第二話「扉の向こう」
祖母の家に来て数日が過ぎたころ、私はふと、今後のことを考えるようになった。
半年後、高校を卒業したら私はどうしたいのだろう。
高校三年生。
もし進学するなら、今は大事な時期だ。
唯一の友人である遥(はるか)も、夏休み中は塾漬けだと言っていた。
「コノハ〜、せっかく高校最後の夏休みだっていうのに塾ざんまい。海行きたい…祭りに花火…。夏は青春が詰まっているのにぃ」
「遥は偉いよ。看護師になりたいって夢があって目標に向かって頑張ってるし」
クラスには、とりあえず大学に行くという選択をする人もいるみたいだけど、私にその選択肢はない。
母からは、大学行きたいなら自分でどうにかしてと言われている。
私には夢も目標もない。
「コノハは、夏休みどうするの?」
「え?あー、特に決まってないけど…夏休み中は短期バイトしようかなって」
「短期バイトとかで、イケメン男子に出会って、いい感じになって…めっちゃ青春」
「遥、妄想しすぎ。」
「家の方は、大丈夫そう?もしコノハが良ければ、ウチに来ていいから。お母さんからもOKもらってるし。私は塾でほとんど家にいないけどね!」
「ありがとう。無理になったら連絡するね。」
遥は、我が家の複雑な家庭環境を知っている。
だから、いつも気にかけてくれる私の一番の理解者だ。
「そういえば、遥におばあちゃんに行くこと言ってなかった。一応、連絡しとこ。」
通話アプリRIMEを開いて、遥にメッセージを送る。
“夏休みはおばあちゃん家に行くことになった!こっちでバイト探す”
送信して、すぐに返信がきた。
“よかった♡こっちはすでに逃げ出したい!限界迎えたら助けて”
塾の授業中かと思っていたから、すぐに返信が来るとは思ってなかった。
恐らく、先生の目を盗みながらメッセージを送っているんだと思う。
その姿が安易に想像できた。
私は、ひとまず、高校卒業後にひとり暮らしをするためにも、お金を貯めなきゃ。
――そう思って、アルバイトを探し始めた。
けれど想像以上に、ここは田舎だった。
バイト雑誌もスマホの求人サイトも、ほとんどヒットがない。
通えそうな場所でも、自転車で一時間以上かかるような距離ばかり。
「甘くみてた…どうしよう……」
困り果てていた私に、祖母がふと呟くように言った。
「山の奥に、ちょっと変わった旅館があるんよ。昔からあるけど、最近人手が足りないって言ってたね。」
「変わった……?」
「まあ、コノハちゃんが気にするほどのことじゃないよ。旅館に連絡してみようか?」
私は迷ったけど、ほかに選択肢はなかった。
それに、“ちょっと変わってる”というのが、なぜかほんの少しだけ心を引いた。
「お願いしてもいいかな」
「もちろん。さっそく電話してみようね」
祖母はすぐに電話の受話器を取り、連絡をしてくれた。
「もしもし、榎木(えのき)さん?諏訪部です。実は夏休みの間、家にコノハちゃんが住むことになってね。……そうなのよ、それでね…。」
電話越しの相手は、榎木さんというのだろう。
祖母は笑顔で、ずっと話している。
「…ええ、…ええ。そうですね。では、よろしくお願いします。」
祖母が受話器を置いて、笑顔で私の方を振り向く。
「さっそく明日からお願いできるかって」
「本当!?ありがとう、おばあちゃん」
その旅館が、私の運命を大きく変える場所になるなんて――
このときの私は、まだ知らなかった。
次の日。
朝から蝉がけたたましく鳴いていた。
その声を背に、私は祖母の家を出た。
少し古びたママチャリのカゴには、水筒と小さなタオル、それから祖母が持たせてくれたおにぎりが入っている。
「坂道が多いから、気をつけてね」
祖母はそう言って、麦わら帽子を差し出してくれた。私は「ありがとう」と受け取り、自転車にまたがった。
旅館までは、地図上ではそんなに遠くないはずだった。
でも実際にペダルを踏み進めると、思っていた以上にきつい上り坂が続いた。
舗装された道が終わると、砂利道へと変わる。
やがて周囲には民家も見当たらなくなり、代わりに木々の緑が濃くなっていった。
セミの声と、自転車のタイヤが砂利を踏む音しか聞こえない。それなのに、何かに“見られている”ような気配が、背後にまとわりついていた。
木々のすき間から、赤い鳥居が見えた。
その先は、さらに細い山道だった。
「ここ……で合ってるの?」
スマホの地図は、圏外で表示されなくなっていた。不安になりながらも、自転車を降りて、手で押して進む。
木々がアーチのように頭上を覆い、日差しが届かなくなる。
空気が、少しひんやりとしていた。夏の熱気が嘘みたいに消えていく。
道の両側には、苔むした石灯籠がぽつぽつと並んでいた。
手入れされているわけではないのに、どこか品のある佇まい。まるで、訪れる者を見守るように静かに立っている。
しばらく歩くと、目の前に古い木造の門が現れた。屋根のある門の上には、小さな木札がぶら下がっている。
――〈あやかし旅館〉。
文字は筆で書かれたような、優しくも不思議な筆致だった。
「……ここ、なんだよね?」
声に出してみると、自分の声が妙に大きく響いた気がした。
誰かに聞かれていたような気もして、慌てて辺りを見渡す。けれど、もちろん人影はない。
門をくぐると、そこには広い庭が広がっていた。敷石の先に建つ旅館は、二階建ての和風建築だった。古びてはいるけれど、どこか品があり、全体に静かな気が漂っている。
縁側には風鈴が吊るされている。
もうすぐ、8月になろうというのに涼しい風がフワッと流れ、それがチリンと揺れた。
まるで、来訪者を歓迎するように。
「失礼します……」
私はそっと木の引き戸に手をかけた。
ぎぃ、と静かに音を立てて扉が開く。
なかは思ったよりも涼しく、木の香りの匂いが漂う。
足を一歩踏み入れた瞬間、胸の奥がざわめいた。
――懐かしい。
ここに来たことなんてないはずなのに、なぜか、どこかでこの匂いを嗅いだことがあるような気がした。
「いらっしゃいませ」
奥から、やさしい低音の声が聞こえた。
その声に導かれるように、私は玄関を一歩ずつ進んだ。
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