刃
ヤマ
刃
雨は止んでいた。
濡れた舗道を見下ろし、傘を閉じる。
足音だけが、静まり返った帰り道に響いていた。
人通りは少ない。
夜は、こうして静かな方がいい。
今日も、いつも通りだった。
必要なことを、必要な相手に、必要なだけ伝えた。
それだけの一日だ。
俺がいなければ、職場は回らない。
指示を出し、無駄を切り捨て、速やかに帰る。
――それが、上司である俺のやり方だ。
帰り際、若手がぼやいた言葉が耳に残っていた。
「もう少しだけ、早く言ってもらえれば……」
「段取りが悪い証拠だ。勉強代と思っとけ」
そう、笑って言ってやった。
若手の能力的に少しキツいかもしれないが、仕事とはそういうものだ。
教育。
試練。
愛の鞭。
言葉一つで折れるようなら、社会に出る資格などない。
けれど――
最近、様子がおかしい。
職場の空気が澱んでいる。
エレベーターを待っていると、こちらに向かっていた若い女性社員が、黙って階段に逃げた。
顔を背け、言葉もない。
まるで、こちらが加害者のようだ。
寧ろ、被害者はこっちだというのに。
会社を出たとき、見知らぬ若造とすれ違う。
そいつは、こちらをちらと見た後、小さく舌打ちをした。
意味がわからなかった。
知り合いかどうかも覚えていないが、無礼にも程がある。
俺はただ、真面目にやってきただけだ。
責任を果たし、余計な感情を排して、言うべきことを言ってきた。
思い出すだけで、不愉快だ。
雨上がりの夜道。
足音だけを聴きながら歩いていると、ようやく一人になれた気がした。
だが――
人気のない路地。
マンションが見えてきた頃。
その先の、人影。
一人、二人――
次々と、暗がりに姿を現す。
見覚えのある顔があった。
職場の若手。
昔の部下。
辞めていった者たち。
名前すら思い出せない者もいた。
何故、ここに?
何故、誰も何も言わない?
「……なんだ?」
一人が、歩み寄ってきたのを観察する。
じっと、こちらを見る目。
口は動かない。
ただ、静かに、懐から何かを――
銀の光。
「は……?」
咄嗟に
だが、遅かった。
駆ける音と、その後の静寂。
「え……?」
鋭い痛みが、胸を裂いた。
熱いものが、服の内側を伝う。
膝が抜け、尻餅をつく。
地面の冷たさなど、感じる余裕はない。
胸に手を当てると、濡れた感触。
雨でも、汗でもない。
刺されたことを理解する。
一人目が去った後、二人目が、また静かに前へ出た。
嫌だ。
死ぬ。
殺される。
「や、やめ――」
手にした刃が。
俺に、深く突き立てられる。
無言のまま。
言葉にならない悲鳴を上げた。
だが、誰も反応しない。
さらに、三人目。
その手にも。
同じ、銀の光。
そして――
次々と、影が動いた。
誰一人、声を発さない。
順番を待っていたかのように。
淡々と、迷いなく。
その度に、鋭い衝撃が身体を貫いた。
水溜りよりも、こちらを見下ろす目が、何よりも冷たかった。
力が入らなくなり、地面に身体を投げ出す。
視線だけを襲撃者たちに向ける。
その顔を見て、思い出す。
彼らに掛けた言葉たちを――
「お前のためを思って言ってやってるんだ」
「泣いて済むと思うな」
「潰れる奴が悪い。能力の問題だ」
そんな、助言を。
助けてやったのに。
――逆恨みか。
恩を仇で返すつもりか。
「ふざ、けるな……」
俺は、暴力なんて振るったことはない。
陥れたことも、騙したこともない。
ただ、言葉を伝えてきただけだ――
誰か、助けろ。
耳鳴りがする。
世界が歪む。
言葉が、もう出ない。
最後の衝撃。
痛みは、もうなかった。
崩れていく視界の中。
最後に聞こえたのは――
女の、ただ一言。
「やっと黙った」
刃 ヤマ @ymhr0926
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