第16話:信念
――また、夢を見ていた。
色とりどりの花が咲き誇る、美しい庭園を歩いている。
私の小さな手のひらには、摘んだばかりの白い花。そのか細い茎を、壊さないように、そっと握りしめる。
背後からは、規則正しい足音が聞こえてくる。私の護衛の騎士だ。
私は、振り返ることなく、その騎士に話しかけた。声には、何の感情も乗らない。
「私は、草花が好きです。血の匂いがする戦場より、ずっと気分がいい」
騎士は、何も答えない。ただ、静かに私の後ろを歩き続けている。
それが、彼の答えだと知っていた。
私は、ゆっくりと振り返った。
そこに立っていたのは、屈強な鎧に身を包んだ、中年の騎士。厳しい顔つきの中に、深い優しさを湛えた、その瞳。
その顔には、どこか見覚えがあった。アルフレッドに、よく似ていた。
彼が、何かを言おうと口を開いた、その瞬間――。
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「――はっ!」
俺は、自分の息遣いで目を覚ました。
心臓が、早鐘のように鳴っている。額には、じっとりと汗が滲んでいた。
ヴァルツ家の客間の天井が、ぼんやりとした視界に映る。
「……また、妙な夢を……」
あの男の夢以来だ。こんなにも鮮明で、意味の分からない夢を見るのは。
知らないはずの庭園。知らないはずの少女。そして、アルフレッドによく似た、あの騎士。
夢の中の「私」は、まるで自分自身であるかのように、その思考や感情が流れ込んでくる。
だが、あの感情のない声は、本当に俺自身のものなのだろうか。
俺は、重い頭を振り、ベッドから起き上がった。
考えたところで、答えは出ない。今は、この世界で生きていくことだけを考えなければ。
その日の昼過ぎ、俺はゲオルグに屋敷の中を案内されていた。
「君の部屋は、当面はあの客間を使ってくれ。食事は食堂で、我々と時間を共にしてもらう。それ以外の時間は、好きに過ごしてくれて構わない。書斎への立ち入りも許可しよう。父が残した書物も多い。何か、君の助けになるものもあるかもしれん」
ゲオルグは、淡々とした口調でそう告げた。その態度は、昨日と少しも変わらない。俺という存在を、父の遺言に従って保護するが、それ以上の個人的な感情は挟まない。そんな、明確な線引きを感じさせた。
俺たちは、屋敷の裏手にある中庭へと出ていた。
そこは、石畳が敷き詰められた、広大な訓練場だった。壁際には、いくつもの訓練用の木人や、年代物の武具が並べられている。ここで、ヴァルツ家の人間は代々、己を磨き上げてきたのだろう。
俺がその光景を眺めていると、ゲオルグがふと、何かを思い出したように口を開いた。
「……そういえば、そろそろ娘が戻ってくる頃合いか」
その言葉とほぼ同時に、中庭の向こう側の扉が開き、一人の少女が姿を現した。
歳は、俺より少し下だろうか。
夕陽のような、鮮やかな赤毛をポニーテールに揺らし、その額には玉の汗が光っている。体にぴったりと合った軽鎧は、訓練の激しさを物語るように、ところどころに土埃が付着していた。
何より印象的だったのは、その瞳だ。
強い意志と、わずかな苛立ちを宿した、真っ直ぐな瞳。彼女は、俺とゲオルグの姿を認めると、わずかに眉をひそめ、こちらへと歩いてきた。
「ただいま戻りました、父上」
少女の声は、鈴が鳴るように澄んでいるが、どこか張り詰めた響きがあった。
「ああ、お帰り、セレア。訓練ご苦労だったな」
セレア。ゲオルグの娘。
つまり、彼女が、師アルフレッドの孫娘。
「リヒト君、紹介しよう。私の娘のセレアだ。騎士見習いとして、アルトハイム都市騎士団に所属している」
セレアは、俺の全身を、値踏みするかのように下から上へとじろりと見上げた。その視線には、あからさまな警戒と、隠しきれない敵意が宿っている。
