病
そこはまるで神が楽園のひとつを地上にこぼしたかのような場所だった。色とりどりの花が咲き乱れ、空気は甘く芳しい香りに包まれている。中央にはエルフの時代から生えていると伝えられる大樹が空を突き、枝葉の陰が涼やかな陰影を地面に描いていた。
その木陰のもと、木製の優雅なベンチにひとりの少女と男が腰掛けていた。
少女は品のある立ち居振る舞いで膝をそろえ、腰かけている。風に揺れる絹のドレスが草の上をかすめ、陽を浴びて金色に煌めく。レンディアヌ──今、帝国中がその存在に希望を託す若き皇女である。
まだ十にも満たぬその齢でありながら、彼女の目には幼さだけではなく、確かな自覚と責任が宿っていた。帝国を継ぐ者として、彼女は日々学び、育ち、そして人々を慈しむ心を育てている。
隣に座るのは、スリンデル。帝国のために剣を振るった彼も今は皇女の教育係。彼は帝国の歴史、政治の礎を一から教えている。
「こうしてスレンバリル王国の動乱は収まり、王統は再統一されました。さて、この戦乱が終結したのは、いつの年か覚えておりますか?」
問いかけは柔らかだったが、彼の声音にはわずかに緊張が滲んでいた。試すような、いや、誇らしげな期待を含んで。
レンディアヌはほんの少し視線を上に向け、わずかに口元を引き締めた。そしてはっきりとした声で答える。
「第三紀、四百二十二年の七月です」
スリンデルは頷きながら、その答えに満足した様子を隠さなかった。
「正解。見事でございます、レンディアヌ様」
皇女はほっとしたように微笑んだ。その笑みはあくまで控えめで、どこか恥じらいさえ宿していた。だがその表情には、ただ知識を当てたこと以上の誇り──努力が報われたという内なる喜びがにじんでいた。
その後も、歴史の授業は続いた。アレッシアの戦争、魔術ギルドの分裂と統合、さらには帝国暦の変遷に至るまで、レンディアヌはまるでそのすべてを自ら体験したかのように明確に語り、答えていった。
だが、彼女の真の関心は別のところにあった。それは──癒しの力、すなわち治癒魔術の習得である。
レンディアヌには、生まれついての治癒魔術の才があった。その魔力は清らかで穏やかでありながら、どこか神聖な領域に触れるような深みを湛えていた。そして何よりも、彼女自身がその力を人々のために使いたいと願っていた。特に、皇帝の“病”を癒すために。
「レンディアヌ様。実習をなさってみましょう。この前は私の古い傷跡を元通りにされましたが、今回はどうでしょうか」
そう言うとスリンデルは腰に帯びていた短剣を抜き、ためらいなく自らの手のひらに小さな切り傷をつけた。
手に赤い筋が走る。血がじわりと浮かび、やがて滴となって草の上に落ちた。
レンディアヌは痛そうに小さく目を閉じたが、すぐに真剣な面持ちに変わった。傷の深さを確かめるようにスリンデルの手を覗きこみ、そっと彼の手を両手で包む。
彼女のまぶたが閉じられ、彼女の掌がほのかに金色に輝きはじめた。
それはまるで、黎明の太陽が地平線から顔を覗かせた瞬間の光。暖かく、やわらかく、けれど確かな力を秘めた光であった。
レンディアヌの掌から溢れ出たその輝きは、傷口へと吸い込まれるように流れ込み、落ちたはずの血が逆巻くように手のひらへと戻っていく。まるで時が巻き戻るかのように、血は再び肉体の一部となり、傷口は何事もなかったように塞がっていった。
スリンデルは、黙ってその様子を見守っていたが、すべてが終わると、自分の掌を確かめるように何度も見つめた。
「……見事、いや、見事。レンディアヌ様、その力、まさに天より授かりし賜物でございます。この様な力を幼い頃から発揮なさるとは。もし魔術ギルドにご入会なされば、帝国史に残る偉大なる治療師になられることでしょう」
褒め言葉にレンディアヌは首を横に振り、小さく笑った。
「えへへ……そんなこと、ありませんよ。私なんて、まだまだ未熟ですから」
