第10話

突如、クレバスの底から異様な咆哮が響いた。

地面が激しく揺れ、その裂け目から――常軌を逸した、超巨大な悪魔が姿を現す。


その異形の巨体は、嵐の空さえも覆い隠し、まるで世界そのものを呑み込まんとするかのようだった。


レイ・フロストは、息を呑んだ。


ほんの一瞬。それだけだ。

何年もの間、どんな敵にも動じなかった彼女の理性が、音を立ててひび割れる。


指先から霜が渦を巻きながら、空間に複雑な印章を描く。



「イズマ! 今すぐ左翼を攻撃しろ!!」


彼女の声が咆哮と重なる。

すでに氷の槍は形成され、怪物の第三の目へと突き刺さっていた。

その呪文はいつもより熱を帯び、首元のペンダントが輝く。


彼女はイズマを一瞥することさえできなかった。

命令に従っているのか、恐怖に凍りついているのか、確かめる余裕などない。


ただ、無意識に――彼の位置を隠すため、バリアの呪文が編まれていた。


 


次の瞬間、空が裂けた。


イズマが跳躍し、剣を振るう。

その一閃で、空間が黒く歪み、そこから放たれた閃光のような斬撃が、悪魔の左翼を正確に貫いた。


レイの目が見開かれる。


完璧な計算では到底導き出せなかった異変。

世界が音もなく砕け散っていくような錯覚。


指先に組み上げていた第二の呪文が霧散し、呼吸さえ奪われる。

悪魔の絶叫が氷原に響くが、耳に届くのは自らの脈動と、血の轟音だけだった。


唇がわずかに開く。

だが、傲慢な反論は形になる前に霧消した。


あの技――

王室の記録保管所にすら存在しない、理論上の禁術。



「……え、あなた……」


空間に残るかすかな歪みに目を奪われながら、声が震える。

冷徹な仮面が、初めて綻びを見せた。


「ずっと……隠してたの?」


雪崩のように、現実が崩れ落ちる。

彼を無価値だと思っていた。

だが――真に「力」を理解していたのは、彼だった。



「まだ生きてるぞ!」



イズマの声に、彼女はようやく現実へと引き戻された。

悪魔の咆哮が吹き荒れ、彼女の指先は本能的に新たな氷の印章を形作る。


しかし、今度の動きは――違った。


より鋭く、より正確。

エメラルドの瞳には、見たことのない輝きが宿る。


「ちっ……一撃でいい気になるんじゃないわよ!」


皮肉めいた声には、いつもの毒気がなかった。

代わりに、ほのかに熱を帯びた何かが滲んでいた――興奮に近いもの。


渦巻く霜が、彼女の呪文と共鳴し、悪魔の手足を結晶の槍で貫く。

完璧なタイミング。

まるで、敵の動きを予知していたかのように。


その瞬間、レイは確信する。


これはただの戦闘ではない。

彼と共にあるこの一瞬は――未知と可能性の狭間で踊る、純粋な“魔法”だ。


「さあ……仕留めなさい、このばかもの!」



 

 


イズマが宙を駆けると、八本の剣が空中に現れる。


剣たちは旋回し、各々が悪魔の身体を次々に貫いた。

最後に中央へと集約し、一閃――


封印結界が発動した。


八枚の刃が幾何学的な形を描き、空気を震わせるほどの魔力を叩きつける。

その光景は、時がゆっくりと進み始めるかのような錯覚をもたらした。


レイは言葉を失う。


これはただの高等魔術ではない。



結界の障壁が光を纏い、彼女は両手を力なく垂れ下げた。

指先に集めた霜は、音もなく消えていく。


盲目だった。

彼女は、自分がどれほど何も見ていなかったかを、ようやく知る。


彼女が「エリート魔術」と誇っていたものは、

彼にとって――ただ“封じていた力”でしかなかったのだ。


「……あなた……」


声はかろうじて囁き以上のものになった。


傲慢でも拒絶でもない。

それは、未知に触れた魔術師に、芽生え始めた“飢え”。


「話さなければならない。今すぐ」

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