牽制

 講義が終わった中庭には、夏の終わりを思わせる静かな陽射しが差していた。白く整えられた石畳に沿って、緑の葉が影を落とし、空気にはわずかに乾いた羊皮紙の匂いが残っている。遠くからは噴水の水音がかすかに聞こえ、その音が、今しがたまで張りつめていた学びの時間を緩やかに解きほぐしていた。


「……難しかったですね」


 隣に控えていたバレンティアがぽつりと呟く。その声に、レンディアヌは微笑んだ。


「ええ。でも、面白かったでしょう?」


「はい、本当に」バレンティアは欠伸のマネをして見せた。


 レンディアヌはクスクス笑い、その後にバレンティアも続いた。ふたりの笑い声が中庭にやわらかく響いた。風がそっと木々のあいだから吹き抜け、枝葉を揺らす。その音もまた、まるでこの時間を祝福しているかのようだった。


 だが、その安らぎのひとときは、唐突な足音によって破られた。


 レンディアヌが顔を上げるより早く、バレンティアは背筋を伸ばした。視線の先に見えたのは、緑陰のアーチをくぐり抜けて現れたひとりの貴婦人だった。


 髪をゆるやかに編み上げ、赤色の衣服に身を包んだ女性。その立ち姿には一目でわかる風格があり、ただそこに立っているだけで空気の色が変わるように思えた。


「叔母様……!」


 レンディアヌは瞳を輝かせて立ち上がると、迷うことなくその人のもとへ歩み寄った。まるで、少女が大好きな姉のもとに駆け寄るような自然な動きだった。


「講義は終わったようね」


 サーヴィアの声は、絹のように滑らかで、それでいて冷たさの芯を隠しきれない声音だった。


「はい。スリンデルさんの授業がちょうど終わったところなんです」


「そう。あなたが熱心に学んでいると、噂で聞いたものだからほんの少しだけ、顔を見に来たのよ」


 言葉は優しかった。しかしバレンティアには、それが“絞り出された”ものであるように感じられた。サーヴィアの瞳は笑っていなかった。むしろ、氷のような光を宿していた。


「この者は?」


 サーヴィアの視線がバレンティアに向いた瞬間、その空気はわずかに変わった。直線のように冷たい視線が、バレンティアを値踏みするようになぞる。


「はい。バレンティアと申します。レンディアヌ様の……おそばに仕えております」


 礼儀正しく頭を下げたバレンティアの声に、曇りはなかった。だがその実、背筋にはじわりと冷たい汗がにじんでいた。


「私の側で働いてもらってるんです」レンディアヌはニコッと言った。


「そう……出自は?」


 サーヴィアの声は、まるで書類に目を通す役人のようだった。


「スレンバリル王国のエスリエム出身です。孤児として育ちま……」


「孤児?」


 わずかに声が重なり、その響きにはっきりとした色がついていた。軽蔑だ。


「ええ……そうです」


「ふっ、この様な者が宮殿に入れるなんてね」


 サーヴィアは微笑みの形を浮かべたまま、すっと視線を逸らした。その笑みは皮膚の表面にだけ貼りついたもので、温もりを持たぬ仮面のようだった。声もまた、穏やかに保たれてはいたが、その奥に潜む冷ややかさは隠せていなかった。


 バレンティアは俯き加減になりながらも、なんとかその場を崩さぬよう、礼儀正しく立ち続けた。


「叔母様……」レンディアヌは微笑みつつ、困惑した様な表情を浮かべた。「この様な者とは?」


「ああ、悪い意味はないのよ」サーヴィアはニッコリと笑みを浮かべた。「……まぁ、レンディアヌが気に入っているのなら、それもまた、適材ということなのでしょう」


 まるで「選ばれたのは実力ではなく、気まぐれ」とでも言いたげな言葉だった。


「あなたが直接選んだの?」


「はい。お母様と私が頼んで、バレンティアさんを私の側に」


「そう……あなたのお母さんがね……」


 サーヴィアの視線がより鋭くなったのをバレンティアは感じた。

 

「叔母様、もしお時間があれば、このあとお茶でもご一緒にいかがですか?」


 レンディアヌが明るく声をかける。


 サーヴィアは少しだけ目を細めてバレンティアを見た後、レンディアヌに首を横に振った。


「ごめんなさい、あいにくこれから予定があって……また日を改めて」


「……そうですか。残念です」


 レンディアヌは素直に肩を落としたが、それでも笑顔を崩さなかった。


「それでは、また近いうちに」


「そうね」


 サーヴィアは静かに背を向けた。裾が赤い波のように石畳の上を流れていき、やがて緑陰のアーチの向こうへと姿を消した。


 その余韻をぬぐうように、風が再び木々を揺らした。



 石造りの宮殿の一室。暖かい日差しが、外の光景を仄かに照らしていた。窓辺に立つふたりの影が、その静謐な空間に細い影を落としている。


 リリアントは窓辺から下の中庭を見下ろしていた。風に揺れる枝葉のあいだから、赤い衣を纏ったサーヴィアの姿が遠ざかっていくのが見える。残されたレンディアヌとバレンティアが、寄り添うようにして再びベンチに腰を下ろしていた。


「リリアント様……ひとつ、気になることをお尋ねしても?」


 控えめな声で言ったのは、傍らに立つニーナだった。


「何?」


 リリアントは視線を窓から外さぬまま言った。


「なぜ……あの方の側仕えを、侍女の中から選ばれなかったのですか? それこそ、私たちの中にも適任者はいたはずです。なのに、バレンティアを──あのような出自の娘を選んだのは、なぜですか」


 その問いには、にじむような疑念と、わずかな苛立ちが混じっていた。けれどそれは、バレンティア個人に対する敵意ではなく、選抜の背景に対する納得のいかなさだった。


 リリアントはニーナの方を振り向いて微笑んだ。


「あなたも知っているでしょう。侍女たちのほとんどは、主人が帝都を“解放”した後、まだ主人がサーヴィアを信用していた時代に選ばれた者たちだということを。サーヴィア本人に選ばれた人材が数多くいます」


 ニーナは黙ってうなずいた。自分はその一人ではないという自負と、リリアントとの特別な距離感が、その頷きに滲んでいた。


「彼女達を信用していない訳ではないけれど、侍女の中には私の言葉よりもサーヴィアの言葉に従う者もいるのも事実。サーヴィアの中に私が影を感じている以上、用心を怠るわけにはいかないのよ」


「それなら……それならば私が──」


「確かに、あなたは兄の時代から私に仕えてくれている数少ない侍女。娘を任すならあなた以上の者はいないわ。だけど、あなたがレンディアヌの側に仕えたらサーヴィアはどう思うかしら?」


 ニーナは言葉に詰まり、小さく唇を噛んだ。その問いの答えを、彼女自身がすでに理解していたからだった。


 リリアントは窓辺から視線を外し、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。絹の衣がふわりと揺れ、部屋の静けさに柔らかな重みを加える。


「きっと、あの人は“こちらの意図”を脅威に思うわ。適度な牽制は必要だけど、行き過ぎは逆効果なのよ」


 リリアントは再び窓の外へ目をやった。窓の向こうでは、レンディアヌが笑いながらバレンティアに何かを話しかけていた。バレンティアも少し遅れて微笑む。その様子を見て、リリアントの眉が少しだけ緩んだ。


「それにバレンティアの瞳には温かさがあったわ。陰謀だとか、政争だとかとは無縁の純粋さがね。それも選んだ理由の一つよ」


 ニーナは黙ってその言葉を受け止めた。窓の外、中庭では風がまたそよぎ、緑の葉をかすかに揺らしていた。



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