第4話



「……ここまで来ればもういいかな」



 青年はある細い路地に入って後方を見ると、そこへ抱え上げていたミルグレンの身体をゆっくりと下ろしてくれた。

 彼女は鳶色の大きな瞳を見開いて青年を見ている。

 青年は術衣のフードを頭から被っていて、顔はよく見えなかった。


(でも、私が、……この人の声を聞き間違えるわけはない……)



「怪我はない? レイン」



 ミルグレンがこの世で唯一、その特別な名前の呼び方を許した人。


 隠すこともなかった。

 彼は腰を屈めてミルグレンの顔を覗き込んで来る。

 見返したフードの奥で翡翠のような綺麗な瞳が、優しく揺らめいたのだった。

 ミルグレンは震える手で、青年のフードをゆっくりと後ろへ下ろした。


 青年はそれを許し、じっとしている。

 パサと軽い音を立ててフードが下がると、そこから柔らかな栗色の髪が現われて――その髪の色も、目の色もミルグレンが頭に思い描いて望んだ通りの色で、それを見た瞬間にはもう彼女は男の身体に飛びついていた。



「メリク様!」



 メリクの身体に飛びついて、両腕を回して抱きついたのに彼はじっとしている。


 ミルグレンは一瞬心を揺らした。

 間違ったことをしたような気になったのだ。


 しかし少し遅れて、そっとメリクがミルグレンを抱きしめてくれたことで、凍り付きそうだった心が溶けて、後はもう一気に心の全てが彼の方へと流れて行くのを彼女は止められなかった。


 気付けばミルグレンはそのまま、メリクがいなくなってからとても淋しかったのだということ、サンゴールの内情が今不安定なこと、その中で自分がどうすればいいのか分からないこと、不安なこと迷っていること、誰にも言えず思い悩んでいたことを、堰を切ったように全てを彼に向って話していた。


 メリクはそれを待ってくれと遮ることもなく、ミルグレンを抱きしめたままじっと聞いてくれた。



 夢中で喋り続けていた会話がようやく途切れる。

 高まった感情は涙に変わって、全くあとで思い起こせば自分でも制御出来ない激しい感情表現には、自分でも笑うばかりなのだが、その時のミルグレンにはメリクに話すことと訴えること、その二つのことしか選べる余裕がなかったのである。


 やがてミルグレンが鼻をすするのをようやく止めた頃、メリクはちょっと待っていてと自分の上着で彼女を包んで止める間もなくどこかへ去り、彼女が不安で堪らなくなる前にはもう戻って来た。


 ミルグレンの両手に温かなお茶が入ったカップを持たせる。

 彼女の手がひどく震えているので、一口飲み込む所まで手を重ねていてくれた。

 こくりと温かいものが喉を通ると、ようやくミルグレンは気持ちを落ち着かせることが出来た。


「……大丈夫?」


 メリクがそっと聞いて来たのでミルグレンは頷いた。

 彼の手がゆっくりと離れて行く。

「……メリクさま……」

 ミルグレンが恐る恐るメリクを見ると、彼もミルグレンの方を見ていた。

 しばらくの沈黙の後、彼は瞳を伏せた。



「…………ごめんね、レイン」



 ぽつりとそれだけを彼は言った。

 短いけど、そこには色んな思いが詰まっているように少女には思えた。



◇    ◇    ◇



「……サンゴールを出て……どうしていたんですか?」



 そう、それが一番聞きたいことなのだ。

 ミルグレンにとってはそれは『何故出て行ったのか』よりもある意味で重要な問いだった。

「どうしていたって……」

 メリクは困ったように笑う。

「ただ、世界中をあてもなくだよ。……今は吟遊詩人まがいのことをしてるよ」

 メリクが背に負っている手琴を見てミルグレンは目を丸くする。

「似合わないよね」

「ふふっ……」

 思った事を言い当てられ彼女はようやく笑った。

 城で手琴を弾いているメリクなんか見た事無いのはもちろんだし、王城にいる時のメリクはもの静かで、人の集まる所を苦手とするような所すらあった。


 人に囲まれながら詩を歌ったり演奏するなんて信じられない。

 らしくなかった。

 でも……。


 ミルグレンは澄んだ鳶色の目で彼の全部を見つめた。


 やはりまた背が、伸びていた。

 ミルグレンの記憶の中のメリクよりももっとだ。

 あれから四年過ぎている。


(二十……一歳、だよね?)


