第六章 変容と終火
第二十四話 第一撃
あの玉座の間に至る、ほんの少し前――
アリウスは立ち上がり、肩で荒く息を吐いた。
意識の彼方に残る声と炎の記憶が、脈打つように胸を叩いていた。
「急がないと……ネヴィアが……!」
そのまま走り出そうとしたとき、横から腕を伸ばしてサビナが彼を制した。
彼女の手は細く、だが不思議なほど強い力を宿していた。
「行きなさい。でもその前に……それでは、あまりにみすぼらしい」
サビナは棚の奥から黒い上着を一着取り出し、静かにアリウスへ差し出す。
ほつれも血も焦げ跡もない、真新しい布地だった。
「……着なさいな。あなたの“いま”に、相応しい服を」
黙ってそれを受け取り、アリウスは腕にそっと通した。
布が肌に触れる感触は、ひどく落ち着くものだった。
「準備に少し時間がかかります。動かないでくださいね」
床に撒かれた灰は、やがて円を描き、そこに複雑な紋様が刻まれていく。
灰と香草と血を混ぜた匂いが、部屋の空気を揺らした。
「何をしてる……?」
アリウスが問うが、サビナは答えず、静かに指先で灰を繋ぎ続ける。
数分後、円の中心に彼を導くと、彼女は言った。
「この中心に立って。陣を崩さないように」
彼が無言で従うと、サビナは目を閉じ、両手を胸の前で重ねて囁いた。
そしていま――。
転移の光を抜けたアリウスは、すでに“名を喰らう者”として、王の前に立っていた。
玉座の間に響くのは、己の鼓動と、石の床を軋ませる足音だけだった。
天井から差し込む薄明かりは、すでに正午を過ぎたことを告げていたが、
この空間において“時刻”は無意味だった。
重厚な柱、染み付いた血の気配、王を迎えるために築かれた壮麗な廊……
そのすべてが、今や“王を喰らう者”のために静まり返っていた。
「……ようやく来たか、“失敗作”」
王カダムが、玉座に肘をかけたまま、ゆるやかに口を開いた。
その視線の先に立つのは、織られた三つの意思――
ネヴィアと、アリウスと、レフィカルが共生した、完全体の“レフィカル”。
その姿は人とは言い難い。
下から伸びる無数の繊維が、筋肉や骨格を補強し、
その身をまるで“戦うための織物”のように形づくっていた。
その瞳は、冷徹な理性と燃える意思の両方を宿していた。
だが、その姿に怯える者は、ここにはいない。
「……あれが、“共に名を得た者”か」
玉座の両脇に控えていた兵たち――
王直属の近衛数名が、警戒を隠さず刃を構える。
だがその刃は、震えていた。
カダムはそれを見て、ふ、と鼻で笑った。
「怖いなら、下がれ。だが、名を持つことを許されたなら、
……せめて、“死に際”くらいは誇りを持て」
誰も下がらなかった。
それが、この国の“王”の力だった。
そのとき。
レフィカルの肩が、わずかに動いた。
その一歩――音すらなく踏み出された瞬間に、
前にいた兵士が一人、身を躍らせるように斬りかかっていた。
「喰らえっ!」
金属音と共に振るわれた一撃は、レフィカルの右手によって止められた。
手首から先が、槍の穂先のように織り替えられていた。
繊維の束が鋭く伸び、刃を受け止めると同時に、
兵士の腹を鋭利な突きで貫く――寸前、レフィカルの体が止まった。
だが、兵士はそのまま崩れ落ちる。
代わりに現れたのは、カダムの指先から伸びた一本の“糸”。
「……なるほど。肉体を武器に“織り替える”とは、
たしかに名を得た共生体の成せる技だ」
レフィカルは何も言わない。
代わりに、視線の奥から、ネヴィアの微かな感情が伝わってくる。
静かな拒絶と、怒りと、哀しみ。
アリウスは、内側でそっと呟いた。
(……ネヴィア。こいつが、全部の元凶だ)
その瞬間、カダムの足元が砕けた。
レフィカルが跳び、空中で左手を鋸状の刃へと織り替える。
それを振るうと、空気ごと裂くような軌跡が走る。
だが――
「遅いな」
カダムの姿が霧のように消え、次の瞬間、背後に立っていた。
「“喰らう”のが目的ならば、それは王の首であるべきだ。
……だがその首は、簡単には落ちぬ」
拳が飛ぶ。
