あやかし旅館

百瀬 あぐり

第一話「私が帰りたい場所」

蝉の声が耳の奥にこびりつく。

真夏の朝の空気は重たく、玄関先に立った私の足を、まるで引き留めるようだった。


リュックを背負い、靴を履き、深く息を吐く。

この家を出るのは初めてじゃない。


でも、こんなふうに“逃げるように出る”のは、これが初めてだった。


「行ってきます」


そう声をかけたけれど、リビングから返ってきたのは、母の乾いたため息だけだった。

 

「勝手にしなさい」とでも言いたげな、背中を向けたままの母。


それでも私は、リュックの紐を握り直して、一歩前へ踏み出した。


 

物心がついたとき、私はもう祖母の家で暮らしていた。

 

母がいつ、なぜ私を置いていったのか、記憶にはない。ただ、祖母のぬくもりと、あの家の障子越しの光だけが、私の幼少期の全部だった。


祖母は口数が少ない人だけど、いつもやさしくて、ごはんの時間には「よう食べたね」と笑ってくれた。


私はその言葉が大好きだった。だから、あのままずっと祖母と一緒に暮らしていけるものだと思っていた。





――でも、それは突然終わった。


私が8歳の頃、母が見知らぬ男の人を連れて、私を迎えに来た。


「もう一緒に暮らせるから」って、笑って言った。


……知らない人と、知らない家。

私は子どもなりに抵抗した。


泣いて、泣いて「ばあちゃんがいい!」と言ったのに、母は私の腕を引っ張り、車に押し込んだ。




 

知らない家に連れ戻されてからの日々は、まるで音のない地獄だった。

 

母は新しい家族の中で、弟のあゆむを産んだ。弟が生まれてからは、私への興味はすっかり失われ、私は家の中で“空気”になった。


義父は最初から私にも、あゆむにも関心を持たなかった。

 

でも、私が成長するにつれ、その視線に“何か違うもの”が混じり始めた。目が合うと、背中に冷たいものが這う感覚。夜には、誰かの気配に目を覚ますようになった。




ドアには鍵をかけた。

けれど、それだけで安心できるような環境じゃなかった。


 


そんなある日、私はふと立ち止まった。

このまま、この家で、何年も息を潜めて生きていくのだろうか。


あと半年で卒業。いずれは一人暮らしするつもりだったけど、もう限界だった。


 

この場所から、逃げ出したい。



そう思って、夏休みに入った初日、私は祖母の家へ行く決意をした。



実は、祖母の家にいくのはあの日以来だ。


電話することさえ、母は許してくれなかった。

不思議なもので、子どもの頃に何度も復唱していたからか、電話番号は覚えていた。


何度か電話をかけようとしたが、母にバレて怒鳴られて以来、挑戦はしていない。


10年ぶりだ。

祖母は、元気にしてるだろうか。

電話番号は変わっていないだろうか。




――祖母に冷たい態度をとられないだろうか。


ふと、スマホで電話番号を押す指が止まる。


10年ぶりの電話が、家に住まわせてくれなんて図々しすぎない?





「いや、おばあちゃんがそんなこと思うはずない。…でも」



頭の中で、電話をかけるか否か、葛藤が起こる。



「あー!もう、考えたって仕方ない!とりあえず電話かけて、ダメだったらその時はその時に考えよう」



半分ヤケになって、祖母の電話番号をスマホに打つ。





――プルプルプル…



コール音が鳴るということは、電話番号は変わってない。



…。



コール音が長く感じる。

心臓の鼓動が大きくなっていくのが分かった。





「はい、諏訪部(すわべ)です。」



ドキッとした。

一瞬、頭の中が真っ白になる。



だけど諏訪部は、母の旧姓だ。

それに、この優しい声は祖母に間違いない。




「もしもし?どなた?」


「あ、あの、私…コノハです。わかりますか?」



数秒間の沈黙。

気まずい。

やっぱり、かけなきゃよかったと後悔する。





「本当に、コノハちゃん?」



電話越しで、声が震えているのがわかった。



「はい、コノハです。おばあちゃんですか?」



「ああ、コノハちゃんから電話があるなんて。本当に久しぶりだね。どうしたの?」



私は、夏休みの間、住まわせてくれないかお願いした。


理由は、言ってない。


だけど、祖母は何も言わずに快諾してくれた。


「いつでも帰っておいで」と。


私は、2日後に祖母の家に行くと伝え、準備をした。



 

「お姉ちゃん、ほんとに行っちゃうの?」


2日後、玄関まで見送りに来たのは、あゆむだけだった。小さな手で私の袖をつかみ、今にも泣きそうな目で見上げてくる。



あゆむは八歳。お姉ちゃんっ子で、どこへ行くにもついて来たがる。


 

私の部屋で絵を描いたり、一緒にテレビを見たり、私が唯一“存在できた”時間だった。



……だからこそ、胸が痛んだ。




「ちょっとだけだよ。夏休みが終わるころには、戻ってくるよ」




本当は戻る気なんてない。

夏休みが終わっても、祖母の家から学校に通えるように説得するつもりだったからだ。




でも、この子にそんなこと、言えるわけがない。



「夏休みの宿題、ちゃんとやるんだよ。ママを困らせないこと」




私は、あゆむの頭をやさしく撫でた。

あゆむは涙をこらえながら、精一杯の笑顔で「いってらっしゃい」と手を振ってくれた。






電車に揺られ、田舎の駅に降り立ったとき、私はようやく深く息を吸えた気がした。


山の香りと草の匂いが懐かしく、心の奥にあった何かがふとほどけていく。


 


祖母の家は、昔と変わらずそこにあった。

軒先に吊るされた風鈴がちりんと鳴り、白い暖簾が風に揺れている。


「こんにちは。」


緊張しながら玄関を開けると、祖母がゆっくりと出てきて、「おかえり、コノハちゃん」と言ってくれた。



10年ぶりに会った祖母は、あまり変わっていなかった。だだ、髪の毛全体が白髪になって、少し小さく見えた。



「どうぞ、上がって」



家の中も昔と変わっていなかった。

家具の位置も、木と線香が混じった部屋の匂いも。






なんだか10年前に戻った気がして、嬉しかった。



「コノハちゃんの部屋は、2階ね。荷物を置いたら、ご飯にしようね」



「うん!」



部屋に荷物を置いて、1階へ降りると、テーブルの上に食事が並べられていた。


…絶対に2人では食べられない。



「コノハちゃんがくるから、張り切って作っちゃったね。」



やわらかい声と笑顔で祖母がいう。

その言葉で、泣きそうになる。




「ありがとう!おばあちゃんの料理久しぶりだな〜。いただきます!」



泣きそうな感情を誤魔化すように、座布団の上に膝をのせて、手を合わせた後、一口パクリと肉じゃがを食べる。




――懐かしい味。




ああ、私、帰ってきたんだ。

やっとこの場所に。



その瞬間、あ、ダメだと思った。

ポロポロと涙が溢れてとまらなくなっていたからだ。





「うぐ…美味しいよ…。美味しいよぉ、おばあちゃんの料理。」




感情がぐちゃぐちゃだ。

自分自身も今、どんな感情なのか理解できてない。





久しぶりの再会で、泣くのは我慢しようと思っていたのに。



泣くなと思うのに。

タガが外れて、頭の中の命令に反するように涙がどんどん溢れてきた。



祖母は、なにも言わず、私の隣にきて頭を撫でてくれた。



—ただいま、おばあちゃん。

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