第16話「涙の先に、チークを差して」



「嘘だ」


部室の鏡に映るルカの姿を見つめながら、私は首を振った。何度も、何度も。


「ひよりちゃん」


ルカ——いや、未来の私が、優しく手を伸ばしてくる。その手は、確かに私と同じ形をしていた。小指の爪が少し曲がっているところも、親指の付け根にある小さなほくろも。


「触らないで!」


私は後ずさりした。背中が壁にぶつかる。逃げ場なんてない。


「こんなの、おかしいよ。未来から来たなんて、私が信じると思ってるの?」


でも、心のどこかで分かっていた。初めて会った時から感じていた懐かしさ。私のことを全部知っているような眼差し。そして何より——


「あなたが初めて魔法を使った時の顔、覚えてる」


ルカが微笑んだ。


「『世界が変わるかもしれない』って思った。鏡に映った自分が、少しだけ好きになれた。違う?」


違わない。その通りだった。私しか知らないはずの、あの瞬間の気持ち。


「どうして……どうして戻ってきたの?」


膝から力が抜けて、私はその場に座り込んだ。


「あなたを——私を、救いたかったから」


ルカも私の前に膝をついた。目線が同じ高さになる。


「14歳の私は、毎日が地獄だった。『かわいくなりたい』って願うことすら罪だと思ってた。誰にも相談できなくて、ひとりで泣いてた」


「今も、そうだよ」


「知ってる。だから来たの」


ルカの瞳に、涙が浮かんでいた。


「大人になった私は、やっと自分のことが好きになれた。でもね、時々思い出すの。あの頃の私のこと。助けてあげたかったって。『大丈夫だよ』って言ってあげたかったって」


「大丈夫じゃない!」


私は叫んだ。


「毎日鏡を見るのが怖い。人の視線が怖い。『かわいい』って言葉が怖い。こんなの、全然大丈夫じゃない!」


涙が溢れてきた。止まらない。


「みんなは優しいけど、本当は思ってるんでしょ? 『ひよりは結局変われない』って。『魔法使っても、中身は同じ』って」


「違う」


「違わない! だって私、まだ自分のこと——」


「嫌い、でしょ?」


ルカが私の言葉を継いだ。


「うん。14歳の私は、自分が大嫌いだった」


静かな声だった。でも、その中には深い痛みがあった。


「朝起きて、最初に思うのは『今日も私か』。夜寝る前に思うのは『明日も私なんだ』。その繰り返し」


「そう、それ……」


「でもね」


ルカは立ち上がった。そして、部室の隅にあるメイクボックスから、小さなチークを取り出した。


「28歳の私は、こう思えるようになったの。『今日も私でよかった』って」


チークのコンパクトを開く。淡いピンク色が、電灯の光を反射してキラキラと輝いた。


「いつ変わったの?」


「変わってない」


え? と私は顔を上げた。


「今でも、自分が嫌いになる日はある。鏡を見たくない朝もある。でも——」


ルカは私の前にしゃがんで、チークのブラシを差し出した。


「そんな日でも、チークは塗るの。泣いた顔にも、笑えない顔にも。だって——」


「だって?」


「今日を生きてる私に、ご褒美をあげたいから」


私は震える手でブラシを受け取った。涙でぐちゃぐちゃの顔。きっと今、世界で一番みっともない。


「魔法、使わないの?」


「使わない」


ルカははっきりと言った。


「泣きながらでも、自分でできるよ。ひよりちゃんなら」


ブラシを頬に当てる。ひんやりとした感触。でも、不思議と怖くなかった。


くるくると円を描く。涙の跡の上を、ピンク色が優しくなぞっていく。


「あ……」


鏡を見た。泣き腫らした目。涙の跡。でも、頬にはほんのりとピンクが乗っていた。


「ほら」


ルカが微笑んだ。


「泣きながらでも、進んでる。それがいちばん強い」


また涙が溢れた。でも、さっきとは違う涙だった。


「これでいいの? こんな顔で」


「いいよ。今のひよりちゃんが、一番ひよりちゃんらしい」


私は鏡の中の自分をもう一度見つめた。確かにひどい顔だ。でも——


「ちょっとだけ、かわいいかも」


小さく呟いた言葉に、ルカが大きく頷いた。


「それが魔法の始まりだよ」


部室のドアが開いて、アリサとミオが入ってきた。二人とも、私の顔を見て驚いた様子だったけど、何も聞かなかった。


「ひよりちゃん、明日の準備できてる?」


アリサが普通に話しかけてくる。


「明日?」


「全校集会でしょ。生徒会との話し合いの結果を発表するんだから」


そうだった。魔法禁止令を巡る議論の結論を、全校生徒の前で話すことになっていた。


「私、人前で話すなんて……」


「大丈夫」


ミオが私の隣に座った。


「ひよりちゃんの言葉なら、きっとみんなに届く」


「でも、私なんかが——」


「『私なんか』は禁止」


アリサがビシッと指を立てた。


「ひよりちゃんは、もう『私なんか』じゃない。ちゃんと前を向いて歩いてる女の子よ」


ルカが静かに頷いている。未来の私は、きっと明日のことも知っているんだろう。でも、何も言わない。ただ、信じてくれている。


私は深呼吸をした。そして、もう一度チークを塗り直した。今度は、ちゃんと鏡を見ながら。


「明日、がんばってみる」


「その意気!」


アリサが嬉しそうに手を叩いた。


夜、家に帰ってからも、私はチークを落とさなかった。お母さんに「どうしたの?」って聞かれたけど、「ちょっとね」って笑ってごまかした。


ベッドに入って、天井を見つめる。


未来の私が、過去の私を助けに来た。


それって、つまり——私はこの先、自分のことを好きになれるってことだ。完全じゃなくても、時々嫌いになっても、それでも「私でよかった」って思える日が来る。


スマホが震えた。ユウナからのメッセージだった。


『明日、応援してるね。ひよりちゃんの話、楽しみ』


続いて、クラスメイトたちからもメッセージが届く。みんな、明日のことを気にかけてくれている。


私は返信した。


『ありがとう。泣いちゃうかもしれないけど、がんばる』


『泣いてもいいよ。ひよりちゃんの涙、きれいだもん』


ユウナの返事に、また涙が出そうになった。


枕元に置いたチークのコンパクトを見つめる。魔法じゃない。ただのメイク道具。でも、今日の私には、これが一番の魔法だった。


窓の外で、星が瞬いている。


明日も、きっと泣くだろう。震えるだろう。でも——


「泣きながらでも、進んでみる」


呟いた言葉は、暗闇に溶けていった。でも、確かに私の中に残った。


明日の私も、きっとちょっとだけ、かわいい。


涙の跡にチークを差して、私は静かに目を閉じた。


(第16話 完)

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