 すらりと伸びた全身は、ミルグレンと並ぶと彼女はメリクの胸ほどにしか至らない。

 あの子はもっと背が伸びるかもしれないとアミアが言っていたがその通りになった。

 城にいた頃にあったあどけなさが消え、身体のどこもかしこもが大人びている。

 ミルグレンの髪を撫でる手は骨が浮き出て見え、指は長かった。


 でも瞳は。


 瞳は変わってない。

 綺麗な色。


 ううん、でも何かが違う気もする。

 少女は考える。

 何も変わらない優しい、不思議な色。

 でもどこか……深みを増したように思えた。

 その深みが何なのか、

 まだ少女であるミルグレンには分からなかったがそれを考えるとドキドキした。


 よく知っているメリクなのに、知らない男の人を見てるようにすら思えた。

 幼い頃はこの人と一緒に育ったなんて信じられない。

 私はどんな顔でこの人にワガママを言ったり困らせたりしていたんだろうと、胸がときめく。


 ……声も、不思議な響きがあった。


 これはメリクが過ごした四年の時が与えたもので、その少し低い穏やかな音がひどく心地良い。

「……世界を回って……その印象なんだけれど。……どうも不死者がやっぱり増えて来ているようなんだ」

「お母様も言ってました。何か、起こる前触れなんじゃないかって。

 それでねメリク様、リュティス叔父様が倒れたのも最近サンゴールの周辺に不死者が多くてその討伐に忙しくてなの」

 こっちを見たメリクの目が一瞬揺らめいたように見えたが、彼はすぐに視線を落としてそう……、と頷いた。


「メリク様、このまま城に――」


「レイン」


 壁に寄りかかっていたメリクは身を屈めた。

 ミルグレンの前に片膝をつき彼女と視線を合わせて、静かな声で言った。

「俺は、……二度とサンゴール城には戻らないよ」


 俺、という一人称。


 城にいた頃は使っていなかったものだ。

 それだけではない。

 言葉の端々に城にいた頃のメリクにはなかった言葉の言い回しや響きがあった。

「メリク様……」

「今回サンゴールに来たのも、本当に偶然旅の途中で立ち寄っただけなんだ」

「そんな……嘘です」

 メリクは会いに来てくれたのだと、自分に会いに来てくれたのだとミルグレンは思っていた。

 自分が一番求めている時に、やっぱり現われてくれたと。


 しかしメリクは首を振る。


「本当だよ。サンゴールを出てからは四年間一度もこの地は訪れたことはなかったし……今回も本当にたまたまなんだ。

 この旧市街で夜を過ごしたらそのまま出て行くつもりだった。

 ミルグレンがあんなところにいるとも思ってなかったよ。……不思議だね」


 ミルグレンはメリクの翡翠の瞳を見つめる。

「これから、どこに行くんですか?」

「うん……さっき吟遊詩人をしてるって言ったけど、本当は行く先々で魔術的な問題とかも片付けて生計を立ててる。まぁ求められた時だけだけどね。世界には魔術を嫌う場所もあるから、そういう場所では魔術師だというだけで不利益を蒙ることもある。だから吟遊詩人と名乗っていらない問題を避けてるんだ」

「そうなんですか?」


「うん。……まぁ……俺にはこれしかなかったから」


 彼は苦笑する。

 でもミルグレンは笑えなかった。

 それはそうだ。

 ミルグレンもずっとそれが気がかりだった。


 五歳の時に故郷を滅ぼされ、彼はアミアに保護されてサンゴールにやって来た。

 そしてそれからのサンゴールでの暮らしを彼はずっと魔術師として過ごしたのだ。

 確かに王宮で育った当時十七歳の彼がある日国を飛び出して、何が出来るかと言ったら魔術しか出来ないだろう。


 しかしメリクには魔術師として類い稀な才能があった。

 だからこそあの【魔眼まがん】の保有者たる第二王子リュティスの唯一の弟子ともなれたのだから。

 魔術という術があって本当に良かったと思う。

 ミルグレンは魔術が彼を身の危険から救ってくれたのだと考えた。


「さっき言った通り、最近どうも不死者や魔物がエデン各地で増えてる気がするんだ。

 まぁ人助けの旅なんて言うつもりはないけど。行く先々でそういうものに苦しめられる人がもしいたら、力を貸せたらなとは思うよ」


 自分の心がすでにこの世に執着していないことをメリクは言えなかった。

 彼にそういう説明をさせたのは今、旅を供にする少年だった。

 すでに本当の旅の主導権を、エドアルトにメリクは与えている。

 彼がもし何かを救いたいと言ったら、可能ならそれに自分の力も使った。


 メリクはどこへでも行く気があるが、同時にどこにも行きたいと思えないから。


 全てはあの少年が望む場所へ、共に足を運んでいる。


「……今度はそうだね……ベルイードを越えマルメについたら船で西に向かおうと思ってる。サラグリアのあたりは小さな村が多いから……困ってる人間もいるかもしれないんだ」


