日常

「コシュケウ」


 その声で、なだらかに覚醒する。毎朝同じ、彼の声が必ず私を目覚めさせてくれる。しかし本日は、精神が目覚めることを拒否しているように、私を離さない。

 凛とした女が、私へ微笑みかけている。左手には装飾の施された白い皿、右手には刃物。その刃物をおもむろに己の腹へと滑らせる。肌が、皿が、赤く染まり、なんということはないような表情で腹部の肉を盛り付けていく。

 そうしてついに内臓があふれ出し、それを零さないように横たわると果実酒を注いで背を火にかける。

 美しい表情を称えたまま、煮え立つ香りの、なんとかぐわしいことか。

 血液と果実の混ざる音、焼ける肉、こちらを涼やかに見る女。

 ああ、口に運ぶその瞬間が、楽しみだった。


「コシュケウ」


 女から引きはがそうとする静かなひと言。窓から陽が射し込んで、閉じた視界がひとまわり明るくなる。私は未だ分岐点に立ったまま。彼を聴き、女の匂いに立ち止まる。これは夢だ。

 私を起こそうとする彼に準じなくては。彼の行為に感謝の意をこめて。


「おはよう」


 かすれた声で、彼に返答する。女は消え失せてしまった。かぐわしい香りも、調理済みの臓物も。

 実物など存在しなかった。しかし、心地よかった。愛すべき彼を意図的に放っておこうかと考える程度には。

 彼は微笑んでいる。夢の女より優しく身近な表情で。私の内情など欠片も知らず、今日も穏やかに私を愛してくれる。


「まだぼんやりとするのかい」


 私を覗きこんだ彼の顔は、少々心配そうな表情へと切り替わっていた。気など揉む必要はないのに、私はおまえを裏切る心づもりでさえいたというのに。


「すこしね、余韻がある」


 代わりに私が微笑みかけると、彼はまた私へと微笑みを返した。


「うらやましいね…… 余韻を楽しめる寝覚めなんてもう、いつから体験していないだろう」


 私よりも柔らかい表情。どうすればそのように優しげな肉質になれるのか。私の顔つきは、同一を目指しても彼とは明らかに違っているだろう。限りなく近くとも、決定的に。

 おまえは愛されるにふさわしい。おまえがおまえでなければ、私など欠片の一粒だったであろうに。


 覚醒は遅いが確実にやってくる。満たされはした、がしかし理想に遠い夢だった。覚めていくごとに、段階を踏んで、違和感にも満たされる。あんなに物分りのいい夢は、偽装が過ぎてまったく好ましい心地になれないはずだ。もっと生々しく、もっと、もっと、生物として真っ当でなくては。

 正常な思考が、戻ってくる。


「楽しいというほどでもないかな」


 先に食事のもとへと去った彼を追うように、寝具から抜け出す。本日も朝陽のなんとうつくしいことか。この陽はこれから何時間か、心地よく人々を焼くのだろう。

 決して私の望みに近づかない。決して私を癒さない。ただ私をも穏やかに焼く。決して焦がさない。

 興味に及ばない。こんなにも、心地よいのに。うつくしさを理解はできるのに。温度に反して、冷めていく。


「晴れていることが気に入らない?」


 窓を眺めて立ち尽くす私に、部屋へ戻ってきた彼が声をかける。私が口にする食事の温度を気にして、呼びに来たのだろう。つい、普段は特別気にかけることもない朝陽などへ心を向けてしまった。あのような夢など見たから。あの夢の女が、朝陽と交差する。私を心地よく焼くだけ焼いて、決して満足させはしない、あの女が。二度と相見えることはない、あの女と。


「そろそろ、朝食を摂ろう。考え事が重要なことならひとりで食べてしまうけれど」

「いいや、すまなかったね。ともに食べよう。それが一番重要だ」


 そう、たったひと時とらわれた、形状のない欲求などよりも、愛すべきおまえとの食事がなにより大切。私の一言で、おまえの表情が晴れる。愛情を共有できている。なんと喜ばしいことか。

 ああ、永劫に私のそばにいておくれ。私は必ずそうさせるから。おまえも享受しておくれ。なにより優先すべきおまえの姿形で、普遍の美しさなど踏み越えて、不偏として不変として。

 私とは違う表情が微笑む。私と全く同じ顔が微笑む。私と食い違う。しかし全く同じ。

 おまえと私は、一切変わらず同じもの。だからこそ、愛するにふさわしいのだ。


「買い物に行くけれど、なにか必要なら考えておいてくれるかい」


 食事を終えてすぐ、私に質問をしてくれる。彼は細やかだ。私を生かそうとすることに対して手を抜かない。私が、おまえにとってそうも大切なのだと思うと、気分がいい。意欲もわくというものだ。


「それでは、塊の肉を」


 ふっと、彼の表情が無に変わった。顔をそらして、その断片しか見えない状態ではあるが、私には理解できる。おまえの心持ちが、はっきりと。


「食べたいの?」


 息の詰まるような声色。平静を装い、普段通りを演じようと無理強いするのが手に取るようにわかる。視線を私に向けないおまえが、平常通りでないことを知っているかい?突き刺さるような言葉を隠し切れない事実を知られていると、理解しているかい?

