幸せに消えゆくあなたへ

ろゆ

幸せに消えゆくあなたへ

 思えば、必然だったのかもしれない。

 いつも通り、高校に給食の運搬へ行き、何となく屋上へと上り、屋上の扉を開ける。この高校への運搬が始まってから二週間、懐かしさからか、あるいは授業中の静寂からなる高揚感からか。普段の僕では考えられない行動だった。


 ありふれた日常の中、とある高校の屋上。快晴の空から太陽がアスファルトに熱を射す。背丈より少し高い鉄柵に囲まれた屋上の左奥には、ぼーっと校庭を眺める一人の女子高校生がいた。日差しに当てられ、彼女の肩まで伸びる髪が赤茶に染まっている。

 まるで絵に描いたような風景に似つかわしいはずの彼女は、白紙に垂れた黒インクのように異質な存在感を放っていた。


 ドアノブを握ったまま、僕は彼女から目を離すことができずにその場に佇む。

 彼女はそんな僕に一瞥もくれず、草木が風に揺れるように、自然な動きで目の前の鉄柵を登り始めた。

 あまりに自然な動きだったため、少し反応が遅れてしまう。彼女が今まさにしようとしていることを止めるため、僕は屋上の入り口から彼女へ向かって走った。

 屋上はちょうど教室一つ分ほどの大きさであったため、鉄柵を完全に乗り越える前に彼女のもとへたどり着く。

 この際、多少の怪我など考えていられず、僕は両手で彼女の制服を掴み、体重をかけて思いきり引っ張る。鉄柵から剥がれ落ちた彼女は、そのまま屋上のアスファルトへ僕と一緒に倒れこんだ。

「な、なにやっているんだ! 落ちたら危ないだろ!」

 思ったよりも大きな声が出たことに自分でも驚く。もし本当に落ちたら危ないどころでは済まないが、焦った僕の語彙力ではこれが限界だった。

 彼女は少し面倒くさそうな、それでいて困惑したような表情を見せた後、大きくため息を吐いて口を開く。

「……おじさん誰? 学校の人? ならこのこと、黙っておいてほしいんだけど」

「学校の人、ではないが、一応出入りは許可されている。というか、なぜあんなことをしていたんだ」

「……おじさんには関係ないでしょ。ほっといてよ」

 彼女はこちらを見ずそう言い放つと、すくっと立ち上がり屋上の入口へと歩く。その後ろ姿に先程までの存在感はなく、その背中は年相応か、それ以上に小さく見えた。

 僕はその場に立ち上がり、彼女の背中へと言葉を投げる。

「だからって、死のうとしている人を放っておけないだろ」

 余計なお世話だとわかっていても、つい口を出してしまう。昔からの悪い癖だ。

 だがこの時は、彼女をこのままにしてはいけないような気がしていた。そこに確証はなく、ただの勘。後に彼女が世界のどこかで亡くなっても、自分は何かしてあげることができた。一度は彼女の死を止めてあげた。何もしなかったわけじゃない、見て見ぬふりをしなかったんだ。そんな無意識的な、言い訳じみた浅い考えだったのかもしれない。

「別に、本当に死ぬつもりはなかったよ」

 足を止めて彼女が僕にそう告げる。

 死ぬつもりのない人間が、屋上の鉄柵を乗り越えようとするだろうか。彼女の言動の矛盾に首をかしげていると、彼女が俯きがちに言葉を続ける。

「ただちょっと、死ぬのがどのくらい怖いのか確かめようと思っただけ」

「……死ぬのが、どのくらい怖いのか?」

 率直な疑問を口に出すと、彼女は話過ぎてしまったとばかりに、足早に入口へと向かい、乱暴に扉を閉めその場を後にした。

 僕は授業終了を告げるチャイムが鳴るまで、その場で佇んでいた。

 彼女の去り際に見えた表情。「どのくらい怖いのか確かめたかった」という言葉とは裏腹に、まるで生きるのを諦めたような、生に無関心な表情で――


 その表情が、僕に彼女とあの子を重ねて見せたのかもしれない。




 僕は約二年前まで、外科医として働いていた。

 二十六歳で研修医を終え、都内の総合病院で外科医をしていた僕に、ある日一人の患者が訪れてきた。

 彼女は「木原すみれ」といい、白血病を患っていた。

 すぐに治療を開始したが、症状は悪化をたどる一方。さらに、彼女は幼いころに両親に捨てられ、児童養護施設で暮らしていたのだが、その施設職員はただの一度も見舞いに訪れることはなかった。

