第2話
月曜日。週の始まりは、いつも憂鬱の底から始まる。
満員電車の軋む音、無遠慮に流れ込んでくる他人の生活音、そしてオフィスに充満する澱んだ空気。すべてが僕の神経を逆撫でし、水曜日にチャージしたはずの温もりを、容赦なく削り取っていく。
「斎藤くん、この間のモジュールの件だけど、またクライアントから仕様変更の連絡があった。今日中に対応してくれないか」
上司の平坦な声が、僕の意識を灰色の現実へと引き戻す。ディスプレイに表示されたメールには、赤い文字で「最優先」「至急」の単語が踊っていた。先週、僕が三日三晩かけて組み上げたプログラムが、またしても意味のないものになる。怒り? いや、もうそんな感情は湧いてこない。ただ、心がゆっくりと冷えていくのを感じるだけだ。
「……承知しました」
短く返事をし、僕はキーボードに向き直る。指先が、カタカタと乾いた音を立て始めた。それは僕自身の心が、少しずつ摩耗していく音のようにも聞こえた。
あのプロジェクトで失敗してから、僕は会社の中で「扱いやすい駒」になった。上司に意見をすれば「言い訳か」と一蹴され、同僚は腫れ物に触るように僕を避ける。誰も僕の意見を求めないし、僕も誰かに何かを期待することをやめた。そうやって、僕は自分の周りに見えない壁を築き、その中で息を潜めるようにして働いている。
昼休み、僕は社員食堂には行かず、自分のデスクでコンビニのサンドイッチを頬張る。味はしない。ただ、エネルギーを補給するための作業だ。ふと、窓の外を見ると、コンクリートのビル群が空を狭く切り取っていた。あの動物園の、広々とした空とはまるで違う。
(ゆずさん、今頃なにしてるかな……)
きっと、日当たりの良い場所で、のんびりと昼寝でもしているのだろう。そう思うと、ほんの少しだけ、胸のあたりが温かくなる気がした。
そして、待ちに待った水曜日がやってきた。
僕は先週と同じように電車とバスを乗り継ぎ、あの場所へと向かう。バスを降りると、潮風と草の匂いが混じった、懐かしい空気が僕を迎えてくれた。僕は逸る気持ちを抑えながら、動物園のゲートをくぐる。
先週、気になった貼り紙。それは、ゲートのすぐ内側の掲示板に、画鋲で無造isyに留められていた。僕は足を止め、その紙に書かれた文字を、恐る恐る目で追った。
『大切なお知らせ』
その下に続く文章は、僕が心のどこかで予期していた、最悪の言葉だった。
『長らくご愛顧いただきました当園ですが、諸般の事情により、来月末をもちまして閉園させていただくこととなりました。』
頭を鈍器で殴られたような衝撃だった。視界がぐにゃりと歪み、足元が崩れていくような感覚に襲われる。閉園。その二文字が、僕の脳内で何度も何度も反響する。
来月末。つまり、僕がゆずさんに会えるのは、あと数回しかないということだ。
僕は、その場に立ち尽くした。周りの風景が、急に色を失っていく。せっかく手に入れた、僕だけの「色のある時間」が、また灰色に塗りつぶされようとしている。
どれくらいそうしていただろうか。僕は、ふらつく足で、ゆずさんのいる場所へと向かった。一歩一歩が、鉛のように重い。
ゆずさんは、いつものように藁の上で寝ていた。僕が近づくと、ゆっくりと顔を上げる。そのつぶらな瞳が、僕をじっと見つめている。
「……ゆずさん」
声が、震えた。
「なくなっちゃうんだって。ここ、閉園するんだって」
僕は柵の前にへたり込み、言葉を続ける。
「僕のせいだ。僕が、もっと……もっとちゃんとできていれば、こんなことにはならなかったのに」
口から出たのは、会社での失敗のことだった。あのプロジェクト。僕がリーダーを任された、初めての大きな仕事。僕は必死だった。チームをまとめ、良いものを作ろうと、寝る間も惜しんで働いた。けれど、結果は惨憺たるものだった。クライアントの要求に応えきれず、プロジェクトは納期を大幅に遅延し、会社に大きな損害を与えた。
「僕が、全部悪いんだ。僕に能力がなかったから。だから、みんなに迷惑をかけて……僕は、大事なものを、いつも守れないんだ……」
上司に責任をすべて押し付けられ、僕はただ頭を下げることしかできなかった。あの時からだ。僕の世界から、色が消え始めたのは。
ゆずさんは、黙って僕の話を聞いていた。僕は、柵に額を押し付ける。冷たい鉄の感触。涙が、頬を伝った。感情のスイッチをオフにしていたはずなのに、堰を切ったように、涙が溢れて止まらなかった。
その時、僕の頬に、ふわりと柔らかいものが触れた。
見ると、ゆずさんが柵の隙間から顔を出し、僕の頬に鼻先を寄せていた。そして、ぺろり、と僕の涙を舐めた。その舌は、ざらりとしていて、温かかった。
「……ゆずさん」
彼はもう一度、僕の頬を舐めると、今度は僕の手に、そっと自分の頭を乗せてきた。まるで、「お前のせいじゃない」とでも言うように。そのずっしりとした重みと、変わらない温もりが、僕のささくれだった心を、優しく包み込んでくれるようだった。
「園長」
背後から、静かな声がした。振り返ると、鈴木さんが立っていた。その表情は、悲しそうでもあり、どこか申し訳なさそうでもあった。
「貼り紙、見ましたか」
「ああ……すまないね、お兄さん。がっかりさせちまって」
「いえ……どうして、なんですか」
「まあ、色々だよ。客は来ないし、建物の修繕費も馬鹿にならない。動物たちの餌代だって、年々上がっていく一方だ。もう、わしの年金だけじゃ、どうにもならんくてね」
鈴木さんは、寂しそうに笑った。
「わしが好きで始めたことなんだが……好きだけじゃ、どうにもならんこともあるんだな」
その言葉が、僕の胸に重く突き刺さる。好き、だけじゃどうにもならない。それは、僕が仕事で嫌というほど味わってきた現実だった。
「ゆずさんたちは……どうなるんですか?」
「ああ、引き取り手は、なんとか探しているところだよ。ゆずも、どこか大きな動物園が引き取ってくれるといいんだが……」
鈴木さんの言葉は、慰めにはならなかった。たとえゆずさんがどこかで元気に暮らせたとしても、僕がこうして彼に会える時間は、もう二度と戻ってこないのだ。
僕は、何も言えなかった。ただ、ゆずさんの頭を撫で続ける。その温もりを感じられる時間が、刻一刻と失われていく。その事実が、まるで分厚い雲のように、僕の心に重くのしかかっていた。
帰り道、僕はバスに乗らず、あてもなく歩いた。閉園。その事実が、僕から考える力を奪っていた。僕にとって、この場所はただの動物園ではなかった。灰色の日常を生き抜くための、唯一の避難場所だった。心の拠り所だった。それを失ったら、僕はまた、あの完全に色のない世界に逆戻りしてしまうのだろうか。
何か、僕にできることはないのか。
でも、何ができる? 金もない。人脈もない。会社で失敗して、自信も誇りも失った僕に、一体何ができるというんだ。
無力感が、全身を支配する。公園のベンチに座り込み、空を見上げる。いつの間にか、空は茜色に染まっていた。その美しい夕焼けさえも、今の僕には、ただ悲しい色にしか見えなかった。
手のひらに、一枚の枯れ葉が落ちてきた。僕はそれを、ただぼんやりと見つめる。こんなにも軽い一枚の葉でさえ、今の僕には、とてつもなく重く感じられた。
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