第19話 心の石

それから数日間、カイルとネマは風と水の元素素材をひたすら精製し続けた。


最初はカイルが手で精製台を回していたが、見かねたのか満足したのか、途中からネマが魔力で回すようになった。


最後の素材を抽出し終えると、ネマは風の霧を専用の冷却器へと導いた。球形のガラス瓶の内側には霧晶石が敷き詰められ、その中を螺旋状に曲がった管が通っている。そこに風の元素素材を通すと、霧は管の中で冷やされ、翡翠色の液体となって滴り落ちた。


水の元素素材についても、ネマは外殻からこそげ落とした青い膜を、火の上にかざした。ざらついた青膜は次第に溶け、蒸気が立ち上る。その蒸気を冷却器に導くと、やがて青く澄んだ液体となって、底に溜まった。


ネマはそれらを改めて小瓶に詰め、霧晶石で冷却された保管箱に、他の素材と並べて収めた。



風と水の元素素材を揃えたあと、最後に残されたのは――「心」だった。


カイルとネマは、両親の詩に記されていたこの謎の素材の正体を探りあて、ついにその錬金を始めていた。


しかし、それが完成するまでには、これまでのどんな錬金よりも長い時間と手間が必要だった。


高濃度の魔力溶液に“核”を沈め、毎日、新鮮な溶液に取り替えながら、少しずつ結晶化を促していく――そんな、長く繊細な工程。


十時間以上調合室にこもり、珍しい薬草や高価な鉱石、希少な魔物の素材をふんだんに使っても、できるのはたったコップ数杯分の赤い溶液。それでもネマは、欠かすことなく溶液を調合し、衝撃を与えないよう慎重に古い溶液と取り替えた。


カイルは何度か手伝おうと申し出たが、ネマは首を振った。


「これは……お兄ちゃんができる作業じゃない」


その声は穏やかだったが、どこか疲れが滲んでいた。


カイルは、再び訪れた、見守るしかできない日々に歯痒さを感じていた。


数日後――


ついに、溶液の中に沈められた核が、赤い結晶の芯を生み始めた。


最初は、ほんの小さな結晶核だった。だが、霧晶石の冷却箱の中で、結晶はゆっくりと成長していった。



三週間を過ぎた頃だった。


ある日の夜、カイルが調合室を覗くと、ネマが作業台にもたれかかっていた。


「ネマ?」


声をかけると、ネマはすぐに顔を上げた。笑顔だった。だが、目の下に薄い影が差し、頬のあたりが少しだけ痩せて見えた。


「うん、大丈夫。ちょっと休んでただけ」


そう答えると、ネマは何かが詰まったように咳き込んだ。


カイルは大慌てで駆け寄り、ネマの背中をさすった。


「……っ、はぁ……ごめん。ちょっと、喉にきた」


ネマは咳が収まると、何でもないように笑ってみせた。けれど、その笑顔の端はわずかに引きつっていた。


「無理してんじゃないのか?」


カイルは心配そうに眉をひそめると、ネマは困ったように目を伏せた。


「大丈夫。完成までもうすぐだし。……それに、途中でやめたら、全部ダメになる」


その言葉には、淡々とした静かな覚悟があった。


カイルはそれ以上、何も言えなかった。言葉を飲み込み、代わりに無理やり笑顔を作って言った。


「今日は、薬草でスープを作ってみたんだ。これが案外うまいんだよ」


「……うん、絶対食べる」


ネマはそう言って微笑んだが、その声は少しだけ掠れていた。



数日後の夜。


静まり返った調合室の空気の中で、ネマとカイルは息をひそめて赤い溶液を見つめていた。


冷却箱の中心に沈められた“核”には、すでに指先ほどの結晶が芽吹いていた。


深紅の光が、溶液のゆらぎとともにゆっくりと脈打っている。


「……今日で、終わり」


ネマはそう呟くと、冷却箱の蓋を静かに外した。


慎重に、何度も息を整えながら、溶液をゆっくりと抜き取っていく。


溶液が抜けると、その中から深い紅の結晶が、かすかな光を放ちながら姿を現した。


結晶の表面には、自然に形成されたとは思えない、微細な紋様が浮かんでいる。


「……できた……」


ネマはその結晶についた溶液を、清潔な布で丁寧に拭き取り、両手で抱くように支えた。


胸の奥から、熱いものがせり上がってくるのを感じた。


「これで、全部揃ったな」


一方カイルは、結晶を確認すると、そっと息をついた。


その視線は結晶ではなく、隣に立つネマに向けられていた。


(……これで、ようやく)


彼女の咳や疲れを、気づかないふりなどできるはずもなかった。


それでも毎朝、錬金を続けるネマの背中を、見ているしかできなかった。


ようやく、終わりが見えたのだ。


あとは、エリクサーを錬成するだけ。


「……明日には始められるかな?」


カイルが言うと、ネマは首を振った。


「レシピを最終確認しないといけないし、流れを頭に入れないといけないから」


「そっか、そうだよな……」


カイルは自分だけ先走っているようで、少しバツが悪かった。


「そういえば、それ、なんて言うんだっけ」


話題を変えるように聞くと、ネマは首を傾げた。


「なにって、『心』だけど」


「それは詩の中の呼び方だろ?」


カイルが言うと、ネマは顎に人差し指を当てながら答えた。


「そういえば、名前、ついてないかも。お父さんとお母さんが作ったけど、ずっと『心』って呼んでるし」


「今更だけど、ちょっと不便だな」


カイルが言うと、ネマは少し考え込んで、つぶやいた。


「……カーディナイト」


「ん?」


カイルが聞き返すと、ネマは続けた。


「『心』は、古い言葉でカーディアっていうの。だから、カーディナイト」


「……よく分からないけど、響きはいいな」


カイルがそう言って笑うと、ネマも小さく笑った。


そのとき、ふと視線が重なった。


淡い灯の下で、ネマの瞳がかすかに揺れる。


──瞳孔のまわりに、薄く、金の輪が浮かんでいた。


ほんの一瞬、光の反射かと思った。けれど、瞬きしても消えなかった。


「ネマ……目が……」


カイルの声に、ネマはきょとんとした顔でこちらを見返した。


「え?」


「金色の輪が、出てる。……瞳の、ふちに」


ネマの表情が、わずかに動いた。


ゆっくりと目を伏せ、もう一度、カイルの方を見上げる。



その瞳に浮かぶ金の輪は、もうごまかしようもなく、確かにそこにあった。


しばらく沈黙が落ちた。


やがて、ネマはそっと口を開いた。


「そっか。ついに、来たんだね」


ネマの言葉は静かだった。


不安でも、絶望でもなく。ただ、目の前の事実を、穏やかに受け止めていた。


「うん……でも、今回は全部揃ってる」


カイルは、息を吸い込んだ。胸の奥が、じんわりと熱くなる。


(間に合った。……間に合ったんだ)


怖くないわけではない。しかし、ただ何もできず振り回されていた前回とは違う。


「……大丈夫。このときのために、備えてきたんだ」


ネマはカイルをまっすぐ見て、頷いた。


二人は改めて、結晶を包んだ布に目を落とした。


深紅の結晶――カーディナイトは、今も静かに、脈を打っていた。

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