溶離したクジラ

なすみ

第1話

 華奈は、知らない間に中学二年生へ進学していた。

 その春、五月三日。午後の柔らかな日差しが路面を照らす中、後部座席で一人、座る車椅子がウィンチに固定されているのを感じ、乗り心地の悪さと退屈さで外に目を向けていた。

 助手席では父が、送迎を担当している運転手の男性と、楽し気に談笑を繰り広げている。

「この辺は昔から評判が良いんですってね。学校も近いし」

「いやいや、そんな事ないですよ。ただ閑静なだけで」

 それはまるで、大人同士のつまらない会話に思えて、華奈はスモーク越しに見える窓の外へ意識を向けた。

 見慣れない風景が過ぎ、今や家の近くまで迫っている事を知る。

 父は道中、思い出したかのように華奈へも言葉を掛けた。運転手の男性との会話に、混ぜてやろうと言うような行為だったが、その声にはどこか距離が感じられた。まるで、自分の社交的な態度を強化するための様なものに。

 あの事故から、四カ月半。

 脊椎の損傷は、腰椎のL1付近。

 落下による強い衝撃で脊髄の一部が傷付き、下半身の運動機能は著しく制限されるだろう。

 そんな担当医の言葉は覚えていても、それが何を意味するのかは分からない。

 ただ、自分の下半身が殆ど思い通りに動かせなくなったことに気付いた状態で、見知らぬ病院の診察室で、初対面であろう医者と看護師に囲まれて、背骨の模型を見せられて——理解出来る事の方が少なかった。

 数少ない理解出来た語句の中で、華奈はただ、残酷な事実を受け止めざるを得なかった。

 歩行は、難しい。

 まるで自分の事が如く顔を顰めた医師から告げられた時、華奈は言葉の意味を測り兼ねた。

 どこか他人事の様に、その後へ続く説明を聞いていた気がするし、聞いていなかった気もする。とにかく現実味を帯びないその説明に、まさかそれが自分の身に起きている事など、理解する余地も無かった。

 それが実際に、自分が今後一生抱えていかなければならない問題であると知ったのは、その後に待つ日常生活を過ごす中であった。

 入院後、暫くの間は一人で寝がえりを打つことすら、満足に出来なかった。排泄も、入浴も、更衣も、全て人の手を借りなければならなかった。

 それが苦痛だったのかどうかも、良く思い出せない。ただ、動かない脚と、何もしていないのに痺れる感覚だけが、毎晩の様に付き纏っていた。

 やがて始まったリハビリは、朝から夕方まで、殆ど毎日の様に繰り返された。理学療法士と一緒に、平行棒の間に立って、両手で身体を支えながら下肢に体重をかけていく訓練。作業療法士とは、車椅子から便座へ移る方法や、立位での更衣。

 日常動作の全てを、まるで生まれたばかりの赤子からやり直すかのように訓練した。

 結果として、歩くことは儘ならないまでも、車椅子から便座に腰を下ろし、排泄をして、元に戻るといった動作や、入浴の為に脱衣をして、風呂場の椅子に腰を下ろす所までは、一人で出来る様になった。

 身体を支える力はあるし、手先は動く。一人では何もできない訳ではない。誰かが拍手をするような回復ではないけれど、生活は辛うじて成り立つようになった。

 それでも。

 もう二度と、自分の両足で地を踏みしめて、どこへでも行ける。

 そんな生活とは、別れを告げなければいけない。その残酷な事実だけは、逃げようとしても現実味を持って彼女を苛んだ。

 車はやがて、家の前へ静かに止まった。

 父が人好きのする返答を返した後、感謝を述べる。運転手も少し名残惜しそうに笑いながら外へ出ると、ややあってバックドアが開いた。

 外の暖かな陽気が、冷房の効いた車内へ入り込む。背中に熱を感じたかと思うと、すぐに手際良く、運転手がウィンチを解除しながら、リフトを操作する。

 僅かな慣性を感じて、車外へ運び出される感覚。

 父はいつの間にか、華奈の背後へ立っていた。固定具が外されたのを確認すると、小さく告げた。その声は、先ほどまでの明るさを伴っていない、まるで面倒さを隠そうともしない様な声音だった。