その声には謙虚さと同時に、確かな自負が潜んでいた。それは「できること」と「できないこと」を見極め、学び続ける者の静かな誇りだった。
スリンデルは、喉をからからと笑わせた。
「その謙虚さの半分でも、ギルドのエルダーたちにあれば……あの者たちは、己の知を誇ることにかけては誰にも引けを取りません。彼らは『傲慢』という言葉が似合う集まりですからな」
スリンデルが笑い、レンディアヌも声を立てずに微笑んだ。その笑顔は、今まさに咲こうとする花のように清らかで、柔らかく、そしてなによりも美しかった。
「もっと上達して父上の病も治せるようになりたいです」
その言葉は、風のように静かで、けれど確かな意志を帯びていた。スリンデルは一瞬、目を伏せた。そしてすぐに、何事もなかったかのように語調を整える。
「……そうですな」
彼の声は少しだけ掠れていた。
そして授業は続く。アレッシア王女の反乱、三皇帝による帝位争奪の動乱、スレンバリル王国で起きたダースケン家とヴィグラン家の闘争──レンディアヌはひとつひとつの歴史を覚え、知識を身につけた。
◇
授業を終えたレンディアヌは、中庭を後にして長い回廊を歩いた。廊下の窓から差し込む陽光はやわらかく、床に揺れる花の影を映し出している。遠くから聞こえる鳥のさえずりが、空気の静けさをより際立たせていた。
重厚な扉の前に立つと、近衛兵が黙って頭を下げて扉を開いた。
寝室は薄明かりに包まれていた。外の眩しさとは隔絶された静かな空間。中には、重ねられた絹の毛布の下で静かに寝息を立てる父・ドーリン一世の姿があった。
その傍らで、リリアントが静かに寄り添っていた。彼女は椅子に腰を下ろし、夫の手を優しく包むように握りしめている。
「……お母様」
小さく呼びかけると、リリアントは顔を上げ、静かに微笑んだ。
「レンディアヌ゙、いらっしゃい」
レンディアヌは黙ってうなずくと、ベッドの脇へと歩み寄った。白髪に覆われた父の額には汗が滲み、呼吸はかすかに荒い。
「今日は……少し熱があるの。でも大丈夫よ、薬は効いているわ」
レンディアヌはベッドに手を添え、父の顔を見つめた。顔は皺だらけ、髪も白い。彼も不老不死の人間種であるはずなのに、彼だけが時間の流れの影響を受けていた。
「直にまた立てるようになるわ。熱が治まったらね」
レンディアヌは父の手にそっと触れた。皮膚は薄く、骨ばっていた。けれどその中には、かつてこの帝国をまとめ上げた強き意志がまだ、かすかに息づいているように思えた。
「……お父様。元気になってくださいね」
少女は微笑み、そう言った。その声は静かだったが、しっかりとした響きを持っていた。
娘を見つめるリリアントは穏やかな笑みを浮かべていたが、その目の奥には、深い疲労と悲しみが滲んでいた。夜ごと夫の容態に怯え、幾度となく祈り、そして何も変わらぬ現実に打ちのめされてきた。だが、その苦しみを娘には悟らせまいと、リリアントは気丈に振る舞い続けていた。
──レンディアヌは父の“病”が治るものだと思っている。冬が去り、雪が解けていくように、やがて過ぎ去り元通りになるものだと。実際は熱が下がってもまた次の苦難が彼を襲う。荒波が幾度も船を揺らすように。
「レンディアヌ、水をとってくれる?」
「はい!」
少女はすぐに水差しを手に取り、小さな器に注ぐ。こぼさぬように両手で持ち、母の元へと差し出した。
「ありがとう」
リリアントは微笑みながら受け取り、夫の唇にそっと器を当てる。ドーリンの喉がわずかに動き、水が静かに減っていった。
それだけのことで、リリアントの胸は温かく満たされた。
それは生きている証──それだけで、今日一日を乗り越える力になる。
「ありがとう、レンディアヌ。とても助かるわ」
そう言って娘の頭に、リリアントはそっと手を添えた。優しくなでるその手のひらに、母としての深い愛情が込められていた。
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