第四話「“ふつう”の一日と、隠す耳」

この町の朝の空気はひんやりとして、どこか透明だった。


あやかし旅館で働き始めて、数日が経過していいた。


私はまだ少し緊張していて、制服代わりの作務衣を着た背中に、じんわりと汗がにじんでいる。


「じゃあ、今日も廊下の拭き掃除からお願いね」


 榎木さんに指示を受けて、私は雑巾を持って廊下を拭き始めた。



 建物が広くて、廊下も長い。




「旅館の朝って、こんなに体力勝負だったんだ……。」



ポツリと言ったつもりだったが、もみじ君がいつの間にか私のそばにいた。

  


「おはようございます。コノハさん」



ぺこりとお辞儀をする、もみじ君。



「おはよう!もみじ君。旅館の朝って本当に大変だね…。時間経ってないのに、もう汗だくだよ」



もみじ君と初めて挨拶を交わしてから、少しずつ話すようになってきた。



「うん。僕も拭き掃除苦手。でも、泊まりに来るお客さんがいい気持ちになるために大事だってお父さんが言ってたよ。」



なんてしっかりした子だろう。

弱音を吐いた自分が情けなくなった。



「すごいね、もみじ君。偉いね。私も頑張らなくちゃ」



もみじ君は、嬉しそうに微笑んで、その日は旅館掃除のコツを教えてくれた。



「こっちの角、ホコリ溜まりやすいよ。あと、ふすまの下も」



もみじ君がしゃがみ込んで、ふすまの下をずっと見つめていた。



銀色の髪が朝日を受けてやわらかく光っている。


「ここ、前に拭き残して怒られたことあるから」


「そうなんだ!ありがとう。」



私は笑って、もう一度雑巾を握りしめた。

榎木さんは、照れ屋だと聞いていたけれど、もみじくんは頼りになる先輩だ。



廊下を終えて、客室の清掃へ向かうと、備品の位置やタオルの畳み方をもみじ君がさりげなく教えてくれた。



「お菓子の向きは、お客様が手に取りやすいように。あ、箸は右側ね」


「わ、なるほど……助かる!」



お昼の準備では、厨房の裏からお盆を運んできてくれた。配膳の時も私の後ろにぴったりついて、さりげなく器を直してくれる。



何度も「ありがとう」とお礼をいうと、もみじ君はそのたびに「…うん」と小さく呟く。



でも――その耳の先が、ちょっと赤くなってるのを私は見逃さなかった。



そして、彼の後ろでフワリとしたものが、一瞬揺れていたような気がした。




「ん?ホコリにしては、しっかりフワリとしてたけど――」



「え!?…き、気のせいだよ。もしかするとあっちにもまだホコリが溜まっているのかも」



何かを誤魔化すように、どこかへ行ってしまった。



そんな姿もかわいい。


 


もみじ君の優しさに助けられながら、私は無事に“午前の部”を終えることができた。


 


昼前になると、玄関の方から賑やかな声が聞こえてきた。


「こんにちは〜!」


入ってきたのは、温泉目当てのお客さんだった。



子連れの家族、年配のご夫婦、女子旅の3人組。楽しそうな声と笑い声が館内に響く。



私はそれを見て、思わずつぶやいた。




「……やっぱり、ふつうの旅館だよね」


 


榎木さんが言っていた「妖怪も泊まりますよ」なんて話――

 


あれは緊張していた私を和ませるための冗談だったんだ。現に、来るのはどこからどう見ても“人間”の客ばかり。



たしかに、この旅館はどこか不思議な空気はあるけれど。でも、妖怪なんて――そんな非現実が本当にあるわけ、ない。



私は笑いながらそうポツリと呟いた。


 

それを、少し離れた廊下の陰から見ていたもみじ君が、静かに目を伏せてそっと距離を取ったとも知らずに。


——


夕方。

仕事がすべて終わって、私は縁側に腰を下ろした。一日中動きっぱなしで、さすがに足が重い。でも、不思議と嫌じゃなかった。



ふと顔を上げると、もみじ君が廊下の向こうから、こっそりこちらを覗いていた。



「……もみじ君」



呼びかけると、彼は少し驚いたように立ち止まり、それから照れたように近づいてきた。



「今日、一日ありがとう。めちゃくちゃ助かったよ」



「……どういたしまして」



「ほんと、照れるところもあゆむに似てる。あ、私の弟なんだけどね。」



そう言って笑うと、もみじ君はちょっと困った顔をして視線をそらした。


 


――そのとき、縁側に風が吹いた。




そよそよと髪が揺れ、もみじ君の頭に何かが浮かび上がった気がした。


柔らかな白銀の、三角の影。



「……え?」


私が声を漏らすと、もみじ君ははっとしたように頭を押さえて、すぐに走り去ってしまった。



「……いまの、なに……?」


 


風鈴が、静かにチリンと揺れていた。

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