 憤りを感じ、施設に一度でもいいから見舞いに来るよう直談判しに向かったのだが、職員は別の子の対応があると一蹴し、まるで相手にはしてくれなかった。

 僕は日に日に小さくなる彼女のそばで、ただ話し相手になることしかできなかった。


 季節は巡り、入院当時は緑葉に着飾っていた樹木は寒空に枯葉を落とし、寂しげな冬風に吹かれていた。

 樹木につられるように彼女の病状は悪化し、この頃には終末期治療に入っていた。

 抗がん剤の影響で髪の毛は抜け落ち、彼女はどんな時でもピンクのニット帽を着けるようになった。

 そんな彼女の姿が痛ましく、僕はなるべく暗い話題にならないよう、明るい話題を選んで話していた。

 この日も、テレビでやっていたドラマの話を面白おかしく話していたところ、ふと彼女が呟いた。

「……ねえ、先生」

「どうした?」

「死ぬって、どんな感じなのかな」

 僕はその問いにすぐには答えらず、先程までの会話が嘘のように静まり返る。

 目の前の、触れたら壊れてしまうガラスのような彼女を見つめたまま固まる僕に、彼女は言葉を続ける。

「先生……私死ぬのが、怖い」

 こちらに振り向きながらそう言った彼女の眼には、大粒の涙が溜まっていた。副作用でまともに食事が喉を通らなくなり、顔は瘦せこけ、体重はこの病院へ初めて来た時の半分もなくなっていた。

 悲痛に嘆く彼女に対し、僕はただ、大丈夫と、そんな無責任で無意味な言葉を与えることしかできなかった。


 数日後、東京にしては早めの初雪が降った日、木原すみれは雪の結晶となってこの世を去った。享年僅か十七歳であった。

 葬式に施設関係者は誰も来ず、僕を含めた病院関係者数名で執り行われた。

 僕にとって、受け持った患者が亡くなるのは初めてであったこと、薬物治療等の医学的なケア以外まるで何もできなかった無力感から、僕は医者として為さなければいけない「助ける」ことが手につかなくなってしまっていた。


 葬式が執り行われた翌週、僕は「医者」であることをやめた。




 屋上で彼女に出会ってから一週間、再びこの学校の給食配膳に訪れ、そのままあの日のように屋上に上る。

 あの日以来、女子高校生が自殺するというようなニュースは見かけなかったので、まだ彼女は生きているのだろう。

 それでもまた屋上に向かうのは、一抹の不安を消し去るためか、はたまた未来の自分への言い訳のためか、あるいは――

 僕はドアノブを捻り、鍵が開いていることを確認すると、意を決して扉を開いた。

 空は相変わらず快晴、日差しで熱されたアスファルトの奥、先週出会った場所と同じところに、彼女はいた。

 僕はドアノブを放し彼女の方へと歩を進める。ガチャン、と扉が閉まる音に反応して、彼女はこちらを向いた。初めて正面から見る彼女は、薄くメイクをしており、肩程の黒髪を揺らし、大きな瞳でこちらを覗いていた。

