透明なままで、生きる

ヒマワリ

静かに、崩れていく


呼吸をやめたかった。


あの日の私は、ただその一念に縋るようにして、静かに座っていた。

けれどそれは、死を望んでいたということではない。

ただ、生きているという事実そのものが、皮膚の裏にまで染み込み、どうしようもなく重たく感じられていた。


空気が肺を出入りするたび、胸がわずかに持ち上がるたびに、「私」という境界線が拡張されていく感覚があった。

それが、どうしようもなく不快だった。

誰かが「私のふり」をして呼吸していて、本物の私はもっと奥深い場所で、音もなく沈んでいる。

ずっと、そんな感じがしていた。


壁に映った影には、もうずっと前から親しみを感じなかった。

声も、皮膚の熱も、意志の重さすらも、私という輪郭からじわじわと溶け出して、どこかへ霧散していった。

決断のたびに、自分が遠のいていくのがわかった。

気がつけば、そこに残っていたのは名前だけだった。中身のない容れ物が、日常というレールの上で、ただ機械的に酸素を出し入れしていた。


「若いんだから、いくらでもやり直せるよ」

そう言われるたびに、どこか冷えた場所でひっそりと笑っていた。

やり直すには、まず“自分”をもう一度信じる必要がある。

だが私は、もうその“自分”という存在に、深く深く絶望していた。

歩き出す足も、紡がれる言葉も、頬を伝う涙さえも、自分の所有物ではない気がしていた。


誰かにわかってほしいとは思っていなかった。

ただ、同じ深度で沈んでくれる誰かがいれば、それでよかった。

「正気」とは何か。「適応」とは何か。

いつからか、その問いの響きは、手の届かない岸辺のように遠ざかっていた。

私は、どんな価値観にも、どんな言語体系にも、最後までなじむことができなかった。


生きていたいという理由を一つずつ剥がしていった先に、残ったのは、真っ白な「無」だった。

飾りも響きも持たない、ひややかで、音のない空間。

そこには、他者の声も、温度も届かなかった。

私は、ただじっとしていた。動けなかったのではない。動く理由が、もうどこにもなかったのだ。


世界はそのまま流れていった。景色は変わらず、人々は日常の速度で歩いていった。

その流れの外で、私はひとり、地図の外に取り残された存在だった。


音はなかった。

それは恐怖というより、どこか救いに近いものだった。

誰にも見つけられず、誰からも期待されないということが、あまりにもやさしくて、そして、どこか痛かった。


「お疲れさま」

そんな声が、耳の奥にかすかに届いた気がした。

幻聴でも妄想でもいい。私には、それで十分だった。


意味がなければ生きてはいけない、という前提を、いったい誰が決めたのだろう。

私は今日も、呼吸をしている。

それだけで、ふと「これでいいかもしれない」と思える瞬間が、ときどき訪れるようになった。


そんな瞬間を、私は「光」と呼ぶことにしている。

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透明なままで、生きる ヒマワリ @himawaritoao

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