第02話 嫁入りの儀
季節は、初夏の入り口だった。
空は薄く霞がかかり、風には藤の花の香が混ざる。都大路に並ぶ花房は、微かに紫を揺らしていた。
今日は、その日だったのである。
街道を進む行列は、静かで美しかった。
艶やかな装束に身を包んだ従者たち、雅楽の音もなく、ただ足音と風の音だけが響いている。
先頭を進むのは、白羽の社から遣わされた護衛の巫女たちが歩き、その後ろに、輿。
その中に、神子――
白銀の髪を結い上げ、淡い薄紅の紐をさりげなく添えている。
身にまとうのは、純白の十二単。染めも金糸も使われず、まるで山の雪をそのまま羽織ったような、澄み切った白一色。
彼女は、その中に静かに座しており、その姿は、まるで神の像のようだった。
表情は柔らかく、けれど一切の感情を滲ませない。
瞳はまっすぐに前を見据え、瞬き一つさえ計ったように静かだった。
(……私は、神の器。祈りは国に捧ぐもの)
心の中で繰り返すのは、白羽の教え。
感情を持ってはならない。
神託を歪めることのないよう、己を整える。
心の揺らぎは、加護を濁らせる毒となる。
だから宵は、笑わない――目を伏せず、誰の視線にも惑わされない。
王宮の大門が、遠くに見えてきた。
その奥に、この国の王太子がいる。
自らの『夫』となる、男が。
ほんの少しだけ、喉が乾いた気がした。
▽
王宮の大門が開き、宵の輿がゆるやかに止まる。
風が吹き抜け、純白の衣がわずかに揺れていた。
護衛の巫女が扉を開けると、宵は何も言わずに姿を現した。
あたりが息を呑む気配――色を失ったように白く整えられた彼女の姿は、たしかに人というより、まるで神の使いそのものだった。
ただ静かに、王宮の奥――玉座の間へと向かう。
そこで、宵は初めて彼と対面する。
この国の王太子である、名を
金糸を織り込んだ黒の狩衣を身にまとい、背筋を伸ばして立っていた。
黒髪は軽く結われており、顔立ちはどこか鋭い印象を与える。そしてなにより、目。
――その、冷たい金色の瞳が、宵を射抜いた。
「――君が、神子か」
その声に、感情はなかった。
ただの確認。それ以上でも以下でもなく、冷たく響いた。
「……まあ、役目さえ果たせば、それでいい」
宵は微かに睫毛を伏せ、一つ、深く頭を垂れた。
「はい」
ただ、それだけを返す。
微笑みはなく、戸惑いもない。
心のどこかで何かが刺さったとしても、それを表に出すことはない。
(神託は絶対。この身は器。祈りは国に捧ぐもの――)
繰り返す。繰り返して、感情を沈めるようにする。
王太子の横には、王族の侍女たちが控えており、誰も声を出さないが、その視線は明らかだった。
――探るような、値踏みするような、遠巻きの好奇。
中でも一人、口元を覆って笑う者がいた。
「本当に白羽の娘……?感情がないのかしら」
「まるで人形ね。まあ、神の器ってそういうものなのかしら」
囁き声は、かすかに宵の耳に届いていた。
けれど、何も反応しない――それでよかった。誰にも心を見せなければ、傷つくこともない。
そう、教えられてきたのだから。
▽
正式な拝謁が終わると、宵は王宮内の離宮――『神子の居室』へと案内された。
そこは、広くもなく、贅沢でもなかった。
白壁と木の香が残る床、質素な帳と、控えの間。
寝台は冷たく、誰かの温もりを受け入れたことなどない布団が敷かれていた。
窓からは、広い中庭が見えるが、そこに咲く初夏の花に、宵の目は向かなかった。
衣を解きながら、侍女が小さくため息を漏らす。
「王太子様、冷たい方でしたね……」
思わず出た言葉だったのだろう。
だが、宵はそれに何も返さなかった。
衣の帯を解かれながら、ただ一点、自分の手を見つめる。
この手が、国を祈り、命を捧げ、やがて――誰かの子を産む器として、扱われるのだとしたら。
宵は小さく、息を吸い、そして、静かに目を閉じる。
(私は神子なのだから、祈ることしか許されない)
それを忘れないように、胸の奥で何度も唱えた。
▽
そして、夜が来た。
初夜の帳が下ろされ、侍女が挨拶をし、退出していく。
けれど、寝台の上で待っていた宵に、明照が姿を見せることはなかった。
時は過ぎ、月が昇り、夜の風が欄間をすり抜けていく。
その冷たさに、宵はようやく気づく。
これは――迎えられなかったということだ。
初夜でありながら、夫は妻に顔も見せない。
それは、この婚姻が『形式』でしかないという証。
(――いいえ、違う)
形式ですらないのだ。
ただの『神子の加護』――それだけを求めて迎えられた存在。
人ではなく、物。
それを宵は、初めて実感した。
けれど、宵の瞳からは涙は出なかった。
出してはいけなかった。
その一滴が、加護を濁らせるなら。
この国の祈りが崩れるなら――そう、教えられてきた。
だから宵は目を閉じた。
誰にも見えないように、手の中で指を組み、祈りの言葉を紡ぐ。
誰にも頼らず、誰にもすがらず。
ただ、神に向かって祈る。
それだけが、彼女に許された『感情』だった。
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