第2話
父は、リビングでテレビを見ていた。
こちらに背を向け、ニュース番組を退屈そうに流し見ている。音量はいつも——入院する前——よりも小さいような気がして、何を言っているのかは分からない。
煙草の煙たさが、ようやく家に戻ってきた安心感と、それ以上の恐怖を感じさせた。
華奈はゆっくりと、車椅子を前に進めた。
父の背中を遠くから通り過ぎる様に眺めていると、そこでようやく違和感に気付く。
玄関を開けた時も、廊下を進む時も、気配は感じなかった。
病院にいる間、退院した時の事をずっと考えていた。
——今や動かないこの脚で、アックスにまた襲われたら?
けれど、その大きな存在はどこにもいない。
気配すら感じない。
ひょっとすると、父の足元に丸まっているのだろうか。そう思って見てみても、ソファに腰かけて煙草を吹かす父一人で。
「あの、お父さん」
声は、震えていた。
父に対する恐怖か、或いは。
一度唇を固く閉ざし、けれど聞かない訳には行かないと、もう一度顔を上げた。
「アックスは……どこにいるんですか」
父は、至極面倒臭そうに溜息と共に煙を吐き出すと、テレビの方を向いたまま答える。
「死んだ」
あまりにも無感情だった。
まるで、何も思う所など無いかのようだった。
「いつ、ですか……」
全身に悪寒が走る。受け止めきれない程の衝撃に、果たしてこの質問が本当にしたかったことなのかどうかも分からなくなる。
父は、火種を灰皿に押し付けて消す。その動作には、僅かな苛立ちが滲んでいた。
思い出させるな。
そう言外に伝えている様で。
「お前が入院してる間だ」
それだけだった。
それ以上は何も言わなかった。
どうでもいい事を伝えるかの様だった。
華奈は唇を強く噛んだ。
息をする度に、胸が締め付けられる。目頭が熱を持つ。
いくら父にけしかけられて足を噛まれようと、蛇蝎の如く嫌われていようと。
それでも華奈は、アックスの事をそこまで嫌いにはなれていなかった。
泣くな。
自分に言い聞かせる。
きっと、お父さんの方が辛いから。わたしが泣いたら、また怒らせてしまうから。
薄く開いた唇から、震えた息が漏れる。
ひとつ、涙が太ももへ落ちる。
顔を俯かせ、滲む視界で必死に涙を堪え続けていた。
泣けば、また——。
身体を強張らせ、声を湛えながら、その姿を隠す様に父へ背を向けた。
離れなければ。泣く場所はここじゃない方が良い。
そう思って、両手で車輪を掴んだ。
この家で、華奈は悲しみの涙を零す場所すら、限られていた。
「うるさいな」
だからそんな父の声が背後から聞こえた時、恐怖で息が出来なくなるほどの緊張が走った。
舌打ち、立ち上がる音、こちらへ近付いてくる重い足音。
心臓が、思考が、凍り付いてく音を立てた。
「す、すみません、すみません」
慌てて袖を使い、目を拭う。鼻水を啜り、静かにしようとする。
だが、アックスのいなくなった家はあまりにも静かになっていて、それがまた、彼女の心を痛ませる。
ぐずぐずと鼻を鳴らし、気持ちを落ち着かせるように息を吐く。きっと、父はもう背後に立っている。
振り返る事すら、車椅子では一苦労だ。華奈は車輪を掴むと、病院で練習したように、左右の車輪を前後に回そうとする。
だが。
僅かな振動の後、いくら力を込めようと、それは石のように動かなくなった。
背後から、父が手すりを力で抑えていた。
「聞こえないのか? 黙れって言ったんだ」
大きな獣が、威嚇するような低い声。
父は手に力を込めると、いとも容易く後輪を持ち上げた。
フロントのキャスターだけで接地しているような状態になり、華奈は慌てて手すりを掴みなおす。そうしなければ、そのまま前のめりに落ちてしまう所だった。
「き、聞こえてます。ごめんなさい」