「……父上。この方が、おじい様の……?」
「そうだ。彼の名はリヒト。父の最後の弟子だそうだ」
ゲオルグが俺を紹介すると、セレアはわずかに顔をしかめた。
「おじい様の、弟子……」
彼女は、俺からゲオルグへと視線を移し、問い詰めるような口調で言った。
「父上から、お話は伺いました。おじい様が、亡くなったと。……そして、あなたが、その最期を看取った、と」
「ああ、そうだ」
「……そうですか」
セレアは、唇を噛み締めた。その声は、悲しみを無理やり押し殺しているように聞こえた。
「おじい様は、聖騎士団長でした。弱い者を守るためなら、自らの命を懸けることも厭わない方です。その最期は、騎士として、誇り高いものだったのでしょう」
彼女の言葉は、俺の胸に鋭く突き刺さった。
森に魔物が集まり始めたのは、俺のマナが原因だった。そして、あの厄災級の魔猿を呼び寄せてしまったのも、アルフレッドの言葉に従ったとはいえ、俺がこの身の力を解放したせいだ。
アルフレッドは、俺が呼び寄せた魔物との連戦で体力を削られ、万全ではない状態で強敵と対峙することになった。俺の存在そのものが、彼を死に追いやったも同然だった。
俺が唇を噛み締めていると、セレアは再び、俺にその鋭い視線を向けた。その瞳は、悲しみで潤んでいるように見えた。
「……おじい様が命を懸けてまで守ったあなたが、一体どのような方なのか。そして、何を託されたのか……私には、まだ、理解できません」
その問いに、俺は答えることができなかった。 アルフレッドが俺に託した「自由」という言葉。その意味を、俺自身がまだ、何一つ理解できていないのだから。
俺の沈黙を、セレアはどう受け取ったのか。彼女は失望したようにため息をつくと、ゲオルグに向き直った。
「父上、お願いがあります」
「なんだ」
「このリヒトという方と、手合わせをさせてください。おじい様が最後に認めた男が、どれほどのものか。この目で、確かめさせていただきたいのです」
その申し出は、あまりにも唐突だった。
だが、ゲオルグは、それを止めることはなかった。彼はただ、静かに俺を見た。
「……リヒト君、君は、どうする?」
断ることも、できたのかもしれない。
だが、俺は、彼女の挑戦から逃げたくはなかった。彼女の瞳に宿る、祖父への強い想いを、無下にはできなかった。
「……分かりました。お受けします」
俺の返事に、セレアの瞳が、わずかに鋭さを増した。
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俺たちは、訓練場の中央で、木剣を手に相対していた。
ゲオルグが、審判役として少し離れた場所から俺たちを見守っている。
「ルールは一本勝負。降参するか、戦闘不能になるまでだ。いいな?」
セレアの確認に、俺は無言で頷いた。
彼女は、軽鎧を脱ぎ、動きやすい訓練着姿になっている。その構えには、一切の隙がない。騎士見習いとはいえ、相当な手練れであることは、一目で分かった。
「では、始め!」
ゲオルグの合図と共に、先に動いたのはセレアだった。 地面を蹴り、鋭い踏み込みで一気に間合いを詰めてくる。その剣筋は速く、鋭い。アルフレッドの、荒々しくも理に適った剣とは違う、型に忠実な、洗練された剣技。
俺は、その一撃を、冷静に受け流した。
バキッ、と木剣同士がぶつかる、鈍く乾いた音。
腕に伝わる衝撃は、見た目以上に重い。
「……へえ」
セレアが、意外そうな声を漏らす。
彼女の攻撃は終わらない。そこから激しい打ち合いを繰り広げた。 木剣がぶつかるたびに、乾いた打撃音が響き、ささくれだった木屑が舞う。セレアの剣は、アルフレッドのそれとは全く異質だった。アルフレッドの剣が、恵まれた体格から繰り出される、岩をも砕く一撃の重さを信条とするならば、彼女の剣は、速さと技の鋭さこそが真髄。
