浄土へ行く舟

もち

補陀落は何処へ


 沖に、黒い舟が浮かんでいる。

 竹と白布で編んだ、死出の舟。

 補陀落渡海——海の彼方の浄土を目指す旅路。だが、それを真に信じている者など、ここにはいなかった。


「ありがたいこったな、極楽へ行けるんだ。村のためにも、あの連中のためにもよ」

 そう言って、村の者たちは笑った。舟に乗せられるのは、年寄りや病人、役に立たなくなった者たちばかりだ。

 その陰で男たちは酒を酌み交わし、

「補陀落なんてありゃしねえ。あの舟は、どうせ嵐に呑まれて終わりさ。でもよ、そのおかげで俺らが飢えずに済むんだ」

と、ひそひそ言い合っていた。


 浜辺には、老人たちが列をなしていた。先頭に立つのは、この村唯一の寺の齢六〇になる老僧。痩せた指に数珠を絡め、沈んだ目をしている。その身に纏うのは、いつもの擦り切れた袈裟ではない。陽に淡く光る絹の五条袈裟、白と薄墨の法衣は波のように揺れ、手には磨き抜かれた錫杖があった。歩みを進めるたび、シャランシャランと小さな鈴の音が鳴った。この村の僧は六〇になると、老人や病人を連れ、観音菩薩の住む補陀落浄土へ向かうのが習わしだった。

 ――シャラン……シャラン……。澄んでいて、冷たくて、それでいてどこか、底知れぬものを孕んだ音。煩悩を払うと信じられているあの音。

 老僧に続き、村の老人たちが合掌し念仏を唱えながら並ぶ。彼らの顔には諦めと覚悟が滲んでいて、生気が失われていた。

――ただ、一人だけ様子の違う老婆がいた。白い髪に、深い皺の刻まれた顔。だが、その目元はやわらかく、口元には微かな微笑みが浮かんでいた。

 浜辺に立つ少年・湊は、その姿を見つめた。老婆は、毎朝、浜を掃き、病人たちに薬草を分け、貧しい家には黙って米を置いていった。村人たちはそんなこと知りもせず、「厄介者が一人減る」と口の端で笑っている。


 湊の目に、老婆の微笑みが刻まれた。その微笑みは、浜の小さな祠に刻まれた観音菩薩と、どこか同じに見えた。


 舟が沖へ出る。やがて、波間にその姿は消えていった。

夜には嵐が来た。舟の行方など、誰も気に留めなかった。

 翌朝、湊が浜を歩くと、潮溜まりの傍に、小さな包みが落ちていた。中には、干した魚と、薬草が入っていた。

 湊は包みを胸に抱き、空を見上げた。雲の切れ間から、やわらかな光が射していた。それが海の彼方から来たものか、浜辺の祠から来たものか、湊には分からなかった。

 ただ、観音菩薩は、きっと遠い補陀落の彼方ではなく、ここにいたのだ。そんな気がした。



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