首だけで後ろを振り返り、父に目を合わせようとする。今からでもまだ間に合うかもしれない。そう思っての行動だったが、両手で必死に手すりを掴んでいる状態では、精々少し右の後ろを見つめるのが精いっぱいで。
「落ちます、やめてくださいっ」
懇願も虚しく、父は小さく舌打ちをしたかと思うと、更に後輪を押し上げた。
フロントキャスターだけが辛うじて支えになっていた車椅子は、今度こそ天地をひっくり返された。
「わっ……」
短い声が漏れた刹那。
視界が、床に急接近する。背中に感じている、車椅子の背もたれごと、まるで自分が下敷きになる様な形で。
顔から落ちる前に、手を着くことは出来た。手のひらと肘が強く痛んだが、それ以上に動かない下半身では、その状態から這い出す事も出来ない。
「いたっ……」
顔を顰め、何とか芋虫のように抜け出そうとする。父は、そんな華奈の姿をただ、冷たく見下ろしていた。
「お前は……俺を苛立たせるために帰ってきたのか?」
吐き捨てる様な声音。振り上げた右足を、華奈の上に存在したままの車椅子へ蹴り下ろした。
骨組みが彼女の腰や背中にぶつかり、押し殺された悲鳴が上がる。
「っ……違います、すみません。その……」
言いかけて、口を閉ざす。父が嫌う言動は数多くあるが、中でも父が口答え、と認める事をしてしまった時の怒り具合は、他の比では無いことを知っている。
従順に。隷属的に。
何とか這い出した華奈は、逆さまになった車椅子を挟んで、父へ向き直った。
立ち上がることは出来ない。手すりがあれば、僅かな時間は立位を保つことが出来るが、それにしても歩行とは程遠い。
車椅子も、あんな風にされてしまっては、自力で戻る事はほぼ不可能に近いだろう。
病院のリハビリで、怒った父に車椅子から放り出され、逆さまになった状態からのトレーニングはしてこなかった。
ひりつく肘を庇う様にして、足を投げ出したまま、華奈はそれでも出来る限りは丁寧に父の方へ向き直る。
「そんな無様な姿になって帰って来やがって」
顔の端に、僅かな怒りを浮かべながら父は吐き捨てる。
一歩、車椅子に近づいた。
「ただでさえ役立たずの穀潰しなのに、足も動かなくなっただと? いい加減にしろ。お前を置いておくことで、俺にどんなメリットがある?」
——まずい。
咄嗟に華奈は、後に続く言葉を想像し、喉をひゅう、と鳴らした。
這いつくばるようにして、近づこうとする。
「ごめんなさいっ、追い出さないでくださいっ」
「黙れ」
冷や水を浴びせられたような一声に、口を閉ざす。
「だったら言ってみろ。お前を食わせて、俺に何のメリットがあるか」
出て行け。
そう言われているのと、大差無く思えた。
華奈は何も返せないまま、押し黙る。その態度すら、父にとっては腹立たしく感じられるものと分かっていながら、それでも、自分では何一つ、役に立てない存在に成り下がってしまったと自覚している。だからこそ、黙るしかなかった。
「ほらな」
嘲る様に、肩を竦めた。
「何一つ、俺に示せる物も無い癖に、生きてる価値があると思うなよ」
ひっくり返った車椅子を元に戻し、慣れた手つきで折り畳みながら、父はもう華奈を見ようともしない。
彼女は、片付けられそうになる唯一の移動手段を見て、咄嗟に声が漏れた。
「あっ、の、返して……」
絞り出すような声だった。
だが父は、何か邪魔な家具でも片付けている様な無表情で、ブレーキをかけて折り畳みを進める。
華奈は、声を更に大きくした。
「お願いします、返して……返してください……!」
声が震える。喉が潰れそうになる。息が詰まる。
あれを取られたら、もう動く事も出来ない。
足を捥がれた虫のように、こうして床へ這いつくばる事しか出来ない。
力の入らない脚を引きずるようにして、更に車椅子へ、父へと近づいた。
その手が、かろうじてフロントキャスターを固定しているパイプへ触れ、握りしめた時。
父は忌々しそうに舌打ちをした。
「お前、何様のつもりだ?」
