社畜SE、週イチ癒しのカピバラ通いで閉園寸前の動物園を救う
☆ほしい
第1話
僕の世界は、灰色をしている。
朝、目覚まし時計の無機質な電子音で意識が浮上する。カーテンの隙間から差し込む光も、なんだか色褪せて見える。トーストを一枚、味も素っ気もなく胃に流し込み、インスタントコーヒーの苦味で無理やり覚醒を促す。通勤電車は、同じような表情をなくした人々を詰め込んだ鉄の箱だ。誰もがスマートフォンの画面に視線を落とし、現実から逃避している。僕もその一人だった。
会社に着けば、ディスプレイに映し出される無数の文字列との格闘が始まる。システムエンジニア。聞こえはいいが、やっていることは終わりのないデバッグ作業と、クライアントからの理不尽な要求への対応だ。かつては、自分の手で新しい何かを創り出すことに、ささやかな誇りを感じていた時期もあった。だが、今はもう、何も感じない。ただ、キーボードを叩く指の動きと、モニターの明滅が、僕の生きている証だった。
感情のスイッチをオフにする。それが、この灰色の世界で心をすり減らさずに生きるための、僕なりの処世術だった。喜びも、怒りも、悲しみも、感じなければ傷つくこともない。食事は空腹を満たすための作業で、睡眠は体をリセットするためのタスク。そんな日々を繰り返しているうちに、僕は自分がどんな顔で笑うのかさえ、忘れかけていた。
そんな僕に、たった一つだけ、色のある時間が許されている。
週に一度、水曜日の定休日。僕が向かうのは、流行りのカフェでも、話題の映画館でもない。電車を二つ乗り継ぎ、バスに揺られてたどり着く、町の外れにある古びた「ふれあいミニ動物園」。入場料は五百円。券売機は壊れかけで、お釣りが出てこないこともしばしばだ。園内には、数羽のヤギと、数匹のウサギ、そして一頭のカピバラがいるだけ。平日の昼間に訪れる客など、僕の他にはほとんどいない。
その動物園の、一番奥まった一角。そこが僕の「聖域」だった。
古びた木の柵で囲われた、決して広くはないその場所で、彼はいつも僕を待っている。
「ゆずさん、こんにちは」
柵のそばのベンチに腰を下ろし、そっと声をかける。
藁のベッドの上で微動だにしなかった大きな茶色い塊が、ゆっくりと顔を上げる。小さな耳、つぶらな瞳、そしてどこか悟りを開いたような、穏やかな表情。カピバラの「ゆずさん」だ。彼は僕の声に反応すると、のっそり、のっそりと重たい体を揺らしながら、僕の方へ近づいてくる。その歩みは、急ぐことを知らない哲学者のようだ。
柵のすぐそばまで来ると、ゆずさんはぴたりと動きを止め、僕をじっと見つめる。僕は自動販売機で買った、ぬるい缶コーヒーを一口飲む。
「今週も、疲れましたよ。本当に」
誰に聞かせるでもない、独り言。会社であったこと、うんざりするような会議のこと、解決しないバグのこと。僕は、脈絡もなく、ただ思ったことを口にする。ゆずさんは、相変わらず黙って僕を見ているだけだ。時折、ふい、と鼻を鳴らしたり、乾いた草を食んだりする。
でも、不思議だった。この沈黙は、苦痛ではなかった。むしろ、心地よかった。彼の前では、言葉を選ぶ必要も、体裁を繕う必要もなかった。灰色の世界で僕が身につけた、感情を押し殺すための鎧。それが、ゆずさんの前では、音もなく剥がれ落ちていくような気がした。
僕はベンチから立ち上がり、柵に近づく。そっと手を伸ばすと、ゆずさんは嫌がる素振りも見せず、僕の手に鼻先をすり寄せてきた。硬くて短い毛の感触。そして、ひだまりのような、確かな温もり。その温かさが、指先から腕を伝い、凍りついた心の芯まで、じんわりと染み渡っていく。
「……あったかいですね、ゆずさん」
思わず、声が漏れた。それは、自分でも驚くほど、穏やかな声だった。
ゆずさんは、僕の手のひらに頭を預けたまま、気持ちよさそうに目を細める。その重みが、温もりが、僕が今、ここに存在していることを肯定してくれているようだった。画面の中の文字列でも、タスクリストの一項目でもない、ただの「僕」として。
どれくらいの時間が経っただろうか。園内に流れる、気の抜けた童謡のメロディーが、閉園時間を告げる音楽に変わる。僕は名残惜しさを感じながら、ゆずさんの頭からそっと手を離した。
「また来週、来ますから」
ゆずさんは、まるで僕の言葉を理解したかのように、一度だけ小さく「きゅる」と鳴いた。それが彼の返事なのだと、僕は勝手に思っている。
出口へ向かって歩いていると、園長である白髪のおじいさんが、箒を片手に立っていた。鈴木さん、という名前らしい。いつも柔和な笑顔を浮かべている、人の良さそうなおじいさんだ。
「やあ、お兄さん。今日もゆずと仲良くしてくれて、ありがとうね」
「いえ……僕の方が、いつも癒されてますから」
「そうかい。あいつは不思議なやつでね。人を見るんだ。お兄さんのことは、よっぽど気に入ってるんだろう」
鈴木さんはそう言って、空を見上げた。夕暮れの光が、彼の深い皺をオレンジ色に染めている。その横顔が、どこか寂しげに見えたのは、気のせいだろうか。
「じゃあ、お気をつけて」
「はい。また来ます」
動物園の錆びたゲートをくぐり、僕は再び灰色の世界へと戻っていく。バス停に向かう道すがら、僕は自分の手のひらを見つめた。まだ、ゆずさんの温もりが、微かに残っている気がした。このひとかけらの温もりを燃料にして、僕はまた、次の六日間を乗り越えなければならない。
バス停のベンチに座って待っていると、ふと、動物園の入り口に一枚の小さな貼り紙がされているのに気がついた。今まであっただろうか。風に揺れるその白い紙が、なぜだかひどく、胸騒ぎを覚えさせた。
バスが来て、僕は乗り込む。遠ざかっていく動物園の姿を窓から見ながら、僕はあの貼り紙のことを考えていた。嫌な予感が、心の隅に黒い染みのように広がっていく。それでも僕は、その予感から目を逸らすように、スマートフォンの冷たい画面に視線を落とすのだった。
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