「降りるぞ」

 運転手には聞こえない様な声量でそう言われた次の瞬間、上体が後ろへ傾く。咄嗟に両手でアームレストを握り締め、身体を前に倒した。

 そのまま後ろに倒れてしまうのではないか。そんな不安に駆られる華奈を余所に、父は手早く降車させると、リフトの片づけを進める運転手に礼を言っていた。

「本当に、お世話になりました。どうぞ、病院のお医者さんや看護婦さんにも、よろしくお伝えください」

「いえいえ、こちらこそ。お嬢さんも、よく頑張ったと思いますよ」

 運転手の視線が、華奈に注がれる。視線だけで、その笑顔の意味が分かった気がした。同情でも、労りでも、社交辞令でもない。父が運転手に告げた言葉よりも、余程誠実に聞こえた。けれど、華奈は何も返せないまま、ただ黙して目を伏せた。

 それが会釈と取られたのか。それから二言三言交わした後、運転手は名残惜しそうに席へ戻ると、ゆっくりと小さな通りを走り、大通りを左折していった。

 その様子を最後まで、張り付けた様な笑みで見届けていた父は、その姿が見えなくなった瞬間、華奈が背中越しに聞こえてしまうほどの大きな溜息を吐いた。

 それだけで、彼女は胸が締め付けられる思いを抱く。

 不快にさせてしまう事が何かあっただろうか。

 怒られるのではないか。

 また、殴られるのだろうか。

 取り留めのない不安が押し寄せ、息が詰まる。

 がくん。

 不意に、華奈の身体が揺れた。ややあって、父が一言の予告も無く、車椅子を手で押したからだと気付いた。

 病院でずっと使っていた物とは違う、恐らく父が購入したであろう車椅子が、滑らかに速度を増す。それは父の歩幅を速度としていたが、その上に座っている華奈には、体感速度がいささか早い気がした。

 恐怖を感じ、思わずアームレストを再び握り締める。だがそんな所作にも父は気を留めず、ただ急ぐように、門扉をくぐって玄関までの道を押し歩いた。

 正面玄関の手前には、短いスロープが新しく設置されていた。

 コンクリートの端が、古いタイルの段差と自然に調和しており、元の造形を知らない人ならば、それが後から追加されたものと知ることも無いだろう。

 ここまで無言で連れて来られた華奈は、乱暴とすら思えるブレーキによって、手に力を入れていなければ身を投げ出していたかもしれないと思いながら、そのスロープの存在に目を疑った。