まるで瞬く光のように繰り出される連撃は、師の一撃ほど重くはない。だが、速い。速すぎる。アルフレッドとの訓練は、常に一撃を見切ることに特化していた。この目まぐるしい速度の応酬に、俺はついていくので精一杯だった。
(……強い)
俺は、内心で舌を巻いた。 彼女の剣技は、俺が今まで戦った誰よりも洗練され、どんな魔物よりも早い。純粋な剣の技量で言えば、師匠すら超えているかもしれない。防戦一方に追い込まれ、俺の額からは冷や汗が流れた。
「くっ……!」
だが、何度も打ち合ううちに、俺は好機を見出した。彼女の剣は速いが、一撃の重さでは俺に分がある。俺はセレアの連撃の合間、ほんの一瞬の隙を突き、渾身の力で木剣を振り抜いた。俺の一撃を、セレアは辛うじて受け止めるが、その体勢は大きく崩れていた。
好機。俺は、追撃のために一歩踏み込んだ。
その瞬間だった。
「――甘い!」
セレアが、短く呟く。
「――風よ!」
彼女の足元から、突風が巻き起こった。
「なっ!?」
不意を突かれた俺は、その風に煽られ、動きを止めてしまう。
魔術か! しまった、彼女は剣士であると同時に、魔術師でもあったのか。
セレアは、その一瞬の隙を見逃さなかった。
体勢を立て直した彼女の木剣が、がら空きになった俺の胴に、クリーンヒットした。
「ぐっ……!」
凄まじい衝撃に、俺は数歩後ずさる。
だが、セレアの攻撃は、まだ終わらない。
「閃光(フラッシュ)!」
彼女が魔術名を唱えると、その指先から、目も眩むような光が放たれた。
俺は咄嗟に腕で顔を庇うが、視界が真っ白に染まる。
まずい。完全に、動きを読まれている。
剣と魔術の連携。こんな戦い方は、初めてだった。
視界が戻った時には、すでにセレアの木剣が、俺の喉元に突きつけられていた。
「……そこまで」
ゲオルグの、静かな声が響いた。
俺は、喉元に突きつけられた木剣を見つめ、呆然と立ち尽くす。
完敗だった。
セレアは、俺から木剣を離すと、失望したように、ふっと息を吐いた。
「……期待、外れですね」
その声は、冷たく、突き放すようだった。
「剣の腕は、確かでしょう。身体能力も、並外れている。ですが、それだけです」
彼女は、俺の目を見て、はっきりと言った。
「私のおじい様、アルフレッド・ヴァルツは、確かに偉大な騎士でした。ですが、彼の真の強さは、腕力や剣技ではありません。戦況を読み、組織を動かし、戦略を立てる、その頭脳こそが、彼の武器だった。騎士団長という立場は、個人の武勇だけでは務まらないのです」
セレアの瞳には、祖父への絶対的な尊敬と、そして、俺への明確な失望の色が浮かんでいた。
「そして何よりも、その立場にふさわしい志があった。信念を持つ者の剣には、それが宿ります。おじい様の最後の弟子というから、どれほどの傑物かと思えば……。あなたは、ただ強いだけ。剣筋に何も乗っていなかった。それだけでは、おじい様が認めた男とは、到底思えません」
彼女はそれだけ言うと、俺に背を向け、屋敷の中へと戻っていった。
訓練場には、俺とゲオルグ、そして気まずい沈黙だけが残された。
俺は、自分の無力さに、ただ唇を噛み締めることしかできなかった。
力を隠していた、という言い訳は、通用しない。俺は、剣と魔術を組み合わせた、彼女の戦術の前に、完全に敗北したのだ。
そして彼女の言葉の意味を俺はわかっていた。
流されるままでは、俺の生きる意味はないのだ。アルフレッドの想いを受け止めたことにはならない。
この日、初めてその事実を、骨身に染みて理解したのだった。
蒼翼のメシア~森で遭難した無気力大学生、元最強騎士団長に拾われる~ アカミー @asa82551
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