 彼女は僕を見るとぱあっと表情を明るくし、小走りで寄ってくる。

「おじさん久しぶり! ここで待ってたらまた来ると思ったよ」

 先週とは打って変わった態度、また思ったよりも歓迎されている雰囲気に、思わず一歩後ずさる。

「ねえおじさん、名前は?」

「……天野太陽、だけど……」

「そうなんだ。わたし海瀬ひまり、よろしくね」

 いきなりぶつけられた質問に、思わず反射的に答えてしまう。

 僕の名前を聞いた彼女――海瀬は、嚙みしめるように僕の名前を復唱する。

「天野太陽、なんだか元気の出そうな名前だね」

「名前負けだよ。実際そこまで元気溌剌キャラじゃないし」

 明るくもないし、と付け足すと、海瀬は、見ればわかるよと笑みをこぼす。年は十以上離れているというのに、何故か会話に懐かしさや心地よさを感じる。

 ふとここへ来た目的を思い出し、先週感じた疑問を投げかけようとすると、海瀬の言葉に遮られてしまう。

「天野さん。突然こんなことお願いするのも変なんだけどさ……」

 海瀬は視線を左右に振り、少し迷うような仕草を見せた後、覚悟を決めたようにこう言った。

「――わたしと一緒に、死んでくれませんか」




 海瀬の誘いに乗ったのは、一種の気まぐれだったのかもしれない。

 もちろん、彼女の死を止めるためについていくという側面もあったが、すみれちゃんが亡くなってから、どこか自分の生きる意味というものを探していたような気もする。

「あ、先生、見えてきたよ!」

 東京から新幹線と電車を乗り継いで約六時間、ついたのは大分県の佐伯市。

 海瀬と新幹線に揺られる間、たくさん話をした。

 彼女がすみれちゃんと同じく施設育ちであること。母親は不明だが、自衛官である父が忙しい仕事の合間を縫って会いに来てくれていたこと。そしてその父親が海外派遣中、紛争に巻き込まれて亡くなったこと。

 僕も、以前は医者をしていたこと、今は医者をやめて配膳員をやっていることを話した。医者をやめたことについて、すみれちゃんに関することは話さなかったが、彼女がそれについて言及してくることはなかった。

 他にもたくさん話したのだが、彼女が言った「一緒に死んでほしい」という言葉については、一切話してはくれなかった。


 今から向かうのは海瀬の父親の実家、つまり海瀬にとって祖父母の家である。

 海瀬曰く、祖父母ならまだ見つかっていない母親のことを知っているかもしれないとのことだった。

 僕を連れてきた理由は、単純に一人では不安であること、周りに頼れる人がいないこと、そして僕がどこか父親の雰囲気に似ていたことが要因だそうだ。

 市内を歩くこと十数分、スマホで地図アプリを起動しながら歩いていた海瀬が立ち止まり、「ここだ」と声を漏らす。

 海瀬の視線の先には、生け垣に囲われた古い日本家屋の小さな宿屋があった。そばにある看板には「海瀬旅亭」と書かれており、おそらくここが海瀬の実家なのだろう。

 横にいる海瀬を見ると、少し緊張した面持ちで、スマホを大事そうに胸の前で握りしめている。

「……大丈夫か?」

 そう尋ねると、海瀬は、大丈夫、と返し、一つ大きく深呼吸をする。

「先生はここで待ってて」

「一緒に行かなくて平気か?」

「……多分、大丈夫」

 そうか、と返すと、海瀬は再度大きく深呼吸をすると、ゆっくりと一歩目を踏み出した。

 そのまま歩を進める海瀬を見守っていると、ちょうど半分ぐらい進んだ先で海瀬が立ち止まる。

 どうしたのかと様子を伺っていると、海瀬は恥ずかしそうにこちらへ振り向き、

「やっぱり、先生も一緒に来てほしい」

と告げた。

 僕は彼女の子供らしい一面に微笑ましい気持ちになりながら、彼女の後を追った。


 少し突っかかりのある引き戸を開けると、広い玄関の奥から「いらっしゃい」と女性の声が聞こえた。

 二人とも玄関に入り、引き戸を閉じたタイミングで奥の暖簾をくぐって高齢の女性が顔を出す。恐らくこの人が海瀬の祖母なのだろう。

 海瀬は少し姿勢を正すと、緊張で口を震わせながら女性に尋ねた。

「初めまして!あ、あの……あなたが、海瀬慎司さんのお母様、ですか?」

 実の祖母に対して他人行儀に話す海瀬。海瀬にとって、実の父親ですらまともに家族として接することが叶わなかったのだから、当然なのだろう。

 彼女の問いかけに対し、女性は、そうですが、と答える。

 海瀬はその答えに目を開くと、若干早口になりながら言葉を続けた。

「わ、わたし、海瀬慎司の娘の海瀬ひまりと言います! わたしのお母さんのことについて知りたくて――」

 そこまで話すと、海瀬はハッとしたように言葉を止めた。僕も海瀬の視線を辿ると、海瀬の祖母が大粒の涙を流しながら口元を手で覆っていた。まるで驚きで言葉が出ないようだったが、やがて口元の手を外し、その手を海瀬に伸ばしながらゆっくりと言葉を紡ぐ。