 自分の為に用意されたものだ。すぐに理解した。

 だからこそ、目を疑ったのだ。

 あの父が。わざわざ自分の為に、スロープを。

「……あの、お父さん」

 華奈はそこで、改めて口を開く。

「このスロープ——」

 だがそんな言葉を途中で遮り、父は不意に車椅子から手を離す。声音に苛立ちを滲ませることすら抑えないまま、言い放った。

「いつまで俺に押させるつもりだ? いい加減、自分で動け」

 吐き捨てる様なその言葉に、華奈は肩を竦める。咄嗟に殴られるのではと思い、身体を硬直させた。

 だが父は、そんな様子を尻目に歩みを進めると、脇を通って、階段から玄関へと向かった。

 乱暴に開け放たれた扉。それをくぐり、やがて内側から力強く引っ張るようにして大きな音を立てて閉まるドア。

 その音に、肩が小さく跳ねた。

 ——やっと退院したのに。

 ——ただ家に戻ってきた、だけなのに。

 何一つ、自分は赦されていないのだと思い知らされる。

 これまでの扱いが変わった訳でも、これからの対応が軟化したわけでもない。いつも通り、機嫌を損ねないように、少しでもいい心持ちでいてもらえるように。

 わたしは、奴隷として。

 両手で、アームレストを握り直す。

 いつまでもここに居ては、父に何を言われるか分からない。

 それにもしかしたら、アックスも自分の事を警戒して、吠え続けているのかもしれない。

 父に育てられ、自分の事を悪だ、敵だと父に教え込まれたジャーマンシェパード。あんな存在に噛みつかれたら、ひとたまりもないだろう。

 意を決して、車椅子の後輪に手を掛けた。

 手のひらに感じる、冷たい樹脂の感覚が、嫌に鮮明な記憶として残った。

 スロープに前輪が乗り上げると、傾斜が身体を後ろへ引っ張る。

 僅かな傾き。それでも、車椅子ごと後ろへ倒れてしまうのでは。そんな不安が過る。

 すぐに自分へ言い聞かす。大丈夫。両手でしっかりと後輪を掴んで。身体を前に傾けて。

 病院で何十回も練習した。

 自分へ言い聞かせる様に、再び鋭く息を吐いた。


 玄関の扉をやっとの思いで開けると、そこに父の姿はなかった。

 勿論、想定していた。華奈は悪戦苦闘しながら、僅かなドア枠の段差を何とか乗り越え、ようやく玄関に入る。

 背中で、ドアがゆっくりと閉まる音を感じた。

 その時、音を聞きつけたのだろうか。父の足音が、僅かに聞こえた気がした。

 それほど小さな音は、やがて確信へと変わるほどの振動になり、廊下とリビングとを隔てる扉が、音を立てて開いた。

 そこから再び姿を現した父は、機嫌の良いとも、悪いともつかない表情で華奈を一瞥する。彼女は、思わず目を逸らした。

 玄関から、廊下に上がるための段差は、凡そ彼女の膝下程。

 華奈が両の脚で歩行出来ていた時は何の苦労もなかったそれは、今や途方もない障害として立ちはだかっていた。

 色々な手立てを考えた。

 自分がまずは這い上がり、次いで車椅子を持ち上げるべきか。それとも、どうにかして、車椅子ごと乗り上げるべきか。

 けれども、そのどれもが現実的ではない。

「……あのっ」

 意を決して、声を振り絞る。無意識の内、手が胸元の服を掴んで寄せる。

 それは心臓を締め付ける様な不快感を、少しでも紛らわすための動作だった。

「ごめんなさい、お父さん……。その、一人じゃ上がれなくて」

 言いながら、彼女は自分の無力さに歯噛みした。僅かに顔を顰める。

「助けて……欲しいです」

 それは屈辱を噛み殺した一言であった。

 けれど、父は返事をしなかった。

 一言も返さず、ただ冷たい視線を廊下の先から華奈の方へ向けていた。

 そのまま過ぎ去る数秒は、彼女にとって、まるで首を絞められている様な閉塞感を感じさせた。

 冷えた冬の真水に、頭を耳まで沈められているような、そんな感覚。

 怒らせただろうか。

 間違った一言だっただろうか。

 また、無視されるだけで済めばいいけど。

 そんな思考が一瞬にして彼女の両手を強張らせる。首の裏から這い登った寒気が、春の麗らかな陽気を消し飛ばす様だった。

 唐突に、父が一歩を踏み出した時、彼女は思わず身を引いた。

 背もたれに身体が沈み、布が骨組みに擦れる音が響く。

 重たい足音が、近づいてくる。

 咄嗟に目を逸らした。胸元の生地を千切れてしまいそうな程、力を込めて握り締める。

 やがて、視界の端に父の足が現れた。

 無言のまま、父は一切の表情を浮かべないまま。父は小さく息を吐くと、素足の状態で玄関に降りた。

 ひたり。静かな音が響いたかと思った瞬間、僅かに息を吸い込む音と同時に、彼女の車椅子が重力を失った。

 それごと、自分が持ち上げられたのだと、少し遅れて気付いた頃には、乱暴な手つきで廊下に降ろされていた。

 振動が伝わり、視界が揺れる。けれど、それすら気にならない程、華奈は今や、父の次に怯えていた。

 望み通り、廊下に上げてくれた。

 だが、その代償は。

「……ごめんなさい」

 目を伏せ、謝罪の言葉を震える喉から絞り出す。

 父はそんな言葉など聞こえていないかのように小さく息を吐くと、まるで何事も無かったかのようにその場を歩き去っていた。

 その場に残されたのは、車椅子と、華奈。家の懐かしい匂いと、壁に掛けられた、見覚えのあるカレンダー。

 そして、アックスが脱走してしまわないようにするための柵——それが撤去された後、その形に日焼けしたフローリングだった。

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