第3話 お嬢様は雷と共に登場する

 夕刻まであと二時間ほどになり、ベルガーの村人たちはようやくルクサスと妻子を開放し、それぞれの家に帰り夜の歓迎会の準備に入る。


 その間、カレンは妻子を人知れず葬る計画を頭の中で完成させていた。こればかりは手下どもにやらせるわけには行かない。カレンは人の心を操る術は長けているが、人として最大の禁忌を侵させようとすれば、どこかで破綻することはわかっているからだ。


 自分だけで誰にも知られずに妻と子をおびき出さねばならない。幸い、ルクサスの妻ミランディアはこの村の事を良く知らない。「特別な贈り物があるの」と言って村の外へ呼び出して、底なし沼の縁に立たせてそっと背中を押す。それだけでいいはずだ。


 まずはルクサスに祝福の言葉をかけ、疑いを完全に払拭する。その後、ミランディアに近づき、心を掴む。スキル『カリスマ』を持つカレンにとって、他人の感情など玩具同然だ。


(あんな平凡な女なんか一瞬で虜にできる。そうそう、沼の立て看板と立ち入り禁止用の縄も撤去しておかなきゃ。幸い、底なし沼は一部だけで、ぱっと見は蓮の花がたくさん浮かんでいるとても綺麗な場所だから……)


 カレンの計画は今まで一度も失敗したことがない。今回も大丈夫だろうとは思うが、もし妻子をおびき出すところを誰かに見られたら……


(殺すしかないわね。隠すのは面倒だけど。待っててね、ルクサス。もうすぐあなたの惑いを無くしてあげるから。そうしたらきっとあたしに感謝することになるわ。最初は辛いかもしれないけど、絶対にあたしが慰めて、立ち直らせてあげるから)


 カレンの心は、底知れぬ闇へと染まりきっていた。目的のためなら、殺人さえも躊躇わない。彼女の中にある“勇者”としての資質――何ものにも屈せず目的を果たす不屈の意志――が、今、最悪の方向へと暴走していた。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 

 

 ヴァレンダールは、カレンの心が真っ黒に染まっていくのを感じていた。もはや躊躇してはいられないレベルに達している。犠牲者が出る前に決着を付けねばならない。ヴァレンダールは姿を消し、魔力の風を纏ってカレンの場所へ急いだ。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 


 カレンは思惑通りルクサスの妻ミランディアをその笑顔と美しい声で魅了し、「私たち、もうお友達よね」と言わせるほど仲良くなった。ルクサスはその様子を見て心から喜んだ。彼はカレンの本性を知らない。記憶の中では仲が良く、美しく、気立てもよい、まるで聖女のようだ、という印象だ。


 カレンの手下たちも、彼女の様子を見てほっとしていた。彼らはカレンの恋心を知ってはいたが、さすがに赤ん坊を抱いた女には嫌がらせはしないだろうと。しかしカレンがひっそりと恐ろしい計画を進めていることに気が付いた者はいなかった。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 

 

 カレンは唇の端を妖しく吊り上げて笑った。


(ミランディアはいつでも呼び出せる。あとは……沼の立て看板と立ち入り禁止のロープね。暗くなる前にどこかへ隠しておきましょう)


 広場ではルクサスの歓迎の宴が設けられていて、小さな屋台が4台、パンや肉、果物などの食事をふるまっている。おそらく沼付近にはだれもいないだろう。距離もかなり離れているので、万が一、叫び声を出しても届かない。


(ふふ。なんだか楽しくなってきたわ。あの女の恐怖に歪む顔、想像するだけでワクワクする)


 足取りも軽く、カレンは街はずれの沼地へやって来た。立ち入り禁止の立て看板の手前へと足を踏み入れる。

 

 ズサッ!