「ひまりちゃん、なの?」

「は、はい。ひまりです……」

 海瀬がそう答えた途端、目の前の海瀬の祖母がこちらへ駆け寄り、海瀬をぎゅっと抱きしめた。

「ひまりちゃん! ……ごめんねぇ。……ずっと、会いに行けなくて」

 抱きしめられた海瀬は驚いた表情の後、涙を流しながら祖母を抱きしめ返す。

「おばあちゃん……ごめんなさい……ごめんなさぁい!」

 祖母に抱きしめられながら、海瀬は力が抜けたように祖母に寄りかかり、泣きながら謝罪の言葉を繰り返した。

 僕は感動的な二人の出会いに笑みをこぼしながら、二人をただ見つめていた。




「正直、受け入れてもらえないと思ってた」

 あの後、海瀬の祖母であるクミ子さんの経営する旅亭に一晩泊めてもらえることになった。

 大分名物の天然温泉を味わい、部屋に戻ると、泣き止んだ海瀬がそう呟いた。


 クミ子さん曰く、海瀬の母は出産と同時に亡くなってしまい、自衛官であった父は海瀬が大きくなるまで施設に預けることを決断したという。海瀬が生まれたとき、クミ子さんは旦那さんを亡くし一人で旅亭を運営していたため、海瀬を預かることができなかったという。

 海瀬の父が亡くなり、海瀬を心配していたクミ子さんだったが、海瀬が入った施設を父から知らされておらず、迎えに行こうにも行けなかったのだ。

 そんなクミ子さんの思いを知らなかった海瀬は、自分のために父が働いて亡くなったため、息子の敵と思われているのではないかと考えていたらしい。

 結果うまくまとまりそうな雰囲気になり、僕は一安心して海瀬に問う。

「クミ子さんにも会えたし、明日には東京に帰るのか?」

 海瀬の言った「一緒に死んでほしい」という言葉をすっかり忘れていた僕は、彼女にそんな呑気な質問をした。

 彼女は表情を変えないまま、僕を見ずに話す。

「……帰らない。まだここで、行かなきゃいけない場所があるの」

 行かなきゃいけない場所? と僕が聞き返すと、海瀬は僕に視線を向けて言う。

「先生、一緒に来てほしい」




 翌日、クミ子さんに別れを告げ、僕たちは目的地のひまわり畑展望台を目指した。

 クミ子さんは海瀬との別れを惜しんでいたが、近いうちにまた必ず会いに行く約束をし、旅亭を後にした。クミ子さんは、僕たちが見えなくなるまでずっと、手を振ってくれていた。


 海瀬旅亭からバスで約二十分、目的地であるひまわり畑展望台に到着した。

 昨晩、海瀬からここに一緒に来てほしいと言われ承諾したが、目的は教えてくれなかった。

 夏の猛暑を食らいながらひまわり畑を進み、展望台を目指し歩く。恐らくデートスポットなのだろう。辺りには何組かのカップルが見られ、皆楽しそうに園内を回っていた。

 そんな中、海瀬はどこか暗い表情で歩を進める。途中、水分補給を取るよう勧めたが、彼女は頑なに申し出を断り、展望台を目指した。それはまるで、何かを焦っているようにも見えた。

 三十分ほど園内を歩くと、やがて園の終着点である展望台が見えた。

 海瀬は展望台につくと、備え付けの双眼鏡を無視して落下防止用の柵の目の前まで行き、その先にある海を眺める。

 僕も海瀬に追いつき隣に並んで海を眺める。

 しばらく波の音を聞きながら海を眺めていると、彼女がふいに口を開いた。

「この海の先でね、お父さんは死んじゃったの」

 この海の先、フィリピン海を挟んだ先のインドネシアで勃発した紛争、確か日本の自衛隊が何名か派遣されたと聞いていた。

 その中に、海瀬の父がいたのだろう。


 静寂を波の音が支配する。何を言うべきか、何か言うべきなのかを迷っていると、海瀬が再び口を開いた。

「屋上でわたし、先生に一緒に死んでほしいってお願いしたよね。あの意味、教えてあげよっか?」

 海瀬の問いに、僕は黙って首肯する。

 クミ子さんに会いに行って、両親のことを知り、その先で、彼女は何故死を選ぼうとするのか。この旅が始まってからずっと、もしかしたら初めて出会った時から、僕の中で彼女に関して引っかかっていたことだ。

 海瀬は一度目を伏せた後、振り返り展望台を歩きながら話し始めた。

「わたしね、死にたいわけじゃないっていうのは本当なんだよ。なんて言うんだろうね……。死にたいっていうより、生きたくない……。うん、そう。生きていたくないんだ、わたし」

 話しながら、一人納得したように海瀬は言った。僕は否定も肯定もせず、無言で続きを促す。

「お父さんが死んじゃうまで、わたし自分が施設暮らしや母親がいないことを、不幸だなんて感じたことなかった。ううん。今だって、自分が不幸だなんて思っていない。むしろ幸せすぎるくらい! おばあちゃんに会えて、お母さんとお父さんの話も聞いて……今、先生とこうしてここにいることも、わたしにとっては幸せなことなんだよ?」

