閑話:残された者たちの独白【側室・澪音の視点】
宵が宮を出て行った。
その報せは、澪音の胸に甘い蜜のように広がる。
自室の窓から、遠く離れた離宮の方向を見つめる彼女の瞳には、隠しきれない歓喜が渦巻いていた。
(ふふ、これで邪魔者は消えたわ。子も産めないくせに、神子だなんて大層な名ばかり。所詮、飾り物にすらなれなかった役立たずだったのよ)
澪音は、薄紅の唇をそっとゆがめ、満足げにひとつ息を吐いた。
(これからは私の時代よ。王太子様の隣に立つのは、この私)
しっとりとした緋の小袖を纏い、澪音は廊下を歩く。
すれ違う女官や侍女たちは、皆、花を咲かせるように笑みを浮かべて頭を下げた。
まるで、白羽の神子という『陰り』が消えたことで、宮中にようやく春が訪れたかのようだった。
けれど――その安堵は、長くは続かなかった。
明照の様子が、わずかに、しかし確かに変わり始めたのだ。
澪音が語りかければ、彼は微笑む。
手を取れば、柔らかく応じてくれる。
だが、その瞳の奥――光を宿すはずのその場所に、いつからか薄暗い影が差すようになった。
ほんの一瞬、ふと目を逸らしたその時に。
ふと立ち止まった時に。
明照の表情には、どこか言葉にできない翳りが浮かぶのだ。
「……明照様、ご心労でもございますか?」
ある日の午後、澪音は思い切ってそう尋ねた。
明照はかすかに首を振っただけで、「何も」と短く答えた。
それ以上、話は続かなかった。
(まさか……あの女のことで、まだ何か思うところでも?)
内心、澪音の胸にはわずかな不安がよぎる。
あり得ない、と自らをたしなめるように思う。
(神子とは名ばかりだったではない。三年いて、何の成果もなかった。子すらできず、加護も感じられなかった。ただの無能よ)
そう、澪音は心の中で何度も言い聞かせた。
けれど――明照の心の奥にある見えない何かは、宵の存在とまったく無関係だとは思えなかった。
「南庭の白椿が、満開になったようです」
そう報せてきた侍女の声に、澪音はハッと我に返る。
「……そう。まあ、それは素敵」
すぐに表情を取り繕い、微笑みを浮かべて言った。
「では、皆でお茶会をいたしましょう。風も心地よいことですし」
「はい、澪音様。ご用意いたします」
侍女たちの返事は、明るく、調和のとれたものだった。
宵がいた頃の、陰鬱な沈黙とは違う。
澪音の周囲には、華やかで朗らかな空気が満ちていた。
(あの香の匂いもしなくなって、本当に清々しいわ。神の加護?笑わるわ……結局、何もできなかったくせに)
澪音はふっと鼻で笑い、扇を開いて自らの口元を隠した。
だが、その心地よい『日常』の中に、ほんの小さな綻びが紛れ込んでいた。
ふとしたときに感じる、空気の重さ。
まるで、風が流れず、音の届かない場所にいるような感覚。
明照の背に浮かぶ影だけではなかった。
近頃、神殿に仕える神官たちの様子も、どこかおかしい。
澪音が廊下ですれ違うと、神官たちは揃って目を伏せる。
言葉少なで、表情に生気がない。
まるで何かを隠しているかのように、口を噤んでいる。
(……何か、変。けれど、何?)
理由は分からない――けれど、その違和感だけは、日ごとに澪音の胸に積もっていった。
それでも彼女は、気づかないふりをした。
自分は勝者、宵は敗者、すでに役目を終え、消えた存在。
それ以上、何があるはずがない――
▽
ある夜、寝台の中で、澪音は明照の背中にそっと問いかけた。
その声音はあくまで穏やかに――あたかも、ただの疑問のように。
けれどその言葉の奥には、かすかな悪意が潜んでいた。
あの女――宵の『無価値』を、明照に再確認させたいという、澪音なりの確信と優越があった。
「神子様は……本当に、必要なかったのでしょうか」
柔らかく、疑うことすら知らぬような声。
それでも、返ってきたのは、鋭い刃のような言葉だった。
「……もう、その話はするな」
明照の低く冷えた声が、夜の静寂を切り裂く。
その瞬間、澪音はわずかに目を細めた。
そして、静かに唇を吊り上げる。
(やはり。あの女はもう、明照様の心にはいない)
その確信が、澪音に微かな安堵をもたらした。
自分の位置――王太子の隣という、この上ない場所を、誰にも奪われることはないのだと。
だが――澪音はそのまま、寝台の白布を指先でなぞりながら、そっと息を吸い込み、ぎゅっと唇を噛みしめる。
手に入れたはずの平穏。
手に入れたはずの、幸福。
けれど、その『平穏』の底で、何かが静かに――確実に、失われている気がしてならなかった。
それは、王宮の空気。
それは、明照の背に差す陰。
そしてもしかしたら――自分自身の心の奥でさえ。
何かが、少しずつ、音もなく変わっていく。
それでも澪音は、その感覚に蓋をする――それが何であれ、自分の幸福を脅かすものではないと、固く、信じていた。
(私は……もう、手に入れたのだから)
そう繰り返すように、自らに言い聞かせるようにして、澪音は瞼を閉じた。
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