「キャアッ!」

 赤い絹織りの靴を履いた右足がいきなり膝下まで埋まり、カレンは悲鳴を上げた。


「やだ、どういうこと? ここはまだ底なし沼じゃないはずなのに――誰か、助けて! このままじゃ沈んでしまう!!」


 必死に足を引き抜こうとするが、体が大きく前傾し、支えに出した左足もズブリ、と深く嵌った。顔が恐怖に歪む。彼女が踏み込んだ場所こそ、まさに底なし沼の中心だった。表面を草が覆い、見た目では判別しづらく――そして、看板の位置が、誰かに変えられていたのだ。


 カレンの身体はあっという間に、腰から下が柔らかい泥に塗れ、どんどん沈んでいく。この泥はきめが細かく、一度嵌れば大人でも、大きな獣でも抜け出すことは不可能である。


「だれかー! だれかいないの? お願い、助けて!!」


 呼びかけに応える者がいないことは知っていてもカレンは叫び続けた。しかし、叫ぶとよけいにズブズブと不吉な音を立てて体が沈む。両足はもうもがくこともできないほどの重みを増していた。


 とうとう胸のあたりまで沼に沈みながら、カレンは必死に足掻き、顔を上に向けた。そして気が付いた。


 目の前にいたのは、白いローブに身を包んだ銀髪の男。


「ちょっと! そこの男! 何ぼんやり見てるの? 早く助けてよ!」

 カレンは文句を言いながら男に向かって右手を伸ばした。


(そうよ、あたしがこんなところで死ぬはずがない、絶対ない!)


 一瞬、希望が灯った。だが、次の瞬間、それは絶望へと塗り替えられた。

 白いローブの男は、ただカレンを冷ややかな目で見ているだけだった。


「なんで……助けてくれないの、……ゴボッ」


 喉元まで泥が迫り、カレンは必死に両手で泥を掻き分けるが、口の中にまでねっとりとした泥が流れ込んでくる。

 白ローブの青年はカレンを固い表情で見つめ、静かに告げた。


「君は、罪なき者を殺めようとした。それも、勇者となる前に――人として堕ちてしまった。このまま、静かに沼に沈むがいい」


「ゆ、勇者……? あなた、まさか……聖剣……ガボッ」

 

今日が十七歳の誕生日。勇者の血が覚醒し始めていたカレンは、ようやく目の前の青年が自分の聖剣であると悟った。だが、すべてが遅すぎた。


「や、やだ、死にたくない、聖剣なら、あたしを、助けて――」

「……すまない」


 ヴァレンダールは苦悶に顔を歪めながらも、カレンの瞳を真っ直ぐに見つめ続けた。己の選択の結果を、最後まで見届けなければならない。


「お願い……もう悪いことしない! いい子になるから――」


 泥を吐き出しながら叫ぶカレンの言葉に、ヴァレンダールは思わず右手を伸ばした。だが――一瞬、遅かった。


 カレンの体は、まるで何かに呑み込まれるように、一瞬でヴァレンダールの視界から消えた。静寂だけが残る。


 ヴァレンダールは、震える右手を見つめた。カレンの最後の言葉は、明らかに嘘だった。助かるためだけの打算。だが、それでも――生きていれば、いつか更生したかもしれない。ヴァレンダールの胸は、後悔の炎で焼き尽くされるように痛んだ。


(私はまた……勇者を殺めてしまった。神よ、偉大なる創造神よ。私は失敗作だ。これ以上、勇者を殺めることなどできない。ならば、この身も――最後の勇者と共に沈もう)


 ヴァレンダールは一度だけ天を仰ぎ、静まり返った沼の縁へと足を踏み出した。その瞬間――


ドオオオオオオン!!!


 轟音と共に、青い稲妻が天から落ち、ヴァレンダールのすぐ眼前を直撃した。

「ぐっ!」

 凄まじい衝撃に体を吹き飛ばされながらも、空中で身を捻り、沼の浅瀬に着地する。


(青い雷……神の御業か。私が勇者を沈めたことへの、天罰なのか――?)

 ヴァレンダールは恐怖に身が竦む。


ヒューン! ベチャッ!


 次の瞬間、目の前に空から落下してきたのは――泥にまみれた人影だった。雷に弾き飛ばされたカレンが、うつ伏せの大の字になって地面に叩きつけられたのだ。


「ウボェエエ!! げほっ、げほっ! な、なにこれ、泥!? わたくし、なんでこんな目に……ぺっ、ぺっ! 目が、目がああああ!!」


 ヴァレンダールの銀灰色の瞳が、限界まで見開かれた。目の前で、全身を泥まみれにしながら起き上がろうともがいているのは、確かにカレンの体だった。だが、その魂の輝きは――まったくの、別人だった。

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