒に従うことを是とせぬ心が生み出した幻ではないのか。
そうであれば、幻を見せているのが顕醒への嫉妬だということを、翔は認めざるを得ない。
そして廊下を曲がったとき、翔は自分のセンスを完全放棄した。
人がいた。
廊下の壁に寄りかかりながら、弱々しい足取りで、こっちへ歩いてくる。
全裸だった。身体中が傷だらけで、乾いた血がべったりと付着しているところもある。
なにより、右腕がなかった。
拷問を受けたような凄惨な姿だったが、翔にはそれが誰か、一目瞭然だった。
「
間違いない。生きていたのだ。
嬉しさのあまり、鸞の手を振りほどいて駆け出す。
「翔……?」
肇が顔を上げる。
「翔!」
鸞が翔を後ろから抱きかかえ、手近にあった扉に背中から体当たりした。
ダァン──扉が枠から外れて床に落ちる。
同時に、幾本もの〝手〟が廊下を駆け抜けていった。
(うそ……だろ……)
思考が追いつかなかった。
鸞に引きずられながら、部屋の奥へと逃げる。
そこは理科室だった。
二人して、大きな実験用机のひとつに身を潜める。
「翔、ここにいて……!」
耳元で囁くように強く言い残して、鸞は別の机の陰へと走った。
「翔……翔……なにやってんだよ……」
壁の裏から、気怠げな肇の声が響いてくる。
声だけは、たしかに肇だ。
「だれだよ、そいつよぉ」
ぺた……ずる……ずる…………
素足が床を踏む音と、なにかを引きずる音が、理科室へと入ってくる。
机と椅子の陰から、翔はそれを見た。
「──ッ!」
あやうく悲鳴を上げるところだった。
戸口に現れたのは、頭と、腕のない右半身だけの肇だった。
左半身は、うぞうぞと蠢く触手──否、何十本と重なり、絡み合う、人の手足だった。
それを見て、翔は先に現れた右手だけが異形の花脊の正体に気づいた。
あれは、こいつの右腕が変化した、分身だったのだ。
おそらく、自分で切り落として作ったのだろう。
囮に対して囮を使う。妖種の策に、まんまと
「しょぉー……出てこいよぉ……オレらいつも一緒だったろぉ? 逃げんなよぉ」
無茶言うな、と翔は叫びたくなる。
肇の記憶を使っているのだろう。だが、もはや本人のふりをして騙すつもりなど、さらさらあるまい。
獲物を死地に追い詰めて楽しむ、サディストの遣り口だった。
「オレと花脊がしてるのも見てたよなぁ。アイツ、いい身体してたろぉ。グラドルにも負けねぇよな。あんなトコでしちゃぁマズいとは思ったけどさ……目の前で服脱がれちゃ、我慢できるわけないじゃん?」
ずる……ぺた……ずる……ぺた…………
肇の声を垂れ流しながら、妖種はゆっくりと理科室のなかを歩き回る。
「据え膳食わぬは、ッて言うしな。まぁ喰われたのオレなんだけどさぁ……はは。でも、ヤりながら食われるのも悪くねぇぞ。マジで、オレ、腹グチャグチャにされながら、イッちまってたよ?」
いや、これは挑発だ。
本物の肇が感じた愉悦と恐怖を都合よく
事実、翔の心は怒りで煮えくりかえっていた。
死んだ親友への冒涜だ。許せるわけがない。
「悪かったって。オレひとり、いい思いしちゃってさぁ。ついてきてくれた礼に、お前にも体験させてあげるから──私の身体で」
言葉の途中から、声色が変わっていた。
否、声だけではない。
隙間から覗く翔の眼に、妖種の姿が伊東肇から花脊由希へ変わる様子がはっきりと見えた。
触手を人の身体にもどし、右腕のない花脊は教員用の実験机に登った。
そして、裸体をすみずみまで見せつけるように、大胆なポーズを取る。
「どう、大鳥くん? きみのことが知りたいの。出てきてくれない?」
今度は真っ向からの誘惑。
いや、これもやはり挑発なのだ。
恐怖や怒りと同時に、翔はまたも、自分の身体が欲情で強張っているのを自覚した。
すぐそばに鸞がいるというのに、なんと醜いことか。
(頼む、鸞……オレの方を見ないでくれ……!)
花脊の姿から目を離せないまま、ただただ願った。
横を向いて確かめればいい。だが出来ない。
鸞の方を向いて、もし目が合ってしまったら……
「だめ? ひょっとして、もっと年上が好み?」
そう言うと、妖種はまた姿を変えた。
今度は、翔も知らない女だ。二十歳過ぎだろうか。花脊よりも清楚で、奥ゆかしげだ。
「それとも、こんな感じ?」
こんどは三十路を少し過ぎているようだ。大人の魅力をふんだんに含んでいて、包容力がありそうだ。
それからも、妖種は次々に別の姿へと変わってみせた。
女だけではない。翔の父親と同じ世代の中年男もいれば、穏やかそうな老婆もいた。
髪を脱色したヤンキー少女。
若いが肥満気味の青年。
利発そうな老人。
陰のある美青年…………
(やめろ……もう……!)
翔は頭がおかしくなりそうだった。
この全員が、妖種に食われた人々だというのか。
見るからに小学生という幼児すらいる。
こんな子供まで、容赦なく殺したのだ。
「おっと、珍しい例があった」
まるで懐かしい書物を本棚に見つけたかのような言い方だった。
妖種が姿を変えたのは、二十代くらいの若い女。
しかしその腹は、体型に似つかわしくない膨らみかたをしている。
妊婦──しかもあの大きさでは、臨月ではないのか。
「勘違いしないでね。赤ちゃんの方は食べてないの。霊力もなくて、美味しくなさそうだったから」
もとの女性の口調を真似ている。それがかえって、言葉の残忍さを助長していた。
──待て、食べたのは母親……では子供の方は……!
「お腹を裂いたら出てきちゃったのよ。ピーピーうるさかったけど、その声でこの女の霊力がえらく高まってね。面白かったから、死ぬまで抱っこさせてやったわ」
ざわ──!
翔の全身が総毛立った。
こいつは何なんだ? 食べたということは、その母親の記憶と性格も吸収したはずだ。
腹を裂かれて死んでゆくさなかに、我が子の産声を聞いて、それすら助けられずに、ただ抱きしめながら食われてゆく。
どれだけ悲しかった? どれだけ悔しかった?
それを、こいつは誰よりも知っているはずなのに……なぜ、そんなふうに言える!?
「お前えええぇぇぇ────!!」
翔の
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