頭上から落ちてくる声。
息を切らしていたことすら忘れ、呼吸を止める。
だが、手を離すわけにもいかなかった。
「……お願いします。返してください。これがないと……わたし……」
「うるさいんだよ、お前」
大きな音がして、父が車椅子から手を離したのだと気付く。折り畳まれて薄くなったそれは、バランスを崩して倒れ込む。華奈は手を挟んでしまいそうになり、慌てて腕を引いた。
彼女は肘を付いて上体を起こし、涙で顔を濡らしながら、怒りに震える父を見上げる。
「だって……だって……!」
もう何を言えば正解なのか、許されるのか分からないまま、華奈は必死に言葉を紡いだ。
「これがないと、動けないんです……、返してください……!」
父の目が、細められる。
一歩、近づいてくる。
目の前に大きな身体が現れ、蛍光灯で出来た影を落とす。
これがないと、動けない。
受け入れるまでに入院中、かなりの時間を要したと思っていたが、どうやら。
華奈はまだ、自分の足が動かなくなったことを、完全には受容しきれていないと、再認識した。
「返してください、返してください……」
そんな彼女の言葉を反芻するようにして、父は呆れた語調で続ける。
「お前な、いい加減にしろよ。誰が買ったと思ってるんだ」
声は氷のようだった。
「この家で、お前の物なんか一つも無いんだよ。分かるか?」
声を荒げた訳では無い。
けれど、華奈にはそれが怒号に聞こえた。
咄嗟に、身体へ染み付いている動作をしてしまう——手を着き、頭を床に擦り付ける。
殴られる。そう思った次の瞬間には、反射的に身体が動いてしまっていた。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
足を投げ出したまま、引くことも伸ばすことも出来ず、ただ髪を乱しながら。
その様子を、まるで汚らわしい物でも見るかのように見下していた父は、やがてゆっくりと車椅子を持ち上げる。そして、踵を返した。
それに気付いた華奈が顔を上げた時、父は既に両手でそれを抱え、自室へと向かう階段に足を掛けていた。
「反省してろ、役立たず」
背中越しにそう言われ、必死で呼び止める。
「待って、やだ、やだ……! あ、歩けないんです、ごめんなさい、もう何でもしますから! 言う事も全部聞きますから!」
振り返ってほしい。足を止めて欲しい。
そう願いながらの叫び声は、けれど父には無価値らしい。動きを少しも止めることは出来ず、遠ざかる足音が華奈の心に絶望を落とした。
階段。
まだ普通に足が動いた頃、それは何の事はない道の一つに思えていた。二階に上がるための、ただの道。
けれど今、床から顔を上げて見つめるそれは、どう頑張っても越えられない壁に等しかった。
やがて静かになった階段を、華奈は何とかその一段目まで這い進んだ後、見上げていた。
父は恐らく、自室にいるのだろう。物音は聞こえない。最後に、ドアを荒く閉じる音が聞こえて、それきりだった。
どれくらいの時間が過ぎたのかも分からない。10分とも、1時間とも感じられる。
上体を捩り、下半身を見る。
そこには、力が入らなくなった自分の脚。
ただの荷物に成り下がったそれを、無様に引きずって進むしかない。
ふと、手を伸ばして太ももに触れた。
ズボン越しに、感覚すら鈍くなったそれが他人の物に感じられた。
「……なんで」
声が掠れる。
涙の乾いた口元が、引き攣る感覚を感じた。
気が付けば、振り上げた手をその脚に下ろしていた。
「動いて……お願い」
涙も声も枯れた。気力も体力も尽きた。
乾いた音を響かせながら、ただ悔しさを八つ当たりするように、何度も自分の脚を叩いた。
痛みは、感じない。遠くの方で、うっすらと感覚があるだけだった。
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