第11話 契約の提案
日も落ち、小屋の中はすっかり夜の闇に包まれていた。
外には雪の静寂が広がっており、凍えるような寒さが身を刺す。
だが、小屋の中央で燃える焚き火が、宵と桂火をやわらかく照らしていた。
パチパチと薪がはぜる音が、静けさの中に心地よく響く。
宵は、膝を抱えて何も言わず、焚き火の炎を見つめていた。
火の光が、彼女の頬に温かな影を落としており――身体の冷えはすっかり癒え、心の奥にもじんわりと熱が染み込んでいく。
隣に座る桂火は、黙って薪をくべ、炎の揺らめきをじっと見守っていた。
彼の横顔は、炎に照らされ、どこか力強く、それでいて不思議なやさしさをたたえている。
しばらく沈黙が続いた後、桂火がふと、口を開いた。
その声は、いつもの穏やかさの中に、かすかに緊張を帯びていた。
「……宵さん」
「は、はい!」
名を呼ばれ、宵ははっと顔を上げる。
桂火の瞳が、真っ直ぐに自分を見つめていた。
その視線に、胸が小さく跳ねる。
「ひとつ、提案があるんだ。……俺と、『夫婦』を装ってくれないか」
思わぬ言葉に、宵の目が見開かれる。
夫婦――その響きは、あまりにも重く、苦い記憶を呼び起こす。
かつて王太子との冷たい契りの夜、ただ『神子』であることだけを期待された日々。
『夫婦』という言葉は、宵にとって傷と同義だった。
「……夫婦、ですか?どういう……意味で?」
掠れた声で問い返す宵に、桂火は視線を逸らすことなく答えた。
「ああ……この先、北へ向かうつもりだ。でも……この雪深い山を『訳ありの女』が一人で歩けば、目立つ。しかも、あんたのその髪じゃ隠しきれねぇ」
桂火は、宵の白銀の髪にそっと目を向ける。
それは、神子としての証であり、否応なく視線を引くものだった。
「偽りでも『夫婦』って形なら、あんたも守れる。俺も連れて歩きやすい。それだけの話だ……あんたが望まないなら、無理には勧めない」
言葉を切った彼の表情には、打算や軽さは一切なかった。
その瞳の奥に宿っているのは、ただ――。
「――これ以上、お前が世間の冷たい目に晒されるのは……見ていられねぇんだよ」
その一言が、宵の胸を強く揺さぶる。
誰もが『神子』としての価値を見て、『妃』として、そして『人間』として、まるで何もない空気のように扱ってきた人たちを思い出す。
人としての自分を見てくれる者など、一人もいなかった。
けれど、この男は違う。
彼は、彼女の過去を責めず、立場も問わず、ただ『宵』という一人の人間を案じてくれていた。
桂火は、そっと手を差し出した。
「どうするかは……お前が決めていい。俺は、どっちでも構わねぇ」
宵は、しばらく焚き火を見つめていた。
炎の揺らめきが、過去の記憶をちらつかせる。
夫婦――その言葉は、まだ心の傷をえぐるように重たい。
それでも――この手を、ただの提案ではなく『救い』として差し出してくれた桂火の気持ちに、応えたいという想いが芽生えていた。
宵は、小さく息を吐いてから、静かに口を開いた。
「……では、ひとつだけ、条件を」
桂火が目を細め、黙って宵の言葉を待つ。
「……身体には、触れないでください。それだけ……お願いできますか」
焚き火の音が、パチンと弾けた。
桂火は、少しだけ驚いたように瞬きをしたが、すぐに真剣な表情で頷いた。
「……ああ。わかった。俺は、そんなことでお前を縛るつもりはねぇ」
その返事が、宵の胸をじんわりと満たしていく。
誰かに条件を出すことすら許されなかった、あの宮中の頃――『はい』としか言えなかった自分とは、もう違う。
「ありがとう、桂火さん」
宵がそう呟くと、桂火は焚き火の向こうで、ふっと笑った。
「おう。こっちこそ、信じてくれてありがとな」
焚き火の炎が、二人の間に小さな橋を架けるように、やさしく揺れていた。
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