 けどね、と海瀬は続ける。ぐるぐると展望台を歩き回っていた足を止め、少し俯きながら言う。

「だからこそ、わたしは生きたくないって思うんだ」

「……それはなぜ?」

 恐らく、聴かなくても答えてくれたであろう疑問を海瀬に投げかける。幸せであるからこそ、生きたくないという矛盾的な思考を、どうにか理解したいという僕がいる。

「……それはね、わたしは幸せを知ってしまったからだよ」


 答えになっていないような回答に、思わず首をかしげる。

 海瀬はそんな僕を見て少し微笑むと、再び展望台を歩きながら話し始めた。

「施設で暮らしている時、お父さんが会いに来るまで、わたしは幸せを知らなかった。ただ毎日を消費して、何のために生きているのかも、何を目指せばいいのかもわからない日常を過ごしていたの」

 新幹線では話してくれなかった海瀬の話。海瀬は親からの愛を受け取ることができずに育ったのだ。僕が当たり前のように過ごしてきた日々を、彼女は非日常的に過ごしている。

 屋上で彼女に初めて出会ったときに感じた存在感はこれだろうか。非日常を日常として過ごすという、異質な人間だからこそ発する存在感。僕は海瀬と出会う前に、それを体感したことがあるはずだった。


「初めてお父さんが会いに来てくれて、あぁ、これが愛なんだなって。これが幸せってことなんだなって思った。わたしはこれから、たくさんの愛に触れて、幸せを享受して生きていくんだなって、そう思った」

 どこか懐かしむように話す海瀬。そんな彼女は、どこにでもいる普通の高校生みたいで、背景のひまわり畑がまるで彼女の幸せを祝福しているかのように見えた。

「わたしが高校に上がってすぐ、お父さんはインドネシアに派遣されて、紛争に巻き込まれて死んだ。わたしはただ、新聞とかテレビで、亡くなったことを知らされるだけで、ただただ、無力だった」

 先程まで僕たちを射していた太陽が、いつの間にか薄暗い雲に覆われ、ひまわり畑に大きな影ができる。

 海瀬は僕の隣で立ち止まると、真っすぐに海を見つめながら、さらに言葉を紡ぐ。

「ねえ先生知ってる? 最近はAIを軍事利用する開発が、世界中で行われているの。人の命をリスクなしに奪う恐ろしい兵器を、世界中の科学者が血眼になって作ってる。……私よりも愛を受け取って、幸せを感じて生きてきたはずの人たちが、人の幸せを奪うAIを作ってるんだよ!? わたしはそれが怖いの! これから先、生きることで訪れるたくさんの幸せが、突然誰かに奪われてしまうことが、死ぬよりもずっとずっと怖いの!」

 後半は半ば叫ぶように、彼女はそう言った。

 僕はすみれちゃんのことを思い出す。彼女は僕と話し、過ごす日々を、幸せと思ってくれていたのだろうか。死ぬのが怖いと言った彼女は、その幸せを失うことが怖かったのだろうか。

 僕の思考など知る由もない海瀬は、涙目になりながら独白を続ける。

「昨日ね、少し考えたんだ。もしわたしが人間じゃなく、違う動物に生まれていたら、って。平和のない、弱肉強食の世界なら、生きるために力を使うっていう選択を、迷わずとっていたと思う。幸せを守るためじゃなく、生きるための戦いなら、わたしはきっと戦える。だってそれなら、幸せを考える暇なんてないでしょ?」

 僕は海瀬の話を聞いて、海瀬のことが少しわかった気がした。彼女はきっと、誰にも助けを求めることができない人間なのだろう。彼女自身、頼るという経験が少ない上、彼女を助けてくれる人が、彼女の父のようになってしまったら。