その一撃は王とは思えぬほど鍛え抜かれ、
レフィカルの肩を貫通しかけるほどの重さだった。
衝撃で吹き飛び、壁を割って転がるレフィカル。
だが、倒れたままでも織は止まらない。
地に伏せた右足が、瞬時に“杭”のような硬質な脚部に変わり、地面を蹴り上げる。
跳躍。
続けて振るわれたのは、両腕から展開された“鎌”のような織剣。
「よく織っている。だが――浅い」
カダムは鎧袖一閃。
糸でできた裾が膨張し、レフィカルの腕を絡め取る。
そのまま床へ叩きつけるようにして――
「……まだ名に見合わぬ。もっと喰らい、もっと織ってみせよ」
王の言葉と共に、戦いは次の段階へと移ろい始める。
砕けた石床から立ち上がる。
その足元には、先ほどの打撃で散った瓦礫が転がり、
その上に、織り変えられた槍脚が不自然なほど静かに突き立っていた。
「名に喰われぬ王など、いない……!」
レフィカルが吠える。
その声に重なるように、アリウスとネヴィアの意識がうねる。
三つの精神が同時に“敵”を捉え、同時に怒りを共有し、同時に編み始めた。
右腕が砕け、瞬時に鋼線のような織刃へと再構築される。
同時に左腕が“触手状”に分岐し、空中に螺旋を描く。
「──喰らえ」
伸びた刃が弧を描き、
触手が天井から垂れた旗を巻き取るようにしてカダムの背を狙う。
王は、踏み出さない。
ただ首を傾げ、静かに指を弾いた。
その瞬間、床から無数の糸が逆巻き、壁ごと跳ね上がる。
「お前たちは、“形”に囚われすぎている。
織るという行為は、名を編むのではない。“在り方”を定義する力だ」
糸で再構築された壁がまるで生き物のように動き、
飛来した刃と触手を吸い込むように受け止め、沈黙のまま崩れる。
「ならば、“お前の在り方”も──変えてやる」
レフィカルが跳んだ。
宙で身体を捩じりながら、全身を黒銀の織筋へと再構成する。
跳躍中に生まれる抵抗すら力に変え、
次の瞬間、その身体全体が巨大な獣のような“衝角”へと変貌する。
(撃ち抜く)
その一意識が、すべての行動を統一した。
しかしその直前、カダムが低く一言、呟いた。
「“王”の名を軽んじた代償を、思い知らせてやろう」
玉座の背が崩れ、空間がたわむ。
王の背後にあった壁面がひとりでに開き、
中から現れたのは──王の影そのものが“織り出された刃”となった存在。
影の刃が、レフィカルの衝角と激突する。
衝撃で床が抜け、視界が粉塵に覆われる。
「っ……まだ、だ!」
レフィカルが咆哮し、腕が再構築される。
右腕がハンマーのような質量武器に変わり、
左腕は“盾”のように巻き込まれた糸を防ぐ構造に変化する。
カダムはまるで舞うように後退しつつ、
左右の柱に手を当てる。
「玉座とは“空間”ではない。
“王が座る”という意味を持つ場所こそ、玉座なのだ」
その言葉に応じて、柱のひとつが軋み、空間がひしゃげた。
柱が布のように裂け、中から現れたのは──
“もうひとつの王”を模した人形のような影。
「双王の織、始まりの儀だ」
「織ってろよ……その首ごと喰い千切るまでな!!」
アリウスの声と共に、レフィカルは再び走る。
影の刃と“もうひとつの王”の間をすり抜けるようにして、
右脚を巨大な錐に変形させ、下段から跳び上がる。
“突く”というよりも、“穿つ”という意志。
その刹那、ネヴィアの感情が明確に響いた。
(ここで止めないと、みんなが……!)
それは警告ではない。
三人の名を織った意思としての、叫びだった。
レフィカルの視界が明滅する。
アリウスの声が混じる。
「わかってる……だからこそ、ここで――!」
刹那、空間が一閃された。
レフィカルの錐脚が“影の王”を貫いた。
破裂音のような異音が響き、
王の片腕が弾かれ、布のように空中に散る。
……が、カダムの口元は歪んでいなかった。
笑っていた。
「よくやった。“第一撃”としては、及第だ」
そしてその視線の先で、玉座の間の壁がすべて裂け始める。
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