 しかしなんとも理性的。その姿こそ、おまえの純真。とても幸福な気分だ。


「そうだよ。ペチの腕肉がいいね」


 ようやく、彼は私を見る。そらしていた時間は短い間ではある、しかしそれがあきらかに異質なのだということを私は知っているというのに。取り繕った笑顔の質を知っている。今もなお、おまえの意識が私のみに向けられていないことも。


「わかったよ」


 柔軟性を失った言葉。おまえの苦痛が反映される。外観は柔和、混じりけのある瞳。揺れる思考が、全身に反映されている。そうまでして、おまえは従順に生きることを選択する。道理の通りに。人道の通りに。欲求を打ち殺す。


 彼は出かけていった。外出の挨拶だけを一声かけて。

己を殺し、律し続けながら。



 “きみの髪を均等に切り分けてゆく。きれいな長い髪が、もうすでに肩までの姿へ。とても似合っている。どんな姿もいとおしい。ぬるま湯に浸し、火にかける。きみの下地を作ろう。何分でにじみ出るだろう。きみを完成させる第一歩だ。


 じんわりと、きみがにじんできたような気がする。きみの髪の匂いがする。甘い香りがしている。早く口にしたい。早く口に含みたい。早く、早く、早く早く早く今すぐに煮立った熱さなどにかまっていられない。飲み干してしまいたい熱傷を負ったその患部にきみが熱く熱く侵入して溶け合うだろうぼく達は二度と離れないしかししかしそれでは。きみの大部分を残してしまう目前の薄い満足に惹かれるあまり。

 理性を失いそうだ。すでに大部分を削ぎ落してしまって少量しか残っていないのに。煮立つきみと共に、時間経過で溶け落ちていく。保たなくては。保たなくては。強烈な喜びのために、今しばらく“


「……髪の毛は美味しいのかな」


 書き記すのは“想定”だ。きっとそうだろうという甘い想像。経験になくとも、経験したくとも叶わない想定を記すのだ。

 小説を生業にするものとして、知りもしない行為を引きずり出す。実際に逸した人間の気持ちなど、現段階で正気の自分には理解のしようもない。

 しかし興味はわく。そっと自らのものを口に含んでみても、よくわからなかった。自身に対しては愛おしさも欲求もなにもないのだから当然か。けれど、もし今想像するその毛髪が、ミレトウのものならば?私と全く同じ成分の髪。目の前のこの束が、彼のものだったならば。


「おいしい」


 おいしい。とても。私は正しい! 私の想定は、まったくもって正しい!! 己の髪が、まったく彼と同じ味へと移行する。まさにこの風味、まさにこの味わい、間違いなく、間違いなくだ。

 口内にまとわりつくのはまごうことなき私の髪。しかし、彼の髪。噛みしめる。ぎりぎりときしむ音がする。噛みしめるたびに味がする。いくらかちぎれて喉へと到達した途端、瞬時に音がこみ上げた。

 短くなった髪は思いのほか強く突き刺さるような刺激を与えてくれる。耐えることなど不可能な衝動が吐き出されて止まらない。なんとも情けない。静けさの住み着く部屋に、私の乾いた咳が響き渡る様は。ミレトウが出かけていてよかった。


 心地よく浸っていたというのに。まだ少し刺激がのこっている。咀嚼して細切れになった毛先が喉を解放しない。しかし、実践をしたおかげで、髪の毛をなにも考えずに食することは大変危険だと理解することができた。たまらない高揚を一気に凍りつかせるほどの威力。余韻を殺す作用。取り扱いには細心の注意を払うべき存在だ。

 せめて物語の中では、気分の流麗さを崩さずに、高揚のまま溶け合うことができるように描こう。

 膨れあがった愛情が一滴たりとも流れ出ることのないように。



 本日は、半分目ほどまで仕上がった。本来ならば高揚感にまかせてもっと先まで歩めたかもしれない。しかしそれは叶わなかった。未だ喉には違和感が座り込んでいるからだ。衝動的に行ったことで、絶頂を感じていたためにどの方向へ進んでも冷静な判断などできなかっただろう。現在の状態は妥当な結果なのだ。そう理解をしてはいても、理性の誤りに後悔をおぼえてしまう。それほどまでに強い不快感がまとわりついている。何度水分を流し込んだことか知れない。もしかすると、実際に喉の肉に突き刺さってしまったのだろうか。可能性はおおいにある。その場合どう対処すべきか。