 そんなトラウマが彼女を縛り、一人で生きることを強制しているのだ。

 ふと彼女を見ると、あの日屋上で見たような存在感を放ち、諦観した様子で僕の方を向き、あの日屋上で告げた言葉を繰り返す。


「ねえ先生。わたしと一緒に、ここで死んでくれませんか」


 幾度目かの沈黙を、波の音が相殺する。

 僕は海瀬の眼を真っすぐ見つめ、彼女の誘いに答えを出す。


「――悪いが、僕は君と一緒に死ぬことはできない」


 僕ははっきりと、海瀬の誘いを断った。

 海瀬は一度目を大きく見開いた後、そっか、と呟いて目を伏せる。異質な存在感は消え、逆に存在が感じられなくなるくらい、彼女は小さくなっていくように見えた。

 そんな彼女に、僕は再び声をかける。

「理由は二つある。一つは、僕に死ぬ理由がないこと。君と旅をして、ようやくやりたいことが見つかったんだ。僕はその夢に向かって生きたい」

 海瀬と旅をして、僕はやっぱり医者をやりたいと感じた。人を助けることに、僕は生きがいを感じることに気づいたのだ。

 そう、と海瀬が短く呟く。その声は消え入りそうで、彼女自身が、今すぐにでも消えてしまいそうなほどだった。

 二つ目は、と告げ、一つ大きな深呼吸をして、僕は彼女に告白する。


「二つ目は、僕が――君と生きていたいと思ったからだ」


 一瞬の沈黙の後、海瀬は驚いたように僕を見る。

 それも当然だ。僕と彼女は、つい一週間前に出会ったばかりだし、まともに会話したのだって、昨日と今日だけだ。

「……え、なんで?……わたしたち、この前出会ったばかり……」

 当然の疑問を投げる彼女が、どこか可笑しくて口元が緩む。

 僕は咳払いをして、口を開く。

「実を言うとさ……僕も、ずっと怖いんだ」

「そ、そうなの?」

「うん。僕だけじゃない。クミ子さんだって、テレビに出ているあの俳優だって、総理大臣だって、きっとみんな、毎日が怖いんだ。だって、君が言った通り、みんな幸せを感じて生きているんだから」

 海瀬はハッとしたように顔をあげる。

 彼女の独白は決して間違っていない。僕だって、毎日が怖い。医者をやめ、配膳員をしている今が怖い。    自分の関わった人間が、すみれちゃんのように離れていってしまうのが怖い。

 でも、だからこそ。僕たちは生きているのだ。

 人間だからこそ、喜怒哀楽があるからこそ、幸せを幸せだと感じ、それが失われることに恐怖する。それは、僕たちが人間である証明であり、人間のあるべき姿なのだと思う。


「世界中の科学者だって、みんな家族がいて、恋人がいて、大切な人がいる。その人たちを守るために、幸せが奪われないために開発する。そうさ。きっとみんな、恐怖という病に侵されているんだよ」

 海瀬は少しだけ表情を明るくした後、思い出したように再び顔を暗くする。

「……でも、でもお父さんはもう……帰ってこない」

「僕がいる」

 海瀬の不安に答えるようにそう告げる。彼女が生きていくために障害となる膿は、僕が全部取り除いてやる。

 それが海瀬の、すみれちゃんのために僕ができる精一杯だと思った。

「もしまた、君が逃げ出したくなるくらい怖くなったら、僕がいる。それでも、この世界に生きることが辛くなって、もうどうしようもなくなったら……、今度こそ、僕は君と一緒に死ぬ」

 約束するよ、と付け加える。

 海瀬は涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を僕に向けながら、ぎこちない笑顔を作っていた。

 つられて僕も笑みがこぼれ、しばらく二人して笑った。出会ってから一番、クタクタになるまで笑っていた。

 気づけば空は、雲一つない快晴だった。


 海瀬旅亭を出たのは早朝だったはずだが、東京につく頃には、空は星で埋め尽くされていた。

 駅から海瀬の住む施設までの道のりを並んで歩く。なんの前準備もなしに始まった突発二人旅は、ようやく幕を閉じた。

 隣を歩く海瀬が何やらモジモジしているので促すと、

「先生はさ、どんなものが嫌いなの?」

「嫌いなものか?」

 おかしな質問に、つい吹き出してしまう。そこは普通、好きなものではないだろうか。

 いいから答えろ! と海瀬に急かされるので、真剣に考える。

「嫌いなものかぁ」

 途端二人同時に腹の虫が鳴る。そしたら、お互いがお互いのお腹に視線をやるから、また二人して笑う。

「まずは何か食べるか」

「わたしラーメンがいい! 先生のおごりね!」

 なんだとぉ、と冗談っぽくおどける。初めて出会った頃からは考えられないような関係性になったことに、今更ながら驚く。

 先を走る海瀬に置いていかれないよう、僕も小走りで後を追う。

 そんな二人を、空の星が見守ってくれているような気がした。

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