第04話 三年の月日

 季節は巡り、花も散り、また咲いた。


 春の淡い桜から、夏の燃えるような向日葵へ、秋の紅葉、そして冬の雪へと。

 そして――宵が暁国へ嫁いで、三年という歳月が静かに流れた。


 子は、できなかった。


 春も、夏も、秋も冬も。神に祈り続けても、神子の身体は沈黙を保ったままだった。

 王太子である明照は、最初こそ形式的な言葉を交わすこともあったが、やがて宵の顔を見せることさえなくなった。

 あの日の初夜と同じように、ただ背を向け、無言で去っていくばかり。

 まるで、宵の存在そのものが、彼の視界から消え去ったかのように。


 代わりに、宵の隣に置かれたのは――『側室』という存在だった。


 その名は、澪音れいね――栗色の髪に紅をさし、明るく、よく笑う女だった。

 鳳凰の刺繍が施された小袖を軽やかに揺らしながら、王宮の廊下を歩くその姿は、まるで春の陽差しのようだった。

 その明るさは、王宮の冷たい空気を一瞬で塗り替えるほどに眩しかった。


「おはようございます、皆様。今日も良い天気ですね」


 澪音がそう声をかけるたび、女官たちは顔をほころばせた。

 彼女の周りだけ、花が咲き誇るかのように華やかだった。


「まぁ、澪音様。お言葉が瑞々しくていらっしゃる」

「本当に……お美しい……王太子様もお喜びでしょうね」


 その笑い声の中に、宵の名があがることはなかった。

 誰も彼女を呼ばなかった。まるでそこに存在していないかのように、宵の存在は王宮の片隅で静かに忘れ去られていった。


「神子とは、ただの飾りであったのかもしれない」


 宵はぽつりと呟く。

 目の前の膳には、いつもと変わらぬ、冷えた粥と味噌椀。

 誰も気にかけず、誰も運命を憐れまず、ただ決まった時間に置かれ、決まった時間に下げられる。

 その中で、彼女は静かに息をしていた。

 まるで、この部屋の空気の一部になったかのように。

 廊下の向こうから、澪音の鈴を転がすような声が響いてくる。


「今日は南庭でお茶会をいたしましょう?白椿が咲いているそうですの」

「まぁ、素敵!」


 女官たちの歓声が、宵の部屋にまで届いた。

 その中に、女官の一人が、ふと振り返ってそう言った。


「宵様も、ご一緒にいかがですか?」


 その声に、他の者たちが一瞬黙る。

 澪音が、やや困ったように笑った。


「あら、宵様は……そういうの、お好きではないでしょう?」

「……ええ」


 宵は静かに頷いた。

 その声には、何の感情も込められていなかった。


「お気遣い、感謝いたします」


 それだけを言って、微笑まずに顔を伏せる。

 言葉に刺はない――ただ、もうこの国には宵には『居場所』がなかった。

 彼女の存在は、王宮の華やかさの中で、ひっそりと影を潜めている事しか出来なかったのである。

 部屋に戻ると、白羽山から持ってきた小さな香炉に、そっと火を入れる。

 香が立ちのぼるその煙を見つめながら、彼女は今日も祈りを始める。

 誰にも求められなくても、神子としての立場を忘れられても。

 それでも、祈ることだけは――やめられなかった。


「神よ……私の声は、どこに届いているのでしょうか」


 問いは返ってこない――煙がゆらゆらと揺れて、天井の梁に消えていく。

 白羽山で感じていた『神の息吹』は、ここでは遠かった。

 山に響く鳥の声、水面に落ちる桜の花びら、木々の隙間を縫うようにして流れる風と、香の煙――それらすべてが、祈りと一体だった。

 けれど、この都にはそれがなかった。

 壁に囲まれた王宮には、神の気配すら感じられず、宵は孤独な祈りを捧げるしかなかった。


 ある夜、久しぶりに明照が部屋を訪れた。

 しかしそれは、彼女のためではなかった。


「宵、新しい祭祀の書簡が来ている。署名だけでいい」

「……承知しました」


 筆をとる宵の指が、一瞬だけ止まった。

 明照の顔に目を向ければ、そこには感情の影もない。

 視線は書簡に、心は別の場所に。

 宵を『人』として見ることは、もう最初からなかったのかもしれない。


 それでも、宵は一歩も引かなかった。


「祈りは……まだ、捧げております」

「……そうか」


 その言葉に、明照は反応を示さなかった。

 興味がないのか、答えを聞く気がないのか――ただ、淡く頷くと、彼はまた何も言わずに出て行った。

 襖の閉じる音が、夜の空気を断ち切る。

 宵はしばらく、灯の影を見つめていた。

 それから、そっと掌を重ねる――形だけのものかもしれない。

 誰にも届かないかもしれない。


 それでも、これだけは――譲れなかった。


(私は、神子です。祈りだけが、私を私たらしめるもの……)


 神の声が遠のいても、社が失われても、誰にも期待されなくても。

 祈りの芯を、手放してはいけない。それだけは、自分の誇りだった。

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