序章:第1話

   ゆがみは地蟲ぢむしごとく静かに進み



 川面が揺らめいている。

 真っ青な空から降りそそぐ太陽を映した、光の舞。


 男はベンチの上で背を丸めて、きらめくダンサーを見るともなしに眺めていた。

 皺だらけのスーツによれたシャツ、ネクタイの緩みきった襟のボタンは上からふたつ外され、そこに影を落とすあごには無精髭。


 川沿いの遊歩道のベンチに腰掛けた彼は、いかにも〝くたびれたオッサン〟である。

 髪の毛だけは無造作ながらも整えているため、なんとか浮浪者には見えずに済む。


 もっとも、道を行く人々の目が彼に向くことはない。

 避けている……否、それ以前に、一瞥いちべつすらしない。

 誰ひとり、男の存在に気付いていないのだ。


「お疲れさまです」


 と、男に声を掛けた者がいた。

 こちらも男性。ベンチの中年より一回り以上は若年と見える。青年と呼んで差し支えあるまい。


 一九〇はあろう長身だ。

 精悍せいかんで真面目そうな顔立ち。ブラックレザーのジャケットとジーンズが、少し似合っていない。

 口調にもどことなく風格が漂う一方、つややかな直毛を腰近くにまで伸ばしている。

 なんとなく、印象がちぐはぐである。


「おう、お互いさま」


 挨拶に軽く上げた手で、オッサンはベンチを示した。

 青年が隣に座る。


「見るまでもないかもしらんが、指令書はこれな」


 と言って、オッサンは青年に封書を渡した──はずだった。


「これじゃありませんよ」


 青年に言われて自分の手を見ると、掴んでいたのは丸みを帯びた白い包み紙。

 中身は、さっき買ったカレーパンだ。


「食うか?」

「けっこうです」


 辞したにもかかわらず、ジーンズの膝に包み紙が投下された。問答無用である。

 青年は無言でそれをベンチに置きなおした。


「こっち」


 今度こそ封書が差し出された。

 青年は受け取ると、開封もせずにジャケットの内ポケットへ入れる。


「あー、これで何回目だったかなぁ?」


 オッサンが腕を高々とあげて伸びをする。


「四回目です」

「そんなにかぁ……」


 言葉の最後は溜息とともに吐き出された。


「心痛、お察しします」

「さんきゅ」

「今回は我々に任せて、ゆっくり休んでいてください」

「そうもいかね……我々?」

「今回は場所が場所ですから、凰鵡おうむにもやらせます」

「ほう、ようやく妹君も本格的にデビューかい」

「弟ですよ」


 そう言うと青年は立ち上がった。


顕醒けんせい


 去ろうとするその足を、オッサンが呼び止めた。

 顕醒──それが青年の名前だった。


「忘れ物」


 白い包み紙が投げつけられる。

 かなりの速球だったが、顕醒は振り向きざまの一瞬で悠々とキャッチしてみせた。


 カレーパンだ。

 青年が溜息を吐く。わざとベンチに忘れてきたのだ。


御足労ごそくろうのお礼」

「お気持ちだけ」


 顕醒が投げ返そうとする。


「んじゃ、妹さんへの土産にしな。カレー好きだったろ?」

「あいつ甘口しか駄目なんですよ」

「へぇー、そのカレーパン辛いのか。お前さんがパン屋に詳しいたぁ意外だったが、やってよかった。実はオレも甘口派なんだ。助けると思って食ってくれや」


 二度目の溜息を吐いて、顕醒は包みを開いた。


「ご馳走様です」


 掌に捧げ持ったパンに一礼するや、やっつけるようにみながら、その場をあとにした。



   *



 大鳥おおとりしょうはその日も目覚ましどおりに起き、とくに変わり映えのしない朝食を作って食べ、毎日着ている制服に袖を通し、普段と同じ時間に家を出た。


 見慣れた、という言葉すら忘れるほどの、いつもの通学路。


「翔、おはよー!」

「わっ!?」


 突然、くりくりした大きな目が横から覗き込んできて、翔は口から朝食が出るかと思うくらいビクついた。

 ここで親友が合流してくるのも毎度のことなのに、なぜかいつも驚かされる。


「あははビックリしすぎ!」


 予想以上の反応だったようで、目玉の主は火が付いたように笑い出した。


 御山みやまらんは同学年の幼馴染み。

 Sサイズのブレザーでさえ袖が余ってしまうほどの小柄と、同性の翔ですら、ときどきハッとしてしまう愛くるしい顔立ち。

 それらのおかげで、実年齢よりも三歳は下に見える。


 動物に例えたら仔猫だな、と翔は常々思う。〝猫〟ではなく〝仔猫〟だ。癖の強いその髪を、ついクシャクシャっとしてみたくなってしまう。


 髪も、前髪以外は短めにしている翔と対照的に、鸞は後ろ髪を伸ばして結んでいる。髪型は自由な校風だが、男子でこれは珍しい。


「あ、これ。面白かった! ありがとう!」


 簡素なビニール袋を差し出してくる。

 なかは『イビルドラゴン』──一昨日おととい貸した漫画本だ。


「あれ、最後ってあれで終わりなの? すごい気になるんだけど」

「一応、続きはいくつかあるけど、ドぎついエロいぞ」

「ドぎついエロいの!?」


 ひぃっ、と悲鳴を上げそうな顔で、鸞は翔の言葉をオウム返しにする。

 しかも自分で叫んだ言葉の意味に気付いて、真っ赤になった。


「そ、そういうの読んで大丈夫なの、ボクら!?」

「別にR指定はされてないけど……残酷シーンも増えてるから、苦手なら勧めない」

「うーん……ちょっと、いまはパス。そうそう、こないだ教えてくれた『功夫クンフーハスラー』って映画も観たんだけどさー」

「お、観たんだ」


 などという他愛ない話をしながら、学校を目指す。


「あれってひょっとして、全康の『万里独狐ばんりどっこ』の映画化?」

「ていうか、全康の小説全部へのリスペクト映画。『万里独狐』以外のネタもあったろ?」

「うーん、そのへんはよくわかんなかった」

「ん……? ていうか俺、『功夫ハスラー』の話なんかしたっけ?」


 サッと、鸞の顔に陰りが過ぎったような気がした。


「したよ。結構前だけど」

「そうだっけ?」

「もー、自分の言ったことすぐ忘れるー」

「わりぃわりぃ」


 長年交友があると、むしろ日々の雑談の内容など、ほとんど忘れてしまうものだ。翔はそう思って納得した。


 このときの違和感が、今日という日に翔を襲う、波乱の足音であるとも気付かずに……

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