 エドアルトが言っていた言葉を思い出しながら、メリクは話した。

「でもメリク様、せめて一目お母様に」

「……それは出来ない。

 ……俺はね、レイン。サンゴールではもう死んだ人間なんだ。

 亡霊は、いつまでも生前の縁に縋り付くべきじゃない」


 驚いた。

 死んだなんて。

 ミルグレンは首を振る。


「でもメリク様は私を助けてくれました!」

「それはレインだったから」

「えっ?」

「君だったから会えた。……でも女王陛下や第二王子殿下には無理だ。通用しない」

「……どういうことですか?」

 メリクは小さく笑んだ。

「君だけは昔から俺を俺として見てくれたから」

「え……」


「『女王の拾い子』でも『王家の異端』でもない。

 君はいつもただの『メリク』として俺を扱ってくれた。……嬉しかったよ」


 与えられる優しい声にミルグレンはドキドキする。

「メリクさま……」

「…………それなのに君に何も言わないまま、ありがとうも言えないまま去ってしまってごめん。……でも、会えて良かった」


 メリクの口調は少しぎこちない。

 何かを考えながら話しているようだった。

 彼は立ち上がる。


「城まで送るよ」


 嬉しい。でも、彼が別に自分に会いに来てくれたわけではないことは確かに大きな失望の一つだった。

「……大丈夫です」

「こんな夜に一人で戻せない。お願いだから送らせて」

 メリクがミルグレンの頭を優しく撫でる。

 ミルグレンは大きな瞳でメリクを見上げた。

 うん、と彼女は頷いた。



◇    ◇    ◇


 ……何を話したか、よく覚えていない。


 でもずっと手を繋いでいた。

 隣のメリクを何度も見上げた。

 やっぱりの視線が以前よりも遠い。

 時折こちらにくれる視線がひどく優しくて、ああメリク様は何も変わっていないと少女は安心する。

 暗い夜道。

 でもメリクとなら安堵し切って歩き続けた。

 やがて辿り着く、城への一本道。

 メリクが足を止めた。


「……ここでお別れだ」


「メリク様」

「ここから先は俺は行けない。大丈夫、君が城に入るまでここで見ているから。安心して」

「本当に、城に来てくれないんですか?」

「うん。……俺に会ったこともね。……誰にも言わないで」

「えっ、どうしてですか⁉」

 メリクは慌てて振り返ったミルグレンの問いに目を瞬かせてから、本当に微かな、分からないくらいの微笑を浮かべた。


「……何にもならないから」


「何にもならない……?」

「君に、俺がこんなことを言う資格はないと思うけど――」


 ミルグレンは首を振る。

 資格なんか関係ない。

 メリクは思った事を全部ミルグレンに言っていいのだ。


 …………言ってほしい。

 少女は思った。



「……女王陛下は本当に……優しい方だから」



「……メリクさま……」


「だから……悲しませるだけだからどうか言わないで。

 今更俺の名を出してあの方の心を波立たせたくない。

 特に今は大変な時期だ。

 あの方は国のことを一番に考えなくては。

 そこにサンゴールを捨てた俺のことは含まれなくていい。

 俺はあの方にヴィノで命を救っていただいた。その恩には報いたい。

 でもすでにその恩は俺が自分の手で仇として返してしまった。

 だから今はせめて全てなかったことにして……女王陛下にはただこの国と、それからご自分の身体のこともね、レイン……」


 メリクは幼い頃と同じようにミルグレンの頭を優しく撫でた。


「あの方は広い世界のことを常に考えてる方だから、その分時々自分が見え難い。

 どうか君が側にいて……無理をしすぎて身体が壊れてしまわないように見守ってあげてほしいんだ。あの方には、もう君しかいないから」


「メリク様……」


 ミルグレンが泣き出しそうな声を出すと、メリクは笑う。

「ミルグレン、泣かないで」

「……。」

「…………笑っていて」

「……。」

「俺が城に来てまだ心許ない頃、君の笑顔を見るとホッとした。

 元気づけられるような気がした。何度も慰められたよ」

「メリク様」

「この世には、存在するだけで人の心を照らすような者がいるんだ、レイン。

 君にはそういう力がある。

 今、世界も……サンゴールも……誰もが不安に思う時期に差し掛かっているのかもしれない。だからサンゴールという国も……女王陛下も、君という光が必要なんだ」


 ミルグレンは驚いた。

 考えたこともなかった。

 自分が国やアミアにとっての光、なんて。

 城でも王族としてもいつも何も出来ないと思っていた。

 自分だけが役立たずだと。


「……その優しさと明るさを失わずにね」

「……。」

「どうか側にいてあげて」


 ミルグレンの肩をそっと彼は城の方へ押し出した。

 一歩ずつ、彼女は歩いて行く。


「振り返らないで、レイン。城まで歩いて行くんだ。……いいね?」


 ミルグレンは頷いて、歩いて行った。

 門の所まで行く。

 当然閉まってはいるがここを壁伝いに西の尖塔方面へ歩いて行けば、抜け道があるのだ。

 ミルグレンは門に手を掛けて一つ息をすると、上って来た坂道をゆっくりと振り返った。



 ……そこにはもう、誰の姿もなかった。



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