序章:第8話
翔と
「ぜんぜん、気づかなかった……これがあの妖種の力……」
鸞の言葉は、ほとんど
せわしなく周囲に眼を走らせている。
思いもよらず自分が敵の領域にいると知らされれば、焦りもしよう。
「声……」
翔が苦々しげに言う。
「廊下の声が聞こえない……!」
なぜ気がつかなかったのか──もっとも、気がついたからといって、どうなるわけでもないだろうが。
ベッドから飛び降り、カーテンをめくろうと手を伸ばす。
その手首を、
「不用意に動くな。奴が待ち構えているかもしれない」
ごくり……翔は生唾を飲んだ。
そうだ。ここは既に相手の狩り場。どこに潜んでいてもおかしくない。
「だが、いまは問題ない」
翔の手を放すと、顕醒自らがカーテンを開いた。
常駐しているはずの保険医の姿はなかった。
窓の向こうの廊下にも、人の気配はない。
鳥の声も、風の音もしない。
「巣にいないんですか?」
鸞が訊いた。
「おそらく、遠くからこちらの動きを探っている。巧みに気配を消しているが、近づけば匂いでわかる」
まるで犬だ。
「なんで、いままで襲ってこなかったんです?」
「私を警戒している」
弟の問いに、顕醒はさらりと自信に満ちた発言をしてみせる──本人にその自覚はないようだが。
「私がいる限り、容易に姿は見せんだろう。だから翔くん、きみを囮にして、奴を誘い出す」
「乗ってくるでしょうか」
鸞が訊いた。
「乗らざるを得ない」
この人にはなんでもお見通しらしい。
「なんでです?」
今度は翔が訊いた。
「きみを食べなければ、私に勝てないとわかっている」
翔は
こんなにも自信満々な人間に出逢ったのは初めてだ。
「鸞、お前は翔くんと一緒にいろ」
「囮は翔ひとりじゃなくていいんですか?」
「さすがに彼だけでは危険すぎる。護衛がお前だけならば、奴も多少のリスクは覚悟で襲って来るだろう」
「はい」
少し残念そうに鸞は返事をした。
敵に避けられるほどの兄と違って、自分はまだ未熟だという事実を遠回しに突きつけられたのだ。
「これを預ける」
顕醒が懐から取り出したのは、片側が竜の頭をした、あの奇妙な
「竜王……!?」
まん丸になった鸞の眼が、金剛杵と兄を往復する。
「ボクなんかが……?」
その反応からするに、そうとう
ふと、翔は違和感を覚えた。
さっき、空き教室で顕醒の手のなかに見たとき、装飾の龍は
だが、いま鸞の見つめているそれは、固く閉ざされている。
記憶違いなのか、それとも二本目なのか。
「私が合流するまで、お前が彼を護るんだ」
「でも、ボクに使えるでしょうか?」
「恐れるかぎり、剣はお前には応えない。だが私はあえていま、これをお前に託す。その意味がわかるな?」
「……はい!」
少し考えたあと、打って変わって気合いっぱいに鸞は答えた。
それは兄からの期待だった
そして、それこそが鸞の自信に繫がるのだ。
「よし。まず、私は奴を探す
「はい」
「奴と出くわしたなら無理をするな。時間を稼ぐだけでいい。私が来たら、お前達は走って逃げろ」
「逃げるときも校舎のなかですか?」
「そうだ。他に質問は?」
「出口を見つけたときは?」
「私に構わず脱出しろ。他には?」
「ボクからは以上です。翔は?」
「あ、オレも……ありません」
質問もなにも、そもそも巻き込まれたうえに護られる立場の翔には、何を知っておくべきかすらわからない。
それよりも顕醒と鸞の会話に圧倒されていた。
まるでクライムアクション映画に出てくる、突入直前の特殊部隊だ(まさにそうなのだが)。
ただ、校舎のなかに限定してくる理由と、「その場から逃げろ」という顕醒の指示には、少し疑問に思うところがあった。
「よし……やるぞ……」
静かに告げられた作戦開始の号令に、鸞がごくりと生唾を飲む。
その瞬間には、顕醒は保健室の扉を開け、その向こうへと消えていた。
鸞と翔が恐る恐る廊下に顔を出して様子を見ても、もうどこにも、その姿はなかった。
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