第15話 病と祈り
初冬の風が山を渡る季節。木々の葉はすっかり落ち、庵の周囲も静かな眠りに包まれていた。
吐く息は白く、朝の空気は肌を刺すほど冷たく澄んでいた。
そんなある日、桂火はふいに床に伏した。
前日から微かに顔色が悪いとは思っていたが、夕方には立ち上がることもできず、体は火が入ったように熱を持っていた。
その荒い息遣いは、宵の心を不安で締め付けた。
「けいか、さん……?」
布団の中の桂火に呼びかけるも、返事はない。
苦しげに眉根を寄せ、その顔は赤く染まっている。
額に触れた宵の手が、その熱に跳ね返される。
「こんなに、熱い……!」
その横で、鈴羽が泣きそうな顔で宵の袖を掴んでいる。
小さな手は冷え切っているのに、その瞳は不安で揺れていた。
「おねえさま……けいか、死んじゃうの……?目、開けないよ?」
「そんなこと、させない。絶対に、させないわ、鈴羽ちゃん」
宵は強く言い切った。
それは、鈴羽に言い聞かせると同時に、自分自身に課す誓いのようだった。
そのまま立ち上がり、冷たい井戸水を汲みに走る。
濡れた布を絞り、桂火の額にそっと当てた。
また、湯を沸かし、寝床を整え、そして庵に備えられていた薬草を煎じては、少しずつ彼の乾いた口元へ運ぶ。
眠っていても、桂火は苦しげに眉をひそめており、その姿を見るたびに、宵の胸は締め付けられた。
夜になっても、熱は下がらない。
薪を継ぎ足した炉の炎が、彼の横顔を淡く照らしている。
その光は、桂火の苦しげな表情を、より一層際立たせた。
隣では鈴羽が丸くなって寝ているが、寝息は小さく、きっと不安で眠れていないのだろう。
時折、小さな嗚咽が聞こえるたびに、宵はそっと彼女の頭を撫でた。
宵はそっと、桂火の手を取った。
大きく、荒れて、力強い手――彼女の肩を、背中を、何度も支えてくれたその手が、今はぐったりと重い。
その掌から伝わる熱は、彼の命が燃えている証であり、同時に、それが消えゆくかもしれないという恐怖を宵に突きつけた。
彼が倒れて初めて、宵は自分がどれほどこの庵での生活に、そして桂火という存在に支えられていたかを思い知った。
夜に安心して眠れること。朝に目を覚ませること。
笑って言葉を交わすこと。誰かのために粥を炊き、誰かのために薪を割る日々。
それがどれだけ大きな意味を持つのかを、今、痛いほどに感じていた。
この温かい日常が、失われるかもしれない――その喪失感が、宵の心を強く揺さぶった。
「……お願いです」
ぽつりと、宵は呟いた。
両手を重ね、その手を桂火の胸の上に置く。かつて神に捧げた祈りとは違う、切実な願いが、彼女の心の奥底から湧き上がった。
「神よ……いえ、もう『誰か』じゃなくていい……私の声が届くのなら、どうか……この人の火を……桂火さんの命を、どうか――消さないでください。彼を、私から奪わないでください……!」
それは、ただの小さな祈り。
国のためでも、神託でもない。
ただ、彼を助けたいという、宵自身の意思から、魂の底から紡がれた、純粋な願いだった。
その瞬間――宵の掌から、ふわりとほのかな光が灯った。
それは、まるで小さな火種のように揺らぎながら、桂火の胸へと沁み込んでいく。
温かく、静かに――雪の中に差す陽だまりのような、奇跡の光だった。
やがて、桂火の荒かった呼吸が、次第に穏やかになっていく。
額の熱も少しずつ下がっていくのが、宵の掌に伝わった。
不安に締めつけられていた胸の内に、じんわりと希望が差し込んでいく。
それは、凍てついた世界に春が訪れたかのような、確かな感覚だった。
明け方、桂火はゆっくりと目を開けた。
寝起きの目で天井を見つめた後、宵の方へゆるく顔を向ける。
「……ああ。生きてるのか、俺……」
掠れた声で呟く桂火の言葉に、宵の目から、安堵の涙が溢れ出した。
「よかった……ほんとうに、よかった……桂火さん……!」
宵はその場に崩れるように座り込み、震える手で額を押さえた。
止まらない涙が、彼女の頬を伝い落ちる。
「……心配、かけたな。あんた、ずっと起きてたのか?」
しばらく沈黙が落ちたあと、桂火が照れたように笑いながら呟いた。
その声には、微かながらも、いつもの彼らしい温かさが戻っていた。
「はい……でも、大丈夫です。桂火さんが、目を覚ましてくれて、本当によかった……」
「そうか……ちょっとだけ、夢を見てたんだ。火の中に、あんたがいて……笑ってた」
「……火の中、ですか?」
宵は涙を拭い、首を傾げた。
「ああ。あったかい炎の真ん中で、あんたが笑ってた……すごく、優しい顔して。その光が、俺を温めてくれたんだ」
宵は、その言葉を聞いて、ふっと笑った。
心の奥に灯った光が、ふたたび、穏やかに燃え上がる。
それは、嘗て『祈り』と呼ばれたものとは違う――命を繋ぐ、真実の光。
「……私、今、ちゃんと『祈れた』みたいです。桂火さんのために……」
「そうか。そりゃ、よかった」
桂火の声は、まだかすれていたが、どこか誇らしげだった。
彼の瞳には、宵への深い感謝と、そして、彼女の内に秘められた力の真髄を理解したような、穏やかな光が宿っていた。
「……ありがとな、宵さん」
宵はその言葉に、小さく首を振る。
そして、はじめて自分から――心からの微笑みをこぼした。
「こちらこそ、生きていてくれて……ありがとうございます、桂火さん」
雪が静かに降っていた――けれど、庵の中には小さな炎が灯り、三人をそっと包んでいた。
それは、祈りから生まれた光。神の加護ではない、宵自身の命の願いがもたらした、ささやかな、小さい奇跡だった。
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