 ミャコイをやや粘りのある水飴状にした飲料を喉にやさしく送りながら、じっくりと思考する。これが私を好いて解放しない毛髪をすべて絡めとってくれればよいのだが。

 それにしても、甘い。本来ならばもっと希釈して飲むところを、粘り欲しさに濃いままにしているため、強い甘さに舌が焼けそうだ。しかし同時に、書き物へと投じた糖分が体内に染み込み戻ってゆくのを感じる。強烈な甘みがそのまま思考の回転力へと変換されていく。

 だが甘い。甘すぎる。いくら思考を活性させる効果があるとはいえ、供給にも限度というものがある。タタエィならばもう少し酸味があって甘さも控えめだっただろうが、もう長い間購入していない。以前はよく飲んでいたというのに、いつのまにか脳の活性にミャコイのほうが好ましくなってしまったためだ。

 タタエィを久しぶりに飲みたくなってしまった。あの爽やかさがあまりにも恋しい。今度、調達しておこう。タタエィがあれば、今後ふたたび髪が喉に刺さったときも、こんな苦痛を味わわなくていいのだから。


 不快さをゆっくりと押し込んでいると、少し遠くで物音がした。ミレトウが帰ってきたのだ。早速タタエィのことを頼まなくては。


「ミレトウ。おかえり」


 彼が返答するまでの瞬間はあまりにもわずか。

 しかしその瞬時の表情が、私に向かわない視線が、回転を続ける思考へと焼き付いてしまった。もう忘れられはしない。二度と、絶対にだ。なぜ。なぜ、どうしてそのような表情をしていたの。逸れていた視線をすでに私へと視線を向けているおまえは、先ほどの異質な柔らかさを失い、日常のおまえへと巻き戻ってしまった。

 外出前からさらに進んだおまえの苦々しかったであろう顔つきはどこへ放り投げてきたのだい? どうして私の想定通りにならなかったのか。わたしを押しのけたのか。どうやって。


「ご所望の品だよ」


 目前に差し出された、ペチの肉。その元の形状は人の腕と変わらない形をしている。そのため、珍味、または食することすら禁止されている地域もあるらしい。

 それを切り分けたものが、優しく手渡された。筋肉のつき方を見るに、部位は、二の腕あたりだろうか。

 これを手にしておまえが、なぜ、なぜ、なぜ!


「煮込み料理がいいな」


 私が注文をすると、ミレトウは柔らかく笑った。


「うん」


 私は精一杯だった。おまえとは真逆の方向から、冷静を装うことに。

 おまえは常に、私の思うとおり。しかし本日は違う。どうして、どうして? 今、私の予測の枠の外にいる。おまえはなにを体感してきたというの? 知りたい。しかし、ひた隠す。こちらへは知らんぷり。 おまえを知りたい。人肉への渇望をを凌駕する出来事が本当にあるのならば!!

 私は、隅から隅まで、皮膚の欠片でさえ、知っていたいのだよ。たったのひとかけら、おまえのことを知らないのがもどかしい! できれば話してほしい、おまえから何事もないように。本日の出来事を、すんなりと、その口から、己の行動として!


 しかし、おまえはなにも言わなかった。ただ談笑をして、まったく普段と同じよう。

 私に反するおまえに、私は差し出そう。欲求のひとかけらを。


「ねえ、途中まで読むよね」


 こわばった。表情が、全身が、私の誘導の通りに。やはりおまえは私のミレトウ! 愛すべき弟! 私と同じ嗜好をもち、私のようには発散できず、ただ欲求だけを永劫膨らませ、衝動に耐え抜くその姿! 抗い続けるその姿! 抵抗を決してやめはしない!

 その気高さ、倫理を、道徳を手放さない美しさこそが、私の愛すべきおまえなのだから!


「小説…… 完成したの?」

「いいや、まだだね」

「それなら、完成まで、読まずにおきたいな。完成したら、読むよ」


 そうだね、結末のない物語を読んでしまえば、結末を己で模索したくなってしまう。それは倫理の崩壊。ミレトウという概念の死。

 一点を見つめていたいであろう視線はさまよい、瞳がふるえている。ああ、葛藤が、理性が、欲望がないまぜになっておまえを惑わせる。

 読む快楽。読めば呼び覚まされる。現在は耐えたとしても、読まずにはいられない。読みたくなどないのに。

 その所作のすべてが、わたしの思い通り。先ほどの安定はもろく崩れ去る。さあ、明日完成をさせて、心身を、かき乱そう。かき乱し尽くして、そのあとのおまえが、楽しみで仕方ないのだよ。

 わたしの、かわいい同一存在。人間であることを重んじる別種の存在。

 わたしの、双子の弟。

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理性の方向を見ていた 水野葦